何もしない院長 パート19 ― 最後の届け先 ―
誰も見ていないようで、誰かが見ている。そんな“見えない支え”を、信じたくなるときもあります。
春の異動を目前にしたある日。
野上院長の机の上に、1通の封筒が置かれていた。
宛名は手書きでこう書かれている。
「院長 野上様(他言無用)」
差出人は、看護師長・牧野葉子。
病院の歴史とともに歩んできた、生え抜きの看護部幹部。
勤続38年、病院の誰もが頭が上がらない“戦うナイチンゲール”である。
その封筒の中には、
「退職願」と、
短い直筆のメモが入っていた。
「この書類、院長にだけ渡したかったんです。
一番“何もしなかった”あなただから、
一番“私を見てくれていた”気がしたんです」
■ 遡ること、数日前
中堅看護師が牧野師長に言っていた。
「師長、辞めるならもっと大騒ぎになりそうなもんなのに、
なんでこんな静かに……?」
牧野は笑って言った。
「院長が“何もしない人”だからよ。
私みたいな“病院の裏方”を、必要以上に持ち上げもしないし、
無理に引き止めもしない。
……でも、誰よりも“気づいてる”って顔するのよ。不思議な人」
■ 野上、看護部長室を訪ねる
夕方、野上は師長室をノックした。
野上:「辞めるんやて?」
牧野:「はい。定年は2年後ですが、
そろそろ、後輩に任せた方がいいと思いまして」
野上:「なんも言わんけど、
あんたの立てた“夜勤の最小化マニュアル”、
事務局が感心してたわ。
あと、病棟再編のとき、吉永看護部長に言いにくいこと代弁してたやろ」
牧野:「えっ、なぜそれを……」
野上:「なんもしてへんけど、なんも見てへんわけちゃう」
牧野は目を伏せ、少し微笑んだ。
「……やっぱり、あなただから渡したんだと思います」
■ 退職の朝
送別会も、花束も辞退。
いつものように白衣をたたみ、
ナースステーションを静かに見回したあと、
牧野は院長室にだけ立ち寄った。
野上はただ一言。
「ありがとうな。よう病院を支えてくれた」
牧野は何も言わず、深く一礼し、
ナースステーションではなく、病棟の非常階段を使って帰っていった。
誰にも気づかれないように。
■ 野上のデスクに貼られた付箋
その日、野上が自分のデスクに貼っていたメモ。
「“見てくれる人”がいるだけで、続けられることがある」—— のがみ
看護部の誰かが気づいて、そのメモをそっと貼り直した。
「ナース休憩室」の掲示板に。
これはフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません




