(15)王国
「……俺を、信じてくれるか?」
サイの声は、かすかに震えていた。けれど、その目だけはまっすぐにヴェラを見つめていた。
ヴェラは迷うことなく、ひとつ頷いた。その所作に、ためらいはなかった。
「ええ。信じていますわ」
彼女の声は、どこまでも穏やかで、澄んでいた。
「たとえ……何かあったとしても、わたくしは恨んだりなんてしないわ。だから、安心して」
その言葉を聞いた瞬間、サイの顔に一瞬、苦い表情が走った。
「……いや、それは……。もし万が一、取り返しのつかないことになったら――そのときは、恨んでいいんだぞ。俺は……それくらいの覚悟でやるんだから」
ヴェラはふっと微笑んだ。眉が少し下がるその表情には、どこか子どもを見るような優しさがあった。
「ふふ……随分と情けない覚悟ですわね」
「……」
「では――お願いしようかしら。覚悟は、もうできているわ」
『天より降る剣』。
かつて、エリンをこの世界から連れ去った、あの神秘の光を帯びた刃。
白銀の刀身には、ほんのかすかに霧のような光が揺らめいている。まるでこの場にいる全ての存在が、その剣を拒絶することも、許すこともできないような――神聖にも似た気配。
この剣が転移の力を宿していることは分かった。しかし、この剣を突き刺したところで、ゴーレムや錬金術師のような結果にならないか、それが問題だった。
ヴェラが白い霧、つまり正の霊力に耐えられるか。
ところが、それは杞憂だった。
恐る恐る、サイが剣先をヴェラに向けて近づけてみる。だが、肌を刺すような衝撃も、拒絶反応も起きない。
白い霧についても、同じだった。
ヴェラがそっと、その刀身に触れてみる。指先から伝わるのは不快な震動ではなく、懐かしいようなあたたかさだ。最終的に、彼女が『天より降る剣』をしっかりと握っても、体調に変化は全く見られなかった。
「これは、わたくしの誕生に理由がありますわね」
確信を得たヴェラが、静かに告げた。
錬金術師によって、ホムンクルスとして生を受けたヴェラ。その実験には、“竜神の鱗”――正の霊力が用いられている。いわば、彼女自身の根源が、この剣と同じ光で編まれているのだ。
そして現在――
サイはその切っ先を、ゆっくりとヴェラの胸元へと向けている。
「……痛かったら、ごめんな」
それは本心だった。けれど、それ以上の言葉は出てこなかった。
ほんの一瞬、彼は目を閉じる。ためらいか、祈りか――それを知るのは彼だけだった。
そして。
貫いた。
剣が胸を貫いた瞬間、音はなかった。ただ、淡く、優しい光が、ヴェラの全身を包み込んでいく。雪が溶けるように、霧が晴れるように――彼女の輪郭はゆっくりと、空気の中に溶けていった。
その中で、かすかに声がした。
「……先に行くわね。待っていますわ」
サイはその場に立ち尽くしたまま、しばし剣を握りしめていた。
(――先に行く)
彼女の言葉が、胸の奥に、深く沁み渡っていく。サイは深く息を吐き、自らも剣を胸元へと押し当てた。
もう、躊躇はなかった。ヴェラが先に行った道を、自分も同じように辿るだけ。
サイの胸に剣が入り込むと、その身体もまた、淡い光に包まれていく。彼の胸にあったのは、ただひとつの願い――
もう一度、大切な人と出会うために。
その姿は、やがて、ひとつの閃光となって消えた。
* * *
《ま、まさか!?》
《また何かが転移してきたぞ!!》
《召喚の儀式もなしに!?》
騒がしい声が飛び交っていた。
ヴェラはその中心に立ち、胸の奥をぎゅっと握られるような不安と期待を抱えていた。
足元に浮かび上がる魔法陣。その中央に、淡く霧のような光が渦巻いている。転送の兆し――『天より降る剣』が、誰かをこちらに連れてくる。
(サイ……来て。お願い――)
呼吸が浅くなる。まるで息をすることすら許されないような、張り詰めた空気。
やがて、光の粒が集まり、ひとつの人影を形作っていった。膝をついたまま、剣を胸に抱えるようにして、静かにうつむいている青年の姿。
「……サイ……?」
その名前を呼んだとき、彼の肩がかすかに動いた。間違いない――彼だった。
「サイ!!」
ヴェラは叫ぶように声を上げ、無意識のうちに駆け出していた。周囲の兵士の叫び声も、槍の先のきらめきも、すべてが視界の外へと消えていく。
一歩、また一歩。
彼の姿がはっきりと見えるたび、胸の奥の不安が溶けていく。
(よかった……ちゃんと来てくれた)
彼が顔を上げた瞬間、その胸に飛び込むように、ヴェラは彼を強く抱きしめた。
サイ――。
サイは、その名を呼ばれた瞬間、張り詰めていた心の糸がぷつりと切れるのを感じた。
ぼやけた視界の中、聞き慣れた声。懐かしい温もり。腕の中にあるその体は、まぎれもなくヴェラだった。
(……ヴェラ)
思考が追いつくより先に、腕が自然に彼女を抱き返していた。
転移に成功したことも、ここがどんな場所かも、まだ分からない。けれど、彼女がここにいる。それだけが、今の彼にとって唯一の確かな事実だった。
胸の奥にひたひたと染み込むような安堵。緊張が解けていくのを感じながら、サイは小さく息を吐いた。
(よかった……ちゃんと、たどり着いたんだ)
彼女の温もりが、ようやく現実を引き寄せてくれる。ここがどこであっても、ヴェラがいる限り――もう大丈夫だと、思えた。
ふたりの周囲を、武装した兵士たちが取り囲んでいた。金属の靴音が石床に響き、何本もの槍の穂先がこちらに向けられている。
「俺たちは、人を探しに来ただけだ。戦う気はない。だから、どうか――」
サイが穏やかに話しかけるが、兵士たちは顔を見合わせ、困惑したようにざわつくばかりだった。どうやら、言葉が通じていないらしい。
その中のひとりが、踵を返して走り去っていく。
「……まさか」
サイは顔をしかめる。
「言葉が通じないのかもしれない」
ヴェラもまた、肩をすくめた。
「困りましたわね。果たして、ここから出してくれるのかしら」
ふたりは無用な混乱を避けるため、その場にぺたんと座り込んだ。立派な幾何学模様が施された床の上。迂闊に動くべきではないと判断したのだ。
「下手に動くべきではありませんわね」
「ああ、無理に抵抗しても仕方ない」
沈黙のなか、ふたりを取り囲む緊張感がじわじわと強まっていく。兵士たちは無言のまま武器を構え、得体の知れない「転移者」の出方を伺っている。
(……このままじゃ、誤解されたまま拘束されるかもしれない)
サイは不意にそんな思考を振り払うように、小さく肩を揺らした。ヴェラもまた、視線を足元に落としながら、わずかに唇を噛みしめる。
(言葉が通じない……どこまで状況が悪化するか分からないわね)
もし敵対者とみなされれば、この場で排除される可能性すらある。そんな冷たい想像が、一瞬、ふたりの脳裏をかすめた。
槍の穂先が少し近づくような錯覚。兵士たちの視線が、少しずつ、じわじわと鋭くなっていくような感覚。
そんな張り詰めた空気の中、まるで救いのように――
「君たち! 僕の言葉は理解できるかい?」
不意に、耳慣れた言語が届いた。声の主は黒目黒髪の青年。銀の縁取りの上着に短いマントを羽織り、息を切らせてふたりに駆け寄ってくる。
「はい、分かりますわ」
ヴェラが答えると、青年は安堵の笑みを浮かべた。
「よかった。翻訳魔法がちゃんと効いたみたいだね」
「翻訳……魔法?」
サイとヴェラは目を見合わせた。自分たちが、ついに異世界に辿り着いたという実感が、そこではじめて明確に芽生えた。
「まずは名乗らせてください。わたくしはヴェラ。こちらはサイですわ」
ヴェラが礼儀正しく告げると、青年も深く頷いた。
「ありがとう、丁寧だね。僕はハルト。ハルト・キリュウというんだ。よろしくね、ヴェラ、サイ」
彼は自然に手を差し出してきた。握手。礼儀としてそれを返すと、彼は人懐っこい笑みを浮かべた。
「それにしても、君たちはどこの出身? きれいな金髪だから北のほう……ホクオウあたりかな? それともロシアとか」
「……いいえ。どこも、聞いたことがありませんわ」
ヴェラが静かに否定すると、ハルトは一瞬固まったあと、目を見開いた。
「えっ? ……君たち、“チキュウ”から来たんじゃないの?」
「“チキュウ”……?」
ハルトは一瞬固まったあと、目を見開いた。
「まさか……じゃあ、君たちはどこから? どうやってこの世界へ?」
「グラナ=ミールという大陸から来ましたわ。この剣を使って、転移してきたのです」
サイが傍らで『天より降る剣』をハルトに見えるよう示すと、ハルトの顔色がみるみるうちに変わった。
「その剣――!」
思わず一歩、身構えそうになるのを堪えるように、彼は問いかけた。
「それ……どうして君たちが? まさか、チキュウで僕を刺したのは、君たち……?」
「違いますわ!」
ヴェラが遮るように、凛とした声で言った。
「わたくしたちは“チキュウ”という場所も聞いたことがないわ。自らこの剣で胸を貫いて、この場所へ来たの」
「……自ら、刺して……!?」
ハルトの目が、信じられないものを見るように揺れた。
「わたくしたち、この剣で転移してきた女の子を追ってきたの。ひと月ほど前に、ここに誰か来ていませんか?」
ヴェラの真剣な眼差しに対し、ハルトは苦しげに首を振った。
「ひと月前にはいない。……もう少し前に、確かに“転移者”はきたよ。でも、僕と同じ、“チキュウ”から来たっていう人だった。その人も……僕と同じように、この剣に貫かれて、ここに来たんだ」
ふたりは目を見合わせた。
目の前に広がるのは、これまでの旅では一度も見たことのない、異なる空気の世界。天井の高い回廊、見上げるほど巨大な柱、見知らぬ意匠の鎧を纏った兵士たち――すべてが異質で、どこか現実味が薄かった。
(ここに……エリンがいるとは限らない)
そんな言葉が、ヴェラの胸をわずかに掠める。だが、その不安を飲み込み、彼女は静かに前を見据えた。
サイは、手にした剣を一度だけ見下ろし、小さく息を吐いた。
「……ここが、そう……なんだよな」
声は低く、問いかけるように宙へ向けられていた。ヴェラは、その言葉にゆっくりと頷く。
「きっと……辿り着けますわ。少なくとも、道は開けたはず」
ほんの少しだけ間を置き、そう言い聞かせるように続けた。
ふたりは静かに歩き出す。確信とは呼べないまでも、進むしかないという決意だけが、胸の中で静かに燃えていた。
「――詳しい話は、このあと国王にも伝えてもらう必要がある」
ハルトが立ち上がりながら、ふたりに微笑みかける。
「案内するよ。ただね、さすがに剣を持ったままだと……ほら、さっきの兵たちがまた騒ぎ出しそうだし。よかったら、僕が預かっておくよ」
ハルトの申し出に、サイは一瞬、躊躇するように剣を握り直した。
「……いや、これは不用意に触れないほうがいい。こいつが纏っている『白い霧』は、下手をすれば――」
「ああ、分かっているよ。浄化の力、だろう?」
ハルトは事も無げに言うと、腰の鞘に納められた自身の剣――その柄に手を添えた。刹那、彼の武器からも、サイたちの持つ剣と同じ、淡く清浄な光が微かに漏れ出す。
「僕の武器も、それと同じ性質の力でできているんだ。……ほら、平気だよ」
ハルトが素手で『天より降る剣』の鞘……いや、剥き出しの刀身のすぐそばに手をかざしても、拒絶反応は起きなかった。それどころか、二つの光は互いに惹かれ合うように、穏やかに共鳴している。
「……君も、同じ力を持っているのか」
「まあね。この国で保護されている理由の一つでもあるんだ」
サイは安堵し、名残惜しげに剣の柄を撫でたあと、そっとハルトに手渡した。
「ありがとう。……頼む」
「安心して。きちんと返すから」
ハルトはそう微笑むと、剣を両手で丁重に抱え、ふたりを先導して歩き始めた。兵たちもすでに警戒を解きつつあり、視線は柔らかくなっている。
壮麗な宮殿の中を、ふたりはハルトの後に続いて歩き始めた。天井の高い回廊には彩色ガラスがはめこまれ、日差しが虹のように床を彩っている。
ここ――聖レヴェリア王国は、神歴八八七年の建国以来、およそ三百年以上の歴史をもつ老舗の大国である。
人智を超えた最高峰の魔法『転移の術』と、その奇跡を成す『転移の間』を隠し持ち、唯一、異世界からの転移者を迎え入れる地――。
その特異性ゆえに、他国からは「聖なる来訪者の地」として尊敬と警戒の目を向けられている。
「この聖レヴェリア王国にはね、今は“異世界人”が五人――僕も含めてだけど――保護されているんだ」
先を歩くハルトが、振り返って語る。
「異世界人……。五人も、この国にいるの?」
ヴェラが問い返す。
「うん。“異世界人”というのは、この世界の言葉で言えば、君たちみたいに“別の世界から来た者”たちさ。“転移者”とも呼ぶかな」
「全員、王国に迎えられて、保護されてる。国の外には出られないけど、比較的快適に暮らしてるよ」
「全員、保護……?」
サイが重ねて訊ねると、ハルトは少し苦笑して頷いた。
「そう。というか――ここは、この世界で唯一、“異世界人”が降り立つ場所なんだ」
その言葉に、ヴェラの顔色が一気に青ざめた。
「……唯一?」
小さく震える声だった。まるで足元の地面が抜け落ちたような不安が、胸の奥から広がる。
(エリンは……ここにはいない?)
(わたくしたち……違う世界に来てしまったの?)
戻る手段も分からぬまま、たったひとつの希望すら届かない地へ――その可能性が、ヴェラの呼吸を浅くした。
「……ヴェラ」
隣を歩くサイが、そっと彼女の耳元で囁いた。
「(まだ、“唯一”って決まったわけじゃない)」
「……?」
「(もし歴代の災厄がみんなここに来てたなら、この国、無事でいるはずがない)」
サイの静かな声に、ヴェラの目がかすかに見開かれた。
「(たぶん、『災厄の子』が転送される場所は、こことは別にあるんだ。エリンも、そっちに送られてる)」
その言葉に、ヴェラは小さく頷く。
(……そうね。サイの言う通りですわ)
心臓の高鳴りが少しだけ静まり、足元の世界が戻ってくる。サイがちらりと彼女の表情を確認し、安堵の息を吐いた。
「……大丈夫かい? 顔色が良くないようだけど」
ハルトが振り返り、心配そうに尋ねる。
「いいえ……大丈夫ですわ。少し、考え事をしていただけなの」
ヴェラはふっと肩の力を抜き、小さく微笑んだ。その微笑みには、まだ不安も、焦りも残っていたが――それでも、一歩を踏み出すだけの力は、たしかに灯っていた。
やがて、広い回廊を抜けた先に、ひときわ厳かな雰囲気を放つ扉が現れた。重厚な装飾の施された両開きの扉は、まるでこの国の威厳そのものを象徴しているかのようだった。
ハルトが立ち止まり、振り返ってふたりに微笑む。
「――さあ、ここが謁見の間だ」
その言葉とともに、静かに重厚な扉が開かれていく。




