35.スキー
勢い良く斜面へと躍り出たノアだったが、その勢いは一瞬で制御を失った。
スキー板はあらぬ方向を向き、バランスを失って派手に尻餅をつく。
すぐに立ち上がろうと腰を浮かせるものの、スキー板で固定された足元はツルツルと滑るばかり。生まれたての子鹿のように膝をガクガクと震わせ、ようやく立ち上がったかと思えば、次の瞬間には顔面から雪の中へと突っ込んだ。
「く……っ! なかなか手強い……!」
気を取り直して滑り出すが、向かいたい方向やスピードのコントロールが出来ずに何度も転び――最終的に斜面を転がり落ちていく。
そんな魔王の息子を、氷竜は困惑の入り混じった眼差しで見つめていた。
(なんだ……? あれが正しいスキーの滑り方なのか……?)
初めてのスキー。正しいフォームなど知る由もないが、氷竜は持ち前の身体能力で危なげなく雪面を滑り降りていた。
(わからん……が、勝負は早く麓に到着した方の勝ち。悪いが、負けるつもりはない!)
氷竜は重心を低く落とし、鋭い視線で前を見据える。
(足を開く角度、腰の据え方、膝のクッション……なるほど。こうすれば風を味方につけられるのか)
一瞬でコツを掴んだ氷竜の進路に、岩で隆起した地面が現れた。
だが、氷竜は初心者の範疇を超えたエッジ捌きでターンを決め、鮮やかなジャンプで飛び越えてみせる。
「おお……!」
思わずゴールの方角から、感嘆の声が上がった。
「ふ……っ」
不敵な笑みを浮かべ、氷竜は後方のノアを振り返った。彼は相変わらず、立ち上がっては転び、転んでは転がり落ちるという独自のスタイルを貫いている。
「……心地良い風だ」
竜の姿で空を飛ぶ時とはまた違う。
剥き出しの身一つで滑走するスリルと高揚感に、氷竜の胸は静かに高鳴り、知らぬ間に口元には笑みが浮かんでいた。
そして――
完膚なきまでにノアとの大差をつけて、氷竜がゴール地点へと到達した。
「……え……?」
「負け……たのか?」
呆然と口を開くエデンとノブ。ルルと魔王は、揃って深いため息を吐いて額を押さえた。
「ちょっ……! 笑いごとじゃないですって、ララさん……!」
「だって……っ! ノア君、あんなに自信満々だったのに……ふふっ……!」
エヴァンとララは、互いに声を殺しながらも爆笑している。
そんな中、お尻で滑り降りてきたノアに、レティシアが駆け寄った。
「ノア様! お怪我はありませんか!?」
「……スキーなど、少しも楽しくない」
ノアはスキー板を取り外しながら、不満げに下唇を突き出す。
「ノア……あんた、本当はスキーをやってみたかっただけでしょ?」
半眼で言い放つルルに、ノアは悪びれる様子もなく頷いた。
「どこかの勇者が、『自信があれば何でもできる』と豪語していたからな。試してみたまでだ」
「練習もせずにできるわけがないでしょ!? どうするのよ、負けたのよ!? 氷竜の要求通り、スキー場を撤退させなきゃいけないのよ!?」
懇々と説教を垂れるルルの後ろで、勝者であるはずの氷竜は、自身の足元にあるスキー板をまじまじと観察していた。
「この板……接地面をさらに滑らかに削れば摩擦の抵抗が減り、もっと速度が出るのではないか?」
「ま、まぁ……それは魔王さんが急拵えで作ってくださった、簡易品ですから……正規品は街でも買えますし、スキー場でレンタルも……」
おずおずとエデンが返答すると、氷竜は顎に手を当て何やら思案する。
「……ふむ。滑り降りる爽快感は認めるが、一度降りてからまた頂まで自力で登るのは、些か興が削がれるな」
「あ……な、なので魔法使いを雇ってリフトを動かす予定だったんです……それなら自動で上まで運んでくれますから……」
「ほう……?」
氷竜の瞳に、興味深そうな光が宿った。
「――魔族よ。ルールはルールだ」
ノブが悔しさに拳を震わせ、苦渋の決断を下す。
「父上に、ホテル建設の中断を掛け合ってみよう。しかし――」
「待て」
氷竜が片手を挙げ、その言葉を遮った。
「ホテルとやらの建設は、続けるが良い」
「どういう事だ……?」
困惑するノブに対し、氷竜は傲然と、しかしどこか弾んだ声で続けた。
「但し条件がある。一つ、スキー場の区間を明確に定めること。そこを越えた人間は、我々は容赦なく排除する」
「……ああ」
「そしてもう一つ。スキー場が完成した暁には、私を一番に招待することだ」
ノブは訝しげに眉を顰める。
「私は人間共の通貨は持ち合わせていないからな。故に、いつでも装備品の貸し出しが出来るようにし、リフトも乗り放題にするのだ。この二つの条件が呑めると言うのならば、エルデシュタイン高原のスキー場建設を認めてやろう」
ノブは黙考し、氷竜が提示した条件を頭の中で反芻した。
何度も、何度も咀嚼し、あらゆる角度からその言葉の真意を探ろうと試みる。しかし、どれほど深読みしようとも、辿り着く答えはたった一つしかなかった。
「お前……スキー、気に入ったのか……?」
問われた氷竜は、そっと明後日の方向を見遣った。その顔は心なしか照れ臭そうで、静かに、そして深く頷く。
あまりに拍子抜けな幕引きに、ノブが二の句を継げずに立ち尽くしていると、感極まったレティシアの声が響き渡った。
「ああ……! さすがですわ、ノア様!」
レティシアは胸の前で両手を組み、潤んだ瞳でノアを見つめる。
「スキーの素晴らしさを実際に体験していただくことで、氷竜様の頑な心を溶かしてしまわれるなんて……! その上で、ご自身は敢えて敗者を演じる事で、氷竜様の自尊心をも守り抜かれる……これほどまでに完璧な和平の策が、他にありましょうか……!」
最大級の賞賛を浴びたノアは、しばし動きを止めた。
そして、これ以上ないほど堂々と胸を張り、言い放つ。
「ああ。すべて計算通りだ」
「ノア君? 絶対に何も考えてなかったよね……?」
「ティア様はノアに甘すぎるってば!」
魔王の呆れたツッコミも、ルルの声も、今のノアには聞こえていない。
試合に負けて、勝負に勝った。――そういうことに、なったらしい。




