『何もしない院長 番外編:蕭何、中原に赴く』
本作に登場する病院は架空です。が、似たような事務局長と右腕がいたら、それは運命です。
南方総合病院・事務局長の中西は、いま、静かに緊張していた。
向かっているのは、南都大学医学部。目的は——常勤医師の派遣依頼。
南方病院の慢性的な医師不足、とりわけ総合診療領域の強化が急務。
医局人事に強い影響を持つ某教授との面談の機会をようやく取り付けたのだ。
同行するのはもちろん、院長・野上。
「……中西くん、俺、今日、しゃべらなくていいよね?」
「最低限はお願いします。打ち合わせ通りで結構ですから。アドリブは禁止です」
「了解。じゃあ、言われたとおり“ゆっくり、はきはき、笑顔で”を意識するわ。えーと、台本どこだっけ」
「今朝ポケットに入れました。無くしてたら自販機の下です」
大学の構内に入ると、教授室の前には秘書が立っていた。
中西が一礼すると、すぐに通される。
応接室。正面に座るのは、南都大学・地域医療教育学講座の名物教授・広田。
地域医療に熱く、しかし医局人事にはきわめて現実的な男。難敵ではあるが、信念の通じる人でもある。
「本日はご足労いただきありがとうございます」
中西が丁寧に頭を下げると、教授は目を細めた。
「こちらこそ。南方さんは、最近“雰囲気がいい”って評判ですよ。さて、今日はどのようなご相談で?」
中西は、そこから準備してきたプレゼンシナリオを展開する。
・地域包括ケアを担える総合診療医の必要性
・医学生・研修医の育成フィールドとしての活用実績
・大学医局との連携による症例・研究支援
・医師が定着しやすい環境づくり(勤務環境、学会出張、家族支援含む)
それらを端的に、資料とともに提示した。
教授は頷きながら聞いていたが、ふと顔を上げる。
「ところで、院長としてはどうお考えですか? 南方病院の方向性として、ですね」
その瞬間、中西は心の中で「きたぞ」と小さく構えた。
合図は出してある。ここで——院長・野上の出番だ。
野上は、静かに椅子から背筋を伸ばすと、ゆっくりと話し始めた。
「南方病院は、“地域に必要なことを、現場が自分で考えられる病院”を目指しています。
医師にも看護師にも、管理職にも、それぞれが役割を果たしながら、
自律的に動ける環境を整えるのが、私の仕事です。……つまり、あまり余計なことはしません」
教授が、目を細めた。
「……なかなか、珍しいお考えですね」
「はい。珍しいと思います。ですが、現場の声が一番早く、正しいんです。
中西くんが“ここにお願いしよう”と言ったので、私は信じて、来ました」
……完璧な「台本通り」である。
教授は、しばらく沈黙したあと、微笑んだ。
「なるほど。つまり、院長は“口出ししない”ことで、現場に裁量を与えてると。
そして、任せられる部下がちゃんといるということですね」
「……まさにその通りです」と中西。
「結構です。——近々、1名、出しましょう。
ただし、一定期間様子を見て、研修の環境と症例の内容も確認させてください」
中西が深く頭を下げると、野上はぽそっと小声で言った。
「……出たよ、“近々出す”ってやつ。俺の時代には聞いたことなかったのに……やっぱ君、すごいわ」
「ありがとうございます。でも台本、読んでくださって助かりました。
ちなみにあの“中西くんが言ったから信じた”ってくだり、ちょっとアドリブ入ってませんでしたか?」
「……実はね、台本、さっきトイレに落として読めなくなったんだ」
帰り道。
中西は内心でこうつぶやいた。
——“蕭何”は政務と調整に追われ、
“劉邦”は酒を飲んで寝ていたと言われるが、
それでも人が集まったのは、「任せる」と決めてくれる人がいたからだ。
そして次の医局アポも、すでに彼の手帳には予約済みである。
これはフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。