何もしない院長 パート21 ― ”鬼”と”Silent"伝説 ―
病院という場所の静かな奇跡を、そっとすくって並べたようなフィクションです。
ある雨の日のこと。
休憩室で、ナースたちのこんな会話が聞こえてきた。
看護師A:「ねえ、知ってる? 院長、昔ERの“鬼”って呼ばれてたらしいよ」
看護師B:「うそ! あの野上院長が? 怒ったとこ見たことないのに?」
看護師C:「手術中に指差すだけで、助手が泣いたって話も聞いた」
看護師D:「研修医を“目だけで指導”してたとか……。あと、喉頭鏡にスタイレットなしで普通に挿管とか」
その日から病棟では、
“野上伝説”が密かに盛り上がりはじめた。
■ ある日の回診
副看護部長の井坂が、そっと院長に尋ねた。
「あの……院長って、若い頃、ERにいたんですか?」
「ああ。十数年くらいおったかな。なんで?」
「うわさが回ってて……“鬼”って呼ばれてたとか」
「……あー、あれか。呼ばれてたな。
“鬼みたいに早く帰る医者”って意味やで」
「えっ!?」
「急変のときだけ来て、対応終わったら誰より先に病棟から消える。
“風の野上”とか“無音の鬼”とか、まあ……遊ばれとったな」
山村は口をぽかんと開けた。
「じゃあ、急変対応からERまで全部御自分で……?」
「そりゃまあ、最初は。せやけどあるとき気づいたんよ。
“自分でやらんでも、うまく回るようにしたほうが早い”し”楽”って」
■ 診療部長・河添の証言
その日の夕方、院長室を訪ねた河添がぽつりと言った。
「昔、学会で1回だけ見ました。野上先生が壇上で、
“話さずにプレゼン”してたやつ。最初は、いわゆる”事故”かと思いましたよ」
中西(事務局長):「え? プレゼンしないってことですか?」
「違います。“スライドだけ”順にながして、完全に沈黙して、
結語に“だから必要です”って言って拍手もらってた。伝説になってましたよ」
野上は鼻をかきながら、こう言った。
「あのとき、風邪ひいて声出んかってん。
しゃあないから、スライドだけ出してしのいだだけや」
院内掲示板に貼られた“黒歴史”
数日後、ナースステーションの掲示板に、
若手職員がこっそり貼った1枚のコピーがあった。
それは――
10年前の学会抄録。発表者:野上太郎。
タイトルは、
「無言のオペレーション:沈黙と自律の医療現場マネジメント」
だれかが手書きで書き添えていた。
“何もしない”じゃなくて、“言わずにやらせる”の達人だった。”
そして、もうひとつ小さな付箋。
「今は“語らぬ仙人”やな」
これはフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません




