11.ヴェルデラ渓谷へ
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《雪山で遭難するまで、あと少し》
――翌朝。
朝一番の馬車に乗り、ノアたちはいよいよヴェルデラ温泉へと向かった。
旅館で一泊した後は一旦村へ戻り、さらに一晩滞在してからアストリアムに帰る予定である。
明後日にはまた顔を合わせるというのに、見送りにきたリリアナは号泣していた。
「私、ノアパパがいない状況って初めて見たんだけど……なかなかのカオスよね」
揺れる車内で、ルルがしみじみと呟く。
「確かに。リリアナさんとノアとティア様の構図って、ツッコミがいないよね」
「なんならノアがちょっとまともに見えちゃうもの」
顔を見合わせ、笑い合うエヴァンとルル。
ひとしきり笑った後、なんとも言えない沈黙が車内に落ちた。
「……なんか、空気が重たいね」
「ティア様。ノアと喧嘩でもした?」
俯いていたレティシアが、はっと顔を上げる。
「喧嘩だなんて、滅相もございません……! ただ……」
そっと視線を横に向ける。
隣のノアは、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。
「昨夜はノア様がお休みになられていないので……」
まるでそれが自分の責任であるかのように、声が小さくなる。
「え? ノア、なんで寝てないの?」
「ルルが膝枕禁止したからじゃない?」
「あ……」
エヴァンの指摘に、ルルは昨日の馬車でのやりとりを思い出した。
「……あんた、まだ何が悪いのかわかってないの?」
あれだけわかりやすく好意を向けてくれる相手を『枕』呼ばわりしている。それが良くないだけなのに、とルルは呆れる。
(……そっか。そもそもこの鈍感男は、ティア様が自分のことが好きだってことにも、気がついていないのかも)
ノアは気怠げな表情でルルを振り返った。
「俺に人の気持ちが理解できると思うのか?」
「胸を張って言えることじゃないのよ」
半眼で睨みつけながらも、ルルは内心で少し驚く。
少なくともノアは、レティシアの気持ちを理解しようとはしているようだ。
「じゃあノアは、理解できるまで寝ないつもり?」
エヴァンの問いに、ノアは渋々頷く。
「……一生理解できる気がしないけどな」
「い、いけません!」
慌ててレティシアが血相を変え、身を乗り出した。
「私のことでノア様が頭を悩ませる必要などございません! ノア様は、ノア様がお好きなように振る舞ってくださいませ!」
懇願するように、ノアを見つめる。
ノアはその視線を、さっと振り解いた。
「……だからお前は、いつまで経っても魔法が上達しないんだ」
「それは、どういう意味なのでしょうか……?」
しかしノアは口を閉ざし、再び顔を窓の外へ向けてしまった。
戸惑いながらレティシアは、ルルとエヴァンを振り返る。
「昨夜も寝てないなら、今日で不眠2日目だよね。だから機嫌悪いんじゃない?」
肩をすくめるエヴァン。
「せっかく温泉に癒されに来たのに、ノアの癇癪に付き合わなきゃいけないの……?」
「言い出しっぺはルルなんだから、付き合ってあげなきゃね」
心底面倒臭そうなルルと、どこか楽しそうなエヴァン。
(だから私は……魔法が上達しない……?)
レティシアは膝の上で固く手を握り、視線を床へと落とした。
――馬車は幾度か休憩を挟み、昼過ぎにはヴェルデラ渓谷の入り口へ到着した。
「ここからは渓谷を散策しながら旅館に向かうみたい。2時間くらいで到着するそうよ」
折り返す馬車を見送り、パンフレットを片手に持ったルルが遊歩道の入り口を指差す。
豊かな自然に囲まれた、水の流れる音が涼しい渓谷である。
「ムラサキツバメだ」
早速ノアは純金製の虫取り網を取り出し、草木の間を舞う蝶を追いかけ始めた。
「それにしても……今日はちょっと冷えるね」
エヴァンが両腕をさする。
「そうね。もう少し着込めば良かったかも」
渓谷なので昨日よりも1枚多く羽織ってきたが、それでも風がやけに冷たい。
「ヴェルデラ渓谷は冬でも積雪のほとんどない、比較的暖かい地域のはずなのですが……」
冷える指先を擦り合わせるレティシア。
「ちょっと、ノアー! あんまり奥に行かないでよ! 迷子になっても知らないからね!」
遊歩道を外れていくノアに、ルルが声を張り上げる。
ノアは小さく舌打ちし、足を止めた。
その時。
「……?」
樹皮に張りつくカメムシに目が留まる。
さらに周囲を注意深く見渡し、最後に空を見上げて首を傾げた。




