30.ノアパパ
左の頬が、脈打つようにジンジンと痛い。
まどろみの中、ノアはその懐かしい痛みの記憶をなぞっていた。
最後にこれを受けたのはいつだったか。中学生の頃だったような気がする――そんな思考を遮るように、突然肌に触れた冷たい感触に、ノアは重たい瞼を開いた。
「あ、ノア様。大丈夫ですか?」
ぼんやりとした視界に真っ先に飛び込んできたのは、濡れたタオルを握って心配そうに顔を覗き込ませるレティシアだった。
「……レティ――」
その名前を呼びかけ、喉が詰まる。
意識を失う直前の、あの光景が脳裏を過った。
レティシアを馴れ馴れしく『ティア』と呼び、あまつさえ彼女の膝に頭を乗せたノブの姿。
ノアは眉を顰めて口を閉ざし、座布団を丸めた枕から上体を起こした。
「ノア。気分はどう?」
「……最悪だ」
ルルの声に短く吐き捨て、周囲を見渡す。
そこは旅館の一室だった。
エヴァンの肩に治癒魔法を施すルルがいて、そのエヴァンの前で額を畳に擦り付ける氷竜の姿がある。
「本当に、申し訳ございませんでした……!」
「おい! 心がこもってねぇぞ! エヴァン君とルルちゃんはなぁ、ノア君の大事なお友達なんだよ! それを傷付けるなんざ、お前……」
「も、申し訳ございません! 心より……心よりお詫び申し上げます! 知らなかったとは言え、私はなんと愚かなことを……!」
氷竜にドスの利いた怒号を飛ばすのは、久しぶりに見る父だった。
ノアは赤く腫れた頬に触れ、この熱は数年振りに受けた父親の鉄拳の余韻だと理解する。
ふと視線を部屋の隅にやれば、怯えるように身を寄せ合い、遠巻きに魔族たちを眺めているノブたち一行の姿もあった。
「父さん」
「あぁ、ノア君。久しぶりの再会なのに真っ先に手が出ちゃって、ごめんよ」
「いや……多分、来てくれて良かったんだと思う」
ノアは、眉尻を下げて申し訳なさそうに笑う父の隣の友に視線を移す。
エヴァンの肩の傷は深い。ルルの魔法でも、完治するまで時間がかかりそうだ。
「……怪我、俺のせいか?」
「違うよ。余所見をした自分のミスだ」
「ってゆーか、全部コイツのせいでしょ」
ルルはジロリと氷竜を睨みつけた。強大なはずの魔族はびくりと肩を揺らし、頭を低くしたままノアの前に跪く。
「か、覚醒の魔王様のご子息とは露知らず……とんだ無礼をいたしました……! どんな罰も甘んじて受けます……!」
「……エヴァンとレティシアに、ちゃんと謝れ」
それだけを小さな声で呟くと、ノアは膝を抱えるようにして黙り込んでしまった。
「珍しく落ち込んでるね」
「まぁ……今回の『癇癪』は、あんたとティア様を本当に危険な目に遭わせちゃったからね。ノアパパが来てなかったらって考えたら、ゾッとするわ」
エヴァンとルルが小声で囁き合う。
失神していたとは言え、睡眠を取って冷静になった頭で考えれば、どれだけ危ない状況だったのかを理解したのだろう。
いつもならここでレティシアが明るい声を上げそうだが――と、ルルは視線を向けてみたが、レティシアはタオルを握ったまま暗い顔で俯いている。
室内に流れる気まずい空気を破るように、ルルは両手を大きく打ち鳴らした。
「取り敢えず! どうしてノアパパがここにいるのか、その話をしましょうか」
「え? あ、ああ! そうだね」
魔王も何となく空気が重いのを察し、努めて明るく頷く。
「半月ほど前だったかな。どうも気候がおかしいことに気がついてね。ほら、おじさん、畑いじりが趣味でしょう? だから天候の変化には敏感なんだよ」
「一体どういうことなんだ? あいつの父親が魔王で、魔王の趣味が畑いじりだと?」
「ほ、僕に訊かれても……」
「さすがのあたしでも、魔王に色仕掛けする気にはなれないわねぇ」
部屋の隅っこでコソコソと囁き合うノブ一行をよそに、魔王は話を続けた。
「村の近くで、本来なら見ないはずの寒冷地の魔物も見かけるようになってね。これはいよいよ変だと思って、昔のツレを訪ねてみたんだ」
「あ……あの……恐れながら、昔のツレ、とおっしゃいますと……?」
恐る恐る尋ねた氷竜に、魔王は平然と言い放つ。
「氷霊王だ」
「ひいぃぃっ!?」
情けない悲鳴を上げて後ずさる氷竜。
それを冷めた目で見ながら、ルルは隣のエヴァンに目線で詳細を求めた。
「氷霊王は、魔族とも神族ともつかない、神話に出てくるような精霊だね」
「正直、普段のノアパパしか知らないから、適当なホラ吹いてるようにしか聞こえないんだけど」
ルルにとって覚醒の魔王は、物心ついた頃から知っている気さくなおじさんでしかない。
しかし魔族である氷竜にとっては、そうではない。
「人間風情が言葉を慎め! 覚醒の魔王様と言えば、数百年前に北の大地をたった一夜で死の荒野に変え、ありとあらゆる生命に永遠の眠りを与えたという――」
「うるせぇなぁ! そんな昔のヤンチャ話を持ち出してくるんじゃねえよ! 恥ずかしいだろ!」
「は、はいっ! 申し訳ございません!」
震え上がる氷竜を一瞥し、魔王は不機嫌そうに舌打ちした。
「氷霊王の話じゃ、エルデシュタイン高原の氷竜が妙な動きをしているって言うんで調べてみたら……こいつが仲間を呼び寄せながら、移動してやがったんだ」
「えぇと……私……雪とか冷気がないと移動ができなくて……あの……」
魔王は氷竜の首根っこをひょいっと掴み上げ、その目を覗き込む。
「何を企んでやがった、お前」
「そ……そそそれは……その……あ、兄者に会いに……」
「兄者ぁ?」
首を傾げた魔王の脳裏に、氷竜に良く似た、より気性の荒い魔族の顔が浮かぶ。
「この先の火山にいる、炎竜か」
「……はい。兄者に……助力を……」
目線を落とし、何やら言いにくそうに口の中でゴニョゴニョと呟く氷竜。




