『何もしない院長 パート 番外編 ― 張良、学び舎を開く ―』
この物語に登場する人物・団体はすべて架空です。
ただし、思い当たる節があっても、口には出さないのが大人のマナーです。
河添診療部長は、かつて大学医局で“教えることと学ぶこと”に人生をかけてきた男だ。
研究、講義、学生指導。誰に対しても誠実で、誤魔化しや忖度を嫌う。
南方総合病院に赴任して数年、現場で感じたのは——
「地方には、真剣に“教えてくれる場”が足りない」という現実だった。
研修医が「とりあえず書類を書いて終わり」の指導記録、
先輩医師が疲労のなかで最低限のアドバイス。
大学のように手厚い指導を受けたくても、誰もその時間が取れない。
ある日、河添は野上院長に提案した。
「院長。南都大学の教育センターと連携して、
ここを“指導医が育つ場所”にしてみませんか。
研修医だけでなく、我々ももう一度、“教えること”を学ぶべきです」
野上は、例によってふわりと笑って言った。
「……おお、ええと思うよ。
じゃあ、よろしく。俺、その間、感染対策の壁新聞作ってるね」
「……壁新聞ですか」
「大事だよ。入り口の雰囲気づくりって」
もちろん、河添の構想の詳細は聞いていない。
だが、その表情に“口出ししない覚悟”だけはにじんでいた。
■ 河添、動く
・大学時代のつてを頼り、南都大学教育センターとコンタクト
・“地域における臨床教育モデル”として南方病院をプレゼン
・診療科間の「縦割り壁」を越えた研修医評価システムを提案
・「OJTじゃなく、共に振り返る学習文化」の定着を目指す
ある准教授が言った。
「河添先生、そこまで言うなら、来年度の臨床実習先として、
うちの学生10名をローテーションに出してみますか?」
「ええ、ぜひ。受け入れ態勢は——院長が壁新聞を作ってますから」
「……? 壁新聞?」
■ プロジェクト初日
大学からやってきた医学生たちは、どこか不安そうだった。
地方の公立病院に研修で来るのは、初めてだという。
そんな彼らを出迎えたのは、院長・野上本人。
「よう来てくれたね。
ここの職員はみんな“教えたがり”だから、何でも聞いたらいいよ。
……あ、これ今日の新聞ね。俺が作った」
手渡されたのは、「南方ほのぼの感染対策ニュース No.37」。
手描きのイラスト入りで、“研修医向けマスクフィッティング講座”が特集されていた。
大学生たちは笑い、少しだけ緊張が解けた。
数週間後、河添は再び大学へ出向いた。
「学生たちの満足度が非常に高かった」と、センターから正式な連携要請が届いたのだ。
「……不思議な病院ですね、南方さんは」
教授が感心したように言う。
「トップが放任主義なのに、現場がすごく生き生きしてる。
“院長が教育に口出さない”のが逆に自由度になってるのかもしれませんね」
帰り道。
報告を受けた野上は、ぽつりとつぶやいた。
「やっぱ、口出さんほうが、よかったんやな……
……いや、ホンマはちょっと口出したかったんやけどな……」
その言葉に、河添は内心、頭を下げた。
「信じて黙るって、いちばん難しいんですよ。
……私は院長みたいにはなれません。だからこそ、敬意を持ちます」
そう言って、帰り際、野上にそっと付箋を一枚渡した。
「黙っていても、“伝わっている人”になること——それがリーダー」
野上はその付箋を、壁新聞の横にそっと貼った。
その隣には、自筆のメモがひとつ。
「たまには黙るのも、ええもんやな」
これはフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません