何もしない院長 番外編「おまえら、何を“見とる”んや」
どこかの病院の、誰かの背中に、少しでも重なるものがあれば――それが、私の描きたかったものです。
― 熊田・河添が初めて栗林に叱られた日 ―
南方総合病院——ある意味、“のれん”のような院長・野上と、
現場の“柱”として君臨する元・診療部長・栗林政男。
そして今、実質的に病院の現場を動かしているのが、
熊田(副院長)と河添(部長)である。
2人は気鋭の実務派で、リーダーシップもあってスタッフからの信頼も厚い。
だが、あの日の午後だけは違った。
それは、ただの一件の“看取り”だった
中等度認知症の独居高齢女性が、地域包括支援センターから紹介され、入院していた。
もはや回復の見込みはなく、週末にはご家族も集まり、静かに看取りの時を迎えようとしていた。
熊田は当直明けで一度病棟に顔を出し、
河添は回診後に書類仕事に追われていた。
「……看取りは、明日になるだろう」と、ふたりともそう思っていた。
—
ナースステーションに、バイタル低下の報告が入ったのは午後2時。
当直明けの熊田は仮眠中、河添は会議中。
代わりに、病棟をふらっと覗きに来ていた栗林が、その報告を耳にした。
「家族は……まだやな?」
「ええ、あと20分くらいで来られると……」
栗林は時計を見て、言った。
「ベッド、下げようか。ちょっと、座れるようにして。
枕、あれじゃ首しんどい。
うん、あとは……カーテン、半分だけ閉めとこうか。
外、見えるように」
彼はそれから20分、何も言わず、ただそっと患者の手を握っていた。
—
ご家族が駆けつけたとき、
栗林はその場を立ち、席を譲り、
「……いい時間に来られましたね。さっき、少し笑ったような気がしましたよ」と、
ただそれだけを言って病棟を去った。
夜、カルテに残された栗林の簡素な記録を見た熊田がぽつり。
「……すみません。あの時間、俺がいなきゃいけなかった」
「いや、俺だよ。会議より優先すべきだった」
2人が、申し訳なさそうに栗林を探し、
中庭のベンチに座る彼を見つけた。
「すみませんでした」
と、頭を下げる熊田。
栗林は缶コーヒーを見つめたまま、しばらく黙っていたが、
やがて、低い声で言った。
「……おまえら、あんとき“何を見てた”?」
「……?」
「忙しいのはわかっとる。だがな。
人が逝くとき、
病院が“見られてる”のは、その患者じゃない。
“そこにいた医者の背中”なんだ」
「……」
「見送る医者がおらん病院は、な、
地域で信頼されんのや。技術があってもな。
そんな病院に、家族は大事な人を預けられんやろ」
——言葉は柔らかいが、
明らかにそれは、叱責だった。
だがそれ以上は何も言わず、栗林は立ち上がり、
「ま、明日からまた頑張ろうや」と、笑った。
後日。
ある看護師が、ふと病棟で言った。
「なんか最近、熊田先生も河添先生も……
“患者さんと目線の高さ”が、変わった気がするね」
それを聞いた栗林は、そっぽを向いて、ただ缶コーヒーを開けた。
この物語に登場する人物・団体はすべて架空です。




