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01.大学の昼下がり

 ホワイトアウト――凍てつく猛吹雪に視界を奪われたノアは、四方の感覚を完全に失っていた。


 白一色に塗りつぶされた世界は、前後左右どころか上下すらも曖昧だ。

 指先はとうに麻痺し、今、自分の手が握っているのか開いているのかさえもわからない。雪を踏み締めているはずの足裏も、随分前から感触を失っている。


 背に担いだルルの唇は血の気を失い、そこから漏れる息遣いは今にも途切れそうに細い。


「ノア様っ! エヴァン様が……!」


 暴風の唸りに混じって、悲鳴にも似たレティシアの声がかすかに届く。

 ノアが振り返ると、雪の上に倒れ伏したエヴァンの姿があった。レティシアが必死に腕を引き、助け起こそうとしている。だが彼女にも、もはやそれだけの力は残っていない。


 ノアは祈るような気持ちで天を仰いだ。

 そこに広がるのは変わり映えのない、まるで暴力のような白。非情な横殴りの雪。


(なんで――)


 胸の奥で、噛み締めるように呟く。


(なんで温泉に入りにきただけなのに、遭難しているんだ……?)


 事の発端は1週間前に遡る――


⭐︎


『ソフィア!』


 ガブリエルは、折れそうなほど細いソフィアの手首を強く掴み、その宝石のような瞳を真っ直ぐに見つめた。


『ガブリエル様……』


 吐息が触れ合うほどの距離。大きく高鳴る鼓動。しかしソフィアは、大きく被りを振った。


『いけません……! 私には親の決めた許嫁が……!』

『俺を選んでくれ、ソフィア。俺には君しかいないんだ!』

『あぁ、ガブリエル様……』

『ソフィア』


 潤んだ瞳が絡み合う。ゆっくりと、逃げ場をなくすように距離が縮まり――


「はわぁぁぁ!」


 甲高いレティシアの悲鳴と共に、本がぱたりと地面に落ちた。

 顔面は熟れたトマトのように赤く、耳まで熱を帯びている。

 レティシアは両手で頬を押さえ、ふるふると震えた。


「な、なんて刺激の強い物語なのでしょう……!」


 足元に転がった本の表紙には『禁断の恋』の文字。

 レティシアの膝の上で丸くなっていた猫が、突然の落下物に目を丸くして彼女を見上げていた。


「あっ、驚かせてしまってすみません」


 猫に向かって頭を下げ、本を拾ってそっと横に置く。


 レティシアは再び目を閉じた猫の背中を撫でながら、空を仰いだ。

 雲ひとつない秋晴れ。色付き始めた木々が風に揺れ、ベンチに座った彼女の長い金の髪を、柔らかな日差しが照らしている。


 透き通るほど白い肌に、整った鼻筋と形の良い唇。碧い瞳は澄んだ湖のような光を宿し、その姿はまるで絵画から抜け出してきた聖女のようだった。

 通り過ぎる学生たちが思わず振り返るほどの美貌を持ちながらも、本人にはまるでその自覚がない。


(ガブリエル様……)


 先ほどの一節が脳裏に蘇る。

 金髪碧眼で爽やかな笑顔の男が、黒髪赤眼のどこか眠たそうな顔の男にゆっくりと塗り変わっていく。


「ノア様……」

『レティシア……』


 妄想の中のノアが優しく微笑み、レティシアの肩にそっと触れた。2人は瞼を閉じ、ゆっくりと顔を近づけていく。


 そして――


「おい。レティシア」

「はいぃぃ!?」


 実際に耳元で低い声がして、レティシアは2度目の奇声を上げた。


「ノ、ノ、ノア様!? ごき……ごきげんよう……!」


 裏返った声で取り繕うレティシアを、ノアは怪訝そうに見下ろす。そして、無言で彼女の膝を指差した。


「あ……すみません」


 意図を察したレティシアは、膝の上の野良猫を抱き上げ、そっと地面に下ろす。それから姿勢を正して、ニコリと笑った。


「はい。どうぞ」

「ん」


 ためらいも遠慮もなく、ノアはベンチに寝転び、当然のようにレティシアの膝へ頭を預ける。

 満足げな様子のノアの頭に、レティシアは静かに手を置いた。


 ――ここは、王立アスティリア大学の構内。学術都市アストリアムにある数多の学部を擁する名門校であり、とりわけ魔法学部はバルドレイン王国随一の難関として知られている。


 法学部1年のバルドレイン第二王女レティシアと、魔法学部2年のノア。本来なら接点の薄いはずの2人だが、こうして昼下がりを共にするのは、もはや日常の光景だった。


「こんな本が好きなのか?」

「あっ! そ、それは……!」


 すぐ傍らに置いてあった『禁断の恋』を、ノアは無造作に手に取る。親指で器用にページを弾き、パラパラと流し読みした。


「ルチアから送られてきたものでして……け、決して常日頃から愛読しているというわけではなく……っ! ただ、その……とても胸がいっぱいになるお話なのですけれども……」


「ふーん」


 ノアは特段感想もなく、気の抜けた相槌を打つ。

 寝転んだまま空を仰ぐと、無数のトンボが秋空を縫うように飛び交っていた。そのうちの一匹を、ノアはじっと目で追う。


「トンボでも禁断の恋をするらしい。他種との交配だ。うちの親もそうだが、理解に苦しむ」


「ノア様のお父様は魔王様でいらっしゃいますものね。種族を越えた恋だなんて、とても情熱的で素敵だと思いますわ」


 レティシアは感嘆のため息を吐いて、同じように空を見上げる。その顔をじっと見てから、ノアは静かに目を閉じた。そして深い眠りへと落ちていく。


 ノアは生まれつき重度の不眠症だった。それは父親の『覚醒の魔王』の血に由来するものだ。

 どれほど疲れていても、ベッドに入って目を閉じれば意識は冴え渡り、夜明けを数え続ける。


 以前は、ペットのハリネズミ――チャッピーを抱いていれば眠ることができた。だがチャッピーは天寿を全うし、もうこの世にはいない。

 睡眠装置を失ったノアは『眠たいのに眠れない』という焦燥に苛まれ、三日に一度癇癪のように魔力と不機嫌を爆発させるようになった。体力も魔力も使い果たし、最後は糸が切れたように気絶するのが常だった。


 そんなノアが、今こうして穏やかに目を閉じている理由はひとつ。

 レティシアの膝枕が、新たなノアの睡眠装置なのである。

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