22.蒼穹の空から
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翌朝。
空は高く、雲ひとつない晴天となった。
だが、相変わらず渓谷を包む空気は突き刺すように冷たく、昨日の雪も溶ける気配はない。一歩踏み出せば、膝まで沈む深雪で周囲は覆い尽くされている。
「それじゃあ、ティア様。くれぐれも気をつけてね」
「はい」
旅館の前。
期待と不安を込めた眼差しで手を握るルルに、レティシアは力強く応えた。
ふと視線を転じると、そこにはロビーで一夜を明かしたノアの姿がある。ノブとの勝負に敗れた後、宣言通り一睡もせずに朝を迎えた彼の顔には、濃い隈が刻まれていた。
不眠3日目となる今日、ノアの機嫌は頗る悪い。目も半分以上座り、どこに焦点を向けているのかも定かではない。
「ノア様……」
胸が締め付けられるような光景だが、彼の頑張りに報いるためにも、レティシアは自分を奮い立たせる。
「では、行って参ります!」
凛とした声とともに、ピンクのハヤブサに姿を変じた。
大きな翼を力強く羽ばたかせ、雪を蹴って宙へ舞う。
「出来るだけ高く飛ぶんだ! もしも怪しいやつがいても、決して近付いてはダメだよ!」
エヴァンの声を背後に聞きながら、レティシアは大空へ向かって飛び立った。
(……すごい……)
これまでに見たことのない景色を目の当たりにし、思わず息を呑む。
遮るもののない蒼穹。全身を包む風がこれほどまでに清々しいものだとは、想像もしていなかった。
レティシアはしばし我を忘れて呆然としていたが、すぐに気持ちを引き締める。
(いけません、目的を見失うところでした……!)
視線を眼下に広がるヴェルデラ渓谷へと落とした。
渓谷の半分は、不自然に雪に覆われている。隣接する小山を越え、その遥か向こう――エルデシュタイン高原から、まるで白い獣の足跡のように、積雪の筋が続いてきている。
(高原から、雪が広がっている……?)
不可解な光景に胸騒ぎを覚えつつ、レティシアは軌道を変えた。
(ヴェルデラ渓谷には、ほとんど魔物はいないはずなのに……)
ちらほらと、雪山に棲息する魔物の蠢く姿が見える。雪の道を通ってエルデシュタイン高原から移動してきたのか、はたまた雪に呼び寄せられて集まってきたのか――
このままでは、魔物たちが旅館にいる人間に気づくのも時間の問題である。
(ひとまず皆様のところへ戻って、魔物が近くまで迫っていることをお知らせしなければ――)
翼をしならせ、大きく旋回したその時――
大気を切り裂く鋭い気配が背筋を駆け抜けた。本能的に体を捩った直後、右翼の先に焼けるような痛みが走る。
「っ……!」
レティシアは歯を食いしばり、全力で地上との距離を取った。一瞬だけ視界の端に捉えたモノの姿に、心臓が凍りつく。
(あれは……)
彼女は背後の気配を振り切るように、懸命に羽ばたき続けた。
「ティア様!?」
旅館の前。
出発した時のままレティシアの帰りを待っていたルルが、悲鳴に近い声を上げた。
「な、何があったの!? 待って、今すぐ回復魔法を……あ、でも変身を解かないと……でも今変身を解いたらティア様は全裸だし……でも怪我が……!」
傷付いた右翼を目にし、動揺を隠せずパニックに陥るルル。
「ルル、落ち着いて。とにかくまずは部屋に戻ろう。それから治療だ」
エヴァンが、痛々しいその羽を休ませてあげようと手を伸ばす。
だがその指先が触れるより早く、ノアの腕が横から彼女を攫うようにして抱き寄せた。
「……」
無言のまま、しかし恐ろしいほどの形相で、レティシアを部屋へと運ぶ。
「――それで、一体何があったの?」
部屋で治療を終えた後、改めてエヴァンが尋ねた。
幸い、レティシアの怪我は浅かった。ルルの回復魔法で、白い肌には傷跡ひとつ残っていない。
「この雪は、エルデシュタイン高原の方角から不自然に伸びていました。この周辺にも魔物が迫ってきています。それに――」
レティシアはあの焼けるような痛みを思い出し、無意識に右腕を抱きしめた。
あの一瞬、見えたモノは――
「魔族の姿がありました。おそらく、この異常気象の元凶ではないかと……」
レティシアの翼を穿ったのは、人の形を模しながらも、禍々しい赤い双眸を宿した魔族だった。
「魔族……」
エヴァンは、横目で隣のノアを盗み見る。ノアもまた、魔族の血を持つ者である。
彼らが『魔物』と呼ぶものは、本能的に人間を襲い喰らう獣。
対して『魔族』とは、人間と同じような知性を持って思考し、言葉を話す。しかしその多くは魔物の血を濃く受け継いでいる為、人間とは相容れない関係である。
「話は全て聞かせてもらった!」
突如、襖を開け放ち現れたのは、もはや言わずと知れた勇者ノブ。
「立ち聞きなんてはしたない真似をして……すみません……っ!」
ノブの後ろには、ぺこぺこと頭を下げるエデン。更にエヴァンに向かってにこやかに手を振るララもいる。
「……あー……なんか面倒臭いこと言い出す気がする……」
ルルはこめかみを押さえ、深いため息をついた。
爽やかに笑うノブは、レティシアの目を見つめながら高らかに言い放つ。
「貴女を傷つけたその魔族、この勇者ノブが必ずや討ち取ると約束しよう!」
「やっぱり……」
諦め混じりのルルの呟き。




