何もしない院長 パート33 「感染症対応訓練の日。“一番遅れてきた”はずの人が、最初にいた」
実在はしないけれど、いてくれたらいいなと思う人の物語。あなたのそばにも、そんな人がいますように。
■ 午前8時45分 訓練前の慌ただしさ
この日は、感染対策委員会が中心となって行う
“ノロウイルス集団感染対応訓練”の日だった。
「患者役、PPE着用チーム、発症確認、ゾーニング……全部そろってる?」
「副院長まだです! あと、院長も“午前の会議がある”って言ってたので、来れないはずです!」
感染対策責任者の野沢理佐看護師長が声を上げる。
時計の針は、もう午前9時ジャストに近づいていた。
■ 午前9時 訓練開始直前
応急処置エリアの確認を終えたチームが廊下に出たそのとき。
廊下の突き当たり、準備室のドアがスッと開く。
……なぜか、野上院長が出てきた。
ガウンとマスクを完璧に装着し、
手には、しっかりと訓練用チェックシート。
一同、固まる。
「い、院長? 午前中、用事があるんじゃ……」
野上(マスク越しにぽつり):
「7時半に来たら、シミュレーション室まだ開いてなかったわ」
「鍵、守衛室で借りたで」
■ 誰よりも早く来ていた理由
訓練後、スタッフの間でささやかれる。
「……何でそんなに早く来たんだろ」
「この訓練、院長が“いちばん苦手そう”なタイプじゃん」
そう。普段なら“後ろでニコニコ見てるだけ”の野上。
でもこの日は、事前マニュアルに朱書きがいくつもあった。
「患者導線がかぶってる」
「スタッフの控室、負圧換気じゃない。開けたら逆効果」
「一人ひとりの導線、5分単位でシミュレーションしよう」
しかも、すべて最小限の赤ペンで的確に書かれていた。
■ 中西事務局長と院長室にて
中西:「……どういうことですか? 院長」
「ワシ、前の病院でノロのクラスターあったとき、夜勤中でな。
トイレ、誰も拭かんでな。しゃーないからワシがしたんや」
「……」
「そのあと、30人発症した。『最初に誰が拭いた』って話になって、
ワシも感染したんやけどな……ふふ、いまだに“初動ミス”言われるんや」
中西は何も言えなかった。
■ 訓練後のアンケート
訓練後、参加者に配布されたアンケートに
匿名で、こんなコメントがあった。
「今日の訓練、いつもより緊張感があって、でも落ち着いてた。
一番奥に“いつの間にか”立ってた院長の背中を見て、
なぜか“やれる”と思えた。」
そして、最後のページに貼られていた付箋。
「初動は一瞬。でも信用は、じわじわ広がる」――野上
これはフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません




