27.フロストドラゴン
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ひんやりと冷たい空気に混じって、静かに流れる渓流のせせらぎ。
ほとりに佇むのは、一見すれば人間の男のようだった。
しかし、その肌の色は氷のように透き通った水色で、光の加減で硬質な鱗が浮かび上がって見える。雪のように白い髪の間から覗く瞳の色は、ノアと同じ赤。
茂みに身を潜め、エヴァンが小さな声で隣に問う。
「ティア様を撃ったのは、あいつで間違いない?」
「……はい」
レティシアの短い返事を聞くや否や、その隣でノブが腰を浮かせた。
「では、いざ尋常に――」
「待ってください」
エヴァンが慌ててその腕を掴み、力任せに引き戻す。
「おそらくあれは『氷竜』です。今は人の姿をしているけれど、本性は巨大な竜。正面からやり合って勝てる相手じゃない。まずは対話をしてみよう」
ノアにも言い聞かせるように、目を見つめるエヴァン。
ノブ、レティシア、そしてノアは深く頷いた。
直後。
ノアは立ち上がり様、足元に転がっていた拳大の石ころを拾い上げ――全力でその魔族に向かって投げつけた。
「っ!?」
風を切る音と共に放たれた豪速球が、見事に魔族の後頭部に炸裂する。
予想外の光景にノブとレティシアは呆然と口を開き、エヴァンは乾いた笑顔を貼り付けて頭を抱えた。
「……なんだ、貴様は。どういうつもりだ」
直撃を食らったはずの魔族が、静かに振り返る。
ダメージこそなさそうだが、その赤い瞳には明らかな不快感が揺らめいていた。
ノアは微塵も怯むことなく、言い放つ。
「対話をしよう」
「……対話を望む者は、まず相手に石を投げたりはしないものだ」
至極真っ当な指摘が返ってくる。
「先に攻撃を仕掛けてきたのは、お前の方だ」
「……何の話だ、我が同胞よ」
魔族はノアの瞳の色と、彼から漏れ出す魔力の性質から、同じ魔族であると判断した。
「友人を、お前は撃ち落とそうとした。今すぐ土下座をして、泣いて許しを乞え」
「あの桃色の鳥のことか」
魔族の口元が醜く歪む。
「あれの中身は人間だった。それを友と呼ぶのか、同胞よ」
「お前と血を分けた覚えはない。『同胞』と呼ぶな」
「同じ『魔族』ではないか。――まぁ、いい。それで、その『友』とやらを引き連れて何がしたい?」
魔族の視線が、ノアの背後の茂みに潜んだままのエヴァンたちに向けられる。
「謝罪しろと言ったんだ。それから、この不快な雪を今すぐどうにかしろ。虫たちの生態系を元に戻せ」
その要求を聞き、魔族は喉の奥を鳴らして嘲笑した。
「実におかしなことを言う。虫の生態系を戻すだと? それは……こういうことか?」
音もなく差し出された右手の先から、冷気を孕んだ魔力が迸る。
「っ! 避けて!」
咄嗟にエヴァンはレティシアの手を引き、ノブの背を蹴り飛ばして横へ飛んだ。ノブは蹴られた衝撃で茂みの横へ転がり出る。
その直後、彼らが身を隠していた茂みは、一瞬で氷の彫刻のように凍りついた。
「……貴様……!」
ノアの全身から泥濘のような黒い魔力が溢れ出す。真紅の光を宿した双眸が、強い怒りを込めて魔族を射抜いた。
「虫の生態系を壊しているのは人間たちの方であろう? それを正したいと言うのなら、人間を排除する他あるまい」
「……もういい。対話は終わりだ」
ノアの手中で、どろりとした闇が剣となって形を結ぶ。
不眠3日目の体は鉛のように重い。視界の端が僅かに揺れ、焦点が合っているのかどうかすら曖昧だ。頭の中もひどくぼんやりとしていて、それでいてどす黒い苛立ちが、ノアの中に渦巻いていた。
「あ、あの……お待ちください!」
一触即発の空気の中、レティシアがノアの隣へ歩み出る。困惑しながらも、エヴァンとノブがその後に続いた。
「先ほどノア様よりご紹介あずかりました、ゆ……友人のレティシアと申します!」
「この状況でよく嬉しがれるよね……」
『友人』と認めてもらえた喜びに頬を染めるレティシアに、エヴァンは苦笑を浮かべる。
レティシアは背筋を伸ばし、魔族へ視線を向けた。
「失礼ですが、貴方様のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「……名などない。氷竜、ただそれだけだ」
冷めた目を向ける氷竜に、レティシアは小さく微笑む。
「では氷竜様。なぜ貴方様は、遠路遥々このヴェルデラ渓谷までいらっしゃったのですか? どうすればこの雪を元に戻してくださいますか?」
「答える義理はない。これ以上、人間と言葉を交わす道理もない!」
氷竜が腹の底から、空気を震わせる低い雄叫びを上げた。
それに呼応するかのように、周囲を徘徊していた魔物たちがこちらへ集まってくる。
「ふっ……答えぬとあらば、答えさせるまで! 勇者ノブ、いざ参る!」
ノブもこれ以上の対話は不可能と判断した。鋭い穂先を突き出した虫取り網を構え、雪を蹴って氷竜へと駆け出す。
「勇者……その無謀な肩書きを持った人間を、これまでに何人葬り去ったことか」
嘲笑する氷竜。その周囲の空気が、音を立てて凍りついた。
無数の氷の礫が、まるで散弾銃のようにノブへと降り注ぐ。
「ノブ様!」
「ティア様はこっち! 僕の側から離れないで!」
エヴァンは悲鳴を上げるレティシアの前に立ちはだかり、咄嗟に炎の壁を展開して礫を蒸発させた。
一方のノブは、降り注ぐ氷の雨を、ダンスを踊るような軽やかなステップで回避していく。
「勇者の前は、タップダンサーの役も務めていたんだ」
白い歯をきらめかせ、無駄に爽やかな笑顔で虫取り網を突き出す。
銀の穂先が、氷竜の眼前をかすめた。
「ほう……いい動きだ。しかし――」
氷竜が目を細めた瞬間、彼の背後から巨大な氷の尾が出現した。それは唸りを上げて、ノブの構えた網を薙ぎ払う。
「……ちぃっ!」
重い衝撃に耐えられず、細いシャフトは容易く真っ二つに折れた。
ノブはそれを捨て、再び空を裂いて襲い掛かる尾を空中で回転しながら躱す。
「はっはっ! 武闘家の役もこなしたことがあるぞ!」
素早い身のこなしで、氷竜の背後に着地。重心を低く沈め、全体重を乗せた蹴りをその足首へ食らわせた。
「すごいですわ、ノブ様! まるで熟練の戦士ようです!」
「絶対に足手まといになると思っていたけど、意外とカッコイイなぁ」
ノブの接近戦を、期待を込めた眼差しで見守るレティシアとエヴァン。
だがその隣でノアだけは、ものすごく面白くなさそうな表情を浮かべていた。何故なのか彼自身もよくわかっていない。しかしノブの活躍を見ると、無性にイライラするのだ。
「人間風情が、肉弾戦で私に勝てると思うな!」
ノブの渾身の一撃は、氷竜の足を一歩も動かすことはできなかった。
それでもノブは引かない。
至近距離から放たれた凍てつく冷気をボクシングのステップで左右に躱し、一気に懐に入り込んで氷竜の左頬に右ストレートを叩き込む。
「効かぬと言っただろう」
「っっ!」
視線すら動かさず、しなるように振るわれた氷の尾が、ノブを体ごと吹き飛ばした。
雪の上を転がるノブに、呼び寄せられて到着した氷狼が牙を剥いて飛びかかる。




