32.親子水入らず
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「あぁー……やっぱり温泉は最高だなぁ」
湯船に肩まで浸かり、魔王は腹の底からほっとした吐息を漏らした。
昨日は猛吹雪で閉鎖されていた露天風呂だが、今日は穏やかな晴天。本来なら鮮やかな紅葉に彩られているはずの眼前には、今は厚い雪に覆われた銀世界が広がっている。
しめやかな外の景色とは対照的に内湯では、面構えの恐ろしい魔族を見たお年寄りたちが、この世の終わりと勘違いをして腰を抜かしていた。
「あ……ミズアブだ」
露天風呂の隅、雪を被った岩場の陰に小さな影を発見し、ノアの顔がわずかに緩む。思えばこの旅館へ来て、初めて見る虫である。
「ノア君は本当に虫が好きだねぇ。イチゴ栽培が軌道に乗ったら、次は養蜂でも始めてみようか」
「それなら俺も手伝いたい。面白そうだ」
ようやく戻ってきた息子の前向きな声に、魔王は目を細めて微笑んだ。
「……うちに、帰ってくるかい?」
ノアは少し驚いた顔をして、父を見上げる。
「ノア君の『癇癪』に、毎回エヴァン君とルルちゃんを付き合わせるのも悪いからねぇ」
「……」
口を閉ざして俯くノアに、魔王は続けた。
「中途半端にパパの血を受け継いでしまったせいで、ノア君には辛い思いをさせて申し訳ないと思っているんだよ。パパの近くにいたら、今回みたいに止めてあげられる。ノア君の力は、パパには効かないからね」
覚醒の魔王は眠らない。強制睡眠の力を持つノアでも、眠らせることはできないのだ。
「もちろん強制はしない。ただ、ノア君の力は人を傷付けないけど……今回みたいに、時と場合によっては危険なこともあるからね」
ノアの脳裏に、エヴァンの肩の怪我が蘇った。エヴァンは自分のミスだと言ったけれど、そのミスを誘発させたのは自分なのだろうとノアは思う。
「……謝らなければいけないのは、俺も同じだな」
ミズアブを指先で軽く突きながら、ぽつりと呟く。
「大学で、力を制御する方法は身につきそうなのかい?」
「制御はまだできないが、眠れるようにはなった」
「ほう? チャッピーが亡くなってからは、とんと眠れなくなっていたのに……一体どうやったんだい?」
魔王は興味深そうに目を丸くし、身を乗り出した。
「レティシアの……」
言いかけて、はたと口を閉ざす。
これまでは人目を憚らずレティシアの膝を枕にしていたが、さすがに親に知られるのは少し……いや、かなり恥ずかしいことではないだろうか。
「……なんでもない」
「レティシアちゃんって言うのは、あの例の王女様だろう? ノア君が気絶している間、ずっと頬を冷やしてくれていたんだよ。あの子――ノア君のことが好きなんだねぇ」
事もなげに、それでいて確信に満ちた笑顔で言い放つ父親に、ノアは気まずそうに目線を逸らして沈黙した。
「ずっと涙と鼻水を垂らしながら泣いていたよ。ノア君を止められなかった、って。拒絶されたらと思うと、躊躇してしまったんだって言っていたよ」
「拒絶なんか……」
「なんだかあの子、リリアナさんに少し雰囲気が似てるよね」
ノアも感じていたことを、魔王も同じように指摘する。
「母さんと似ているなら、やっぱり……面倒なんだろうな」
「え? なにが?」
「母さんは目を離すとすぐに怪我をするし、外では迷子になるし、悪い奴にすぐ騙される。毎月何かしらの記念日を作って、こっちが忘れるとめちゃくちゃ拗ねて面倒臭い。そんな母さんに何年も付き合っている父さんを、俺はどうかしてると思っている」
「あ、そうだった……っ! 明日は『初めてデートした記念日』だった! 花束買って帰らなきゃ……」
ちなみに1週間後には、『初めてお揃いのキーホルダーを買った記念日』が控えている。
「……そうかぁ。ノア君の目にはそう映っているんだね。でもね、パパはリリアナさんが面倒だなんて思ったことは一度もないよ」
「前髪を数ミリ切ったことに気付かなかっただけで、3日間も口をきいて貰えなかった時も?」
「あー……うん……あの時はちょっと……うん」
苦い記憶が蘇り、思わず遠い目を向ける魔王。
「それでも、パパはリリアナさんが大好きだからね。リリアナさんの笑顔を見ると世界が明るくなるし、隣にいてくれると安心する。未だに手を繋ぐだけで、天にも昇る心地になれるんだよ」
ノアの脳裏に、不意にレティシアの穏やかな笑顔が浮かんだ。
自分の話を聞く時のキラキラした目。
耳に心地よい声。
膝に頭を乗せた時、髪に触れる指先の温度――
思い出す毎に、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
だが、その微笑みを向けられる相手がノブにすり替わった途端、その熱はドロドロとした暗い何かへと変化した。
「……俺は、魔族だ」
「パパなんて魔王だよ」
「真面目に話そうとしたのに、初っ端からへし折るのやめてくれないか」
そっぽを向くノアに、魔王は笑いながらゴメンゴメンと手を合わせる。
「今回ノブにレティシアの膝を取られて、はっきりした。俺にはすごく……攻撃的な一面がある」
「ふむ?」
「レティシアに笑顔を向けられているノブも、褒められているノブも、あいつがレティシアを愛称で呼ぶのも、距離が近いのも、触れるのも全部許せない。あいつを叩きのめしたいという、どす黒い衝動が湧き起こるんだ」
ノアは片手で顔を覆い、悲劇の主人公のような面持ちで続けた。
「こんな危険な衝動は生まれて初めてだ。これはきっと――俺に流れる魔族の血が、本能的に破壊を求めて暴れようとしているんだ……!」
「いやいや、違うと思うよ? それは単なる嫉妬――」
「この破壊衝動がいつか仲間たちにも向けられたらと思うと……! やはり俺はレティシアやエヴァンたちと、距離を置くべきなのかもしれない……!」
「ノア君? 今まで君、自分の血筋とか1ミリも気にしたことなかったよね? パパは逆に、ちょっとくらい気にした方がいいんじゃないかなって思ってたくらいなんだけど」
魔王が息子のとんでもない方向へ向かう思考を止めようとした、その時。
簡易的な壁の向こう――女湯の方から、レティシアの叫びが上がった。
「ノア様っ!」
「レティシア……?」
「それは違います、ノア様!」
エヴァンが言っていた通り、この露天風呂ではお互いの声は筒抜けなのだ。
レティシアは親子の会話を、全部聞いていた。
「ノア様は、私を王女だからと特別扱いしないではありませんか! それなのにご自身は、魔族だからと一歩引くのですか!?」
レティシアの声は、怒りと悲しみに震えている。
「私の膝枕を拒絶していたのは、その血で私を傷つけると思われたからですか!? そうなのですね!?」
「それは違――」
「ノア様は……っ! 血の衝動に負けたりなんかしません! それでも万が一、負けそうになったら……その時は私が全てを受け止めます! ですから……どうか、勝手に離れたりなんてしないでください……っ!」
涙ぐむその声に絶句するノアの隣で、魔王はさらに遠い目をして呟いた。
「……いい事言ってくれてるんだけど、この子も何か勘違いしているんじゃ……?」
「ノアパパ、大丈夫。この2人がズレてるのは、今に始まったことじゃないから」
女湯から、同じように呆れ果てたルルの声が返ってきた。




