17.一本勝負
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部屋を出てきたノアは、目的もなくただ旅館の長い廊下を彷徨っていた。
ペタペタと音を立てるスリッパの感触を足裏に感じながら、ぼんやりと自問する。
(なんか変だな……落ち着かない)
久しぶりの不眠が思考を濁らせているのだろうか。それとも、遭難という非日常の余韻が神経を過敏にしているのだろうか。
先ほど部屋で魔力を垂れ流した際も、単に虫取りができないという苛立ちだけでは無かった気がする。
あの時ノアは窓の外を見ていた。しかしその窓ガラスには反射した室内の様子が――レティシアの肩を抱いたノブの姿が映り込んでいた。
胸の奥が、妙にざわつく。
「ふむ……?」
小首を傾げたものの――すぐに考えるのが面倒になった。
答えの出ない悩みは好きじゃない。それよりも、温泉饅頭でも買いに行こう。
ノアが売店の方角へ行き先を定めた、その時だった。
「あら……ノア君、だったかしら?」
曲がり角でララと鉢合わせた。
汗ばんだ肌に張り付いた髪を艶っぽく指先で払い、彼女はどこか挑戦的な笑みを浮かべている。その吐息は、隠しようもなく乱れていた。
「ノア。話し合い、終わったの?」
ララの背後から、エヴァンも姿を現した。彼もまた顔を上気させ、肩で荒い息をついている。
「……お前たち、こんなところで何をしていたんだ?」
ノアが尋ねると、2人は顔を見合わせた。
「そりゃあ、決まってるじゃない? ねぇ?」
「温泉と言えば……これだろ?」
火照った2人が出てきた部屋。その中からは、軽く硬い何かが跳ねる小気味良い音が響いている。
そこは――
「卓球よ」
「確かに!」
ノアはすぐさま食いついた。
「温泉地の娯楽と言えば、卓球か射的! こんなことも忘れていたとは、本当に俺はどうかしていた」
少年のような無邪気さでエヴァンの腕を掴むと、ノアは迷いなく娯楽室へと足を踏み入れる。
「待ってよ。僕はララさんと試合して、もうクタクタなんだけど……」
「少しでいい。付き合え」
有無を言わさぬ力で空いている卓球台に引っ張って行き、ラケットを握らせる。
その強引な様子を、ララは面白そうだと傍らの椅子に腰を下ろして観戦することにした。
「ノアと卓球なんて、中学生の時以来かな」
「手加減はしないから、覚悟しろ」
こうして男同士の――およそ娯楽とは呼び難い、大人気ない真剣勝負が幕を開けた。
放たれたピンポン球は鋭い回転を伴い、相手陣地の際を執拗に攻める。しかし容易く越えさせまいと、ラケットが風を切って阻止。
互いの一撃を決して許さない、火花の散るようなラリーが繰り広げられた。
隣の台で和やかに卓球を楽しんでいた老夫婦までもが、その激しい応酬に圧倒され、固唾を飲んで試合に釘付けとなっている。
「ふふっ。2人とも頑張れー!」
ララの楽しげな声援が響く中、不意に娯楽室の入り口から低い声が届いた。
「卓球か。楽しそうだな」
ノブの声。
その一瞬、ノアの反応が遅れてラケットが虚しく空を切った。
ピンポン球は乾いた音を立てて床の上を転がる。
「僕の勝ちだね」
勝利の余韻に浸るエヴァンには目もくれず、ノアは空振りした自分のラケットをじっと見つめる。
その体から、じわりと黒い瘴気が滲み出した。
「ノア。負けたからって、さすがにそれは子供じみてるよ」
エヴァンが宥めようと手を伸ばした瞬間、ノアはその手からラケットをひったくった。
そして鋭い視線をノブに向けると、無理矢理ラケットを押し付ける。
「……俺と勝負しろ」
「いいだろう。望むところだ」
ノブは羽織を脱いでララに預けると、袖を捲った。
「可憐なレティシアを泣かせた君の罪は重い。勇者たるもの、姫の涙を見過ごすわけにはいかないからな」
「……泣かせた?」
サーブの構えを取ったまま、ノアが静かに問う。
「彼女に似合うのは笑顔だ。この勇者ノブが、君の手から彼女の笑顔を取り返してみせる!」
「……」
ノアはただ静かにノブを睨みつけた。
空気が重く澱み、不安定な黒い魔力がゆらゆらとノアの周囲で揺れている。
「なんだか若い頃を思い出しますねぇ、おじいさん」
「ああ。お前さんを巡って、こうやってよく誰かと争ったものだ」
いつの間にか隣の卓球台の老夫婦はララとエヴァンと並んで、ノアたちの様子を微笑ましく眺めていた。
「ノアに限って、そんなラブコメみたいな展開にはならないと思うけどなぁ」
「そう? うちの座長、ああやって火に油を注ぐの得意よ」
お茶を啜る2人の前で、遂にノアの手からピンポン球が離れた。
「俺は――」
球が台を叩き、硬い音が響く。
球は垂直に跳ねた。
「――勇者が嫌いだ」
目にも留まらぬ速さで振り抜かれたラケット。ノアの魔力を孕んだ球は、まるで黒い弾丸のようにノブの陣地に着弾する。
「ならば君は、討つべきヴィランだね!」
ノブが叫ぶ。
不敵な笑みを浮かべ、まるで自分自身がこの世の正義であるかのような、迷いのないスイング。
――が。
清々しいまでに、ラケットは虚空を裂いた。
「……」
「……」
コン、コン、コロコロ……
床を転がるピンポン球の音だけが、娯楽室に虚しく響き渡る。
「……待て」
ややあって、ノブが声を絞り出す。
しかしノアはラケットを卓球台に置き、背を向けた。
「待たない」
「もう一回……! と言うか、魔法を使うなんて卑怯だぞ!」
「俺の魔力が球に付随しただけで、物理的な干渉は何もない。視覚的な効果のみだ」
「頼む! 一生のお願い!」
「断る」
一度も振り返ることなく、ノアは娯楽室を後にした。
「……っっっ!」
「あっはっはっ! ノア君、最高! いい性格してるじゃない」
顔を真っ赤にして笑いを堪えるエヴァンと、思わず拍手で称えるララ。
そんな若者たちを、老夫婦は生温かい目で見守っていた。




