09.キャロットケーキ
「あ。今朝焼いたばかりのキャロットケーキがあるの。一緒に――」
立ち上がりかけたリリアナに手を向けて制するノア。
「座ってて」
キッチンへ戻り、皿に切り分けて運んでくる。
「そう言えば、父さんは?」
事務所兼作業場も案内してもらったが、そこでは姿を見かけなかった。
「昔のお友達に会いに行っていて、1週間くらい前から留守なのよ」
「え」
思わず手が止まるノア。
ゆっくりと、信じられないものを見るように母に視線を向けた。
「父さんがいないのに、今日までよく無事でいられたな」
一歩外に出れば怪我をし、家の中は台風の後のように荒す母である。
「私は1人で大丈夫だって言ったのよ? でもナツミちゃんやオリヴィアちゃん、従業員の皆さんが気を配ってくれて」
本人はまるで自覚がない。ニコニコと微笑みながら、ノアが淹れたお茶に口をつける。
向かいでは、レティシアがキャロットケーキを口に含んだ。
「このケーキ、とっても美味しいです……! シナモンの香りが人参の甘さを引き立てていますね」
「あら、嬉しい! その人参は、パパが育てたものなの。人参が嫌いなノアちゃんも、このケーキなら食べてくれるのよ」
「……」
ノアは無言でケーキを頬張る。
リリアナは壊滅的に家事ができない。しかし料理、特にお菓子作りだけは例外だった。
「ブロッコリーも、クッキーに入れたら食べられるものね?」
「食べられるけど、そこまでしてなんで――」
「愛ですわ!」
ジト目のノアを遮り、レティシアが感動の声を上げた。
「お父様が丹精込めて育てられたお野菜を、愛しい我が子に美味しく食べてもらえるように工夫を重ねられるなんて……お母様の深い愛情を感じますわ!」
「ふふっ。ありがとう」
微笑み合う女二人。
「でもね、本当に愛情深いのはパパの方なの」
「お父様ですか?」
「パパが最初に作った野菜はトマトなのよ。トマトが苦手なノアちゃんに食べてもらえるように、甘くて美味しいトマトを作るんだって」
そう言ってリリアナは席を立ち、棚の上の写真立てを手に戻ってきた。
そこには微笑むリリアナと、カブトムシを掲げて笑う幼いノア。そして、こめかみから太い2本の角を生やした、夜道でバッタリ遭遇すれば悲鳴を上げて失神するレベルの強面の男が映っている。
「こちらの方が、お父様ですか?」
「そう。『覚醒の魔王』っていう魔族なんだけど、みんなからは『カクさん』って呼ばれているの。イケメンでしょ?」
「はい。とても雄々しくて、強そうな方です。ノア様の瞳の色は、お父様譲りなんですね」
さらりと言ったレティシアに、リリアナは目を瞬かせた。
「初めてパパを見る人は、大抵ビックリするのだけれど……レティシアちゃんは変わってるのねぇ」
「そうでしょうか?」
レティシアはそっと写真を見つめる。
「だって、とてもお優しい目元をされていますから」
写真に映る魔王の視線は、確かに我が子に向けられていた。
そんな2人の光景を前に、ノアはますます居心地が悪くなり、お茶とケーキを流し込むように口へと運んだ。
⭐︎
一方、エヴァンの家――
落ち着いた色彩で統一されたダイニングに響くのは、カトラリーが皿に触れる音だけだった。
食卓を囲むのはエヴァンと両親。そしてエヴァンよりも年上の眼鏡の男がひとり。
「まったく……『勇者』などと大層な話を聞いた時は肝を冷やしたぞ」
父親は静かにフォークを置き、ワイングラスを持ち上げる。赤い液体がゆらりと揺れた。
「悪友たちに唆されて魔法学部などに進んだ時はどうなることかと思ったが、王室との縁が出来たのならば悪くない。先日の使者の話では、卒業後は王室の近くに取り立ててくださるそうだな」
淡々とした口調。そこに見えるのは、安堵というよりも打算だ。
エヴァンは無表情のまま、食事を続ける。
「穀潰しにならずにすみそうで、安心した」
「……僕は、卒業後この村の役所で働くつもりだけど」
目も合わさず言い放つエヴァン。
一瞬の沈黙の後、父親の隣に座る男が堪えきれずに吹き出した。
「は? この村の役所? 馬鹿じゃないのか、お前」
肩を震わせながら、嘲るように笑う。
「……兄さん」
「代々うちは医者の家系だろ。ま、父さんの病院は俺が継ぐから、お前は役人でも農業でも好きにすればいいさ」
母親――オリヴィアが小さく息をついた。
「セオドア。せっかくエヴァンが帰ってきたのだから、そんな言い方しないで」
「兄として、現実を教えてやっているだけだよ。そろそろ将来を真面目に考えろってな」
「ご忠告どうも」
口元をナプキンで拭い、エヴァンは静かに席を立つ。
「僕からも現実を教えてあげるけど――その眼鏡、ダサいよ」
「……っ!」
セオドアの顔がみるみる赤くなる。振り返ることなく退室していく弟を、怒りのこもった眼差しで見送った。
(ホント、つまんない家だな……)
エヴァンは自室のベッドに身を投げ出し、天井を見上げる。
父は当然のように、息子が医学部へ進むと思っていた。
人の命を救う尊い仕事だと思うし、その父のことも尊敬はしている。だがどうしても、興味が持てなかった。だからエヴァンは、自分のやりたい道を選んだのだ。
父と兄は、それが気に入らないのだと分かっている。もともと兄とは、昔から反りが合わなかった。
エヴァンが大きな息を吐いた時、部屋のドアが短く2回ノックされた。
「エヴァン」
ドア越しの、母の声。
「他所へ届け物があるの。夜道だから、付き添ってちょうだい」
「……いいよ」
体を起こし、ドアを開けた。
「こんな時間に届けに行かなければいけないような、大事な物なのか」
玄関先では呆れた声の父が腕を組んでいた。
オリヴィアは小さく微笑む。
「昼間は病院の手伝いがありますから」
「……エヴァン。母さんを頼んだぞ」
その言葉に小さく頷き、エヴァンは外へ出た。
外はすっかり闇が落ち、足元も心許ない。アストリアムのような魔法灯もない村だ。
エヴァンは手の中に魔法で明かりを灯し、淡い光で地面を照らした。
虫の声が四方から響いている。
きっとノアならば鳴き声を聞き分けて、名前を言い当てるのだろうな――とぼんやりと思う。
「……本当に」
前を歩く母が、ぽつりと呟いた。
「本っっ当につまんない家よねぇ!? エヴァンが帰って来なくなったら、どうしてくれるのよっ!」
家の中での態度とは一転、オリヴィアは溜まっていたものを吐き出すように言い放つ。
「ごめんなさいね、エヴァン。父さんもセオドアも、悪い人じゃないのよ。ただ――」
振り返り、オリヴィアは慈愛に満ちた目で息子を見る。
「性格が捻じ曲がってるの。すごく……嫌な奴なのよ」
「夫と息子に対する感想として、それは大丈夫なの?」
思わずエヴァンの口元が緩み、つられて母も笑った。
「それで、どこに何を届けに行くの?」
「決まってるじゃない。リリアナのところで一杯やるの」
オリヴィアは手提げ鞄に忍ばせた一升瓶を、ちらりと見せる。
「リリアナの旦那、しばらく前から留守なのよ。だから最近、毎晩家に入り浸ってるの」
「父さんたちは何も言わないの?」
「毎晩病院の難しい話し合いしていて、あたしがいつ出て行って帰ってきたかも気付いてないわよ」
あっけらかんとオリヴィアは笑う。
エヴァンから見れば、どこか歪な夫婦関係に映る。それでも不思議と、破綻はしていない。
母は母なりに、こうやって時々息を抜いてあの家で生きている。
そしてまた、エヴァンが窒息しないよう、彼のこともこうして連れ出してくれるのだ。




