何もしない院長パート58 「扉の向こう」
これはフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。
院長室は、総務と医事課のすぐ隣。
野上が院長になりたての頃から、その扉はいつも開け放たれていた。
「オープンな気持ちでいきたいからね」――そんな思いの象徴だったが、当初は誰も入ってこない。廊下からチラリと覗かれるだけで、お茶をしにくる職員は皆無だった。
ふと、野上は院長になる前のことを思い出す。
まだ副院長だった頃、総務課長だった杉原と、よく釣りやキャンプの話で盛り上がった。
「次は渓流でヤマメ狙いましょうや」
「いや、あの岬でアオリイカの方がええやろ」
そんな雑談が9割だったが、残りの1割――その中で病院の命運を左右するような大きなアイデアがふと生まれることがあった。
病棟再編や研修医受け入れ拡大のきっかけになった計画も、実は釣り道具を磨きながら出てきた話だった。
杉原は数年前、病に倒れ帰らぬ人となったが、あの“何気ない会話から生まれる力”は、今も野上の原点にある。
最初に院長室へふらっと入ってきたのは、総務の中西課長。会議の帰りに「あの書類、ちょっと見てもらえます?」と立ち寄り、そのまま世間話で20分。
次に医事課の城方が、「ちょっと相談が…」と入ってきて、結局アイスコーヒー片手に笑って帰っていった。
こうして少しずつ、「院長室は怖い場所じゃない」という空気が広がっていった。
ある日、Future Hands Project の見学でやってきた高校生たち――三宮祐、白鳥れいな、石川桜――も、恐る恐る院長室を覗いた。
「失礼します…これ、今日の見学で見た機器の写真なんですけど」
桜がスマホ画面を見せると、れいなが笑いながら「院長、これは何に使うんですか?」と質問する。
「ええんちゃう、それは聞くのが一番ええ」
野上は機器の用途だけでなく、そこに関わるスタッフのこと、地域での役割まで話し始めた。祐はうなずきながら、時々メモをとっていた。
短いやり取りだったが、高校生たちも「院長って、思ってたより話しやすい」と口をそろえたという。
「ええんちゃう」――あの一言を聞きに来る人は、大人も高校生も同じらしい。
そして今も、杉原との釣りや焚き火を思い出しながら、野上はそっと扉を開け放つのだった。




