何もしない院長パート49「本当にあったこわい病院の怪談」
これはフィクションですが、実際に著者が経験した、病院あるあるをもとに描いています。
それはまだ、野上が大学医局から関連病院に出たばかりの若手医師だった頃。
季節は、暑さの名残が夜に潜む秋のはじめ――病棟の窓がかすかに鳴る夜のことだった。
その患者さんは、認知症だった。
80代後半。痩せてはいたが、昼間は穏やかで、職員にも丁寧な人だった。
だが、ある日から急に訴えるようになった。
「毎晩、私を起こしに来るんですわ」
最初は、せん妄だと思われた。
ナースも介護士も、夜勤者は皆、優しく流していた。
だが、訴えは続いた。
「顔が…黄色くてね、点滴台押して来はるんや。なんかこうはなからひもだして、ずっとこっち見て…何か言いたそうなんやけど、よう聞こえんのですわ」
夜勤の看護師が、申し訳なさそうに野上に言った。
「先生、例の患者さんの言ってる“黄色い人”って…このあいだの田中さんに似てるって思いません?」
野上の背筋が静かに冷えた。
田中さん――
それは二週間前に同じベッドで亡くなった、膵癌末期の患者だった。
鼻から減黄処置のためのチューブステントをいれていた。
そして黄色い顔色。
点滴台を支えに、夜中に病棟をうろうろ歩いていた人だった。
よく、
「若いの、君は内科かね?」と尋ねてきた。
野上は無意識に、ナースステーション横のモニターを見た。
白黒の画面に、ゆっくり動く“点滴台らしき影”が映っていた。
……その時間、誰も病棟を歩いていないはずだった。
翌朝、野上は業者に電話をかけ、点滴台の車輪にオイルを頼んだ。
キャスターの音が夜中にギシギシ響くのが、患者を不安にさせるからと。
そして患者のベッドも、そっと端の明るい窓際に移した。
誰も何も言わなかったが、スタッフたちは「さすが野上先生」とだけ言った。
「……で、結局“黄色い人”はどうなったんですか?」
そう尋ねた後輩に、院長となった野上は、ほほえんで答えた。
「見えなくなったよ。
でも…あの時の患者さん、こんなこと言ってたな。
“あの人、もうええって言うてくれましたわ。やっと眠れそうですわ”…ってな」
病院は、病だけでなく「なにか」も溜まる場所かもしれない。
けれど――
それをほどくのは、意外と、小さな気遣いや気配りなのかもしれない。
なにもしない院長は、やっぱり今日も、何かしている。




