何もしない病院長ふたたび
「すみません、明日の厚生部長との会議……日程、間違えてました」
「え!?またですか!」
「……しかも、服、裏返しですよ、院長……」
南方総合病院の院長・野上は、確かに「何もしない」。
それどころか、最近は「よく何かを忘れる」ようになっていた。
・医師採用面談をすっぽかし、職員駐車場で昼寝していた。
・医療安全委員会で議題を取り違え、院内Wi-Fiの電波強化の話を始めてしまった。
・広報誌の院長挨拶欄に、1年前の原稿を再投稿。
「この人、本当に大丈夫か?」と皆が思いながらも、
野上は、どこまでも腰が低く、「すまん、すまん」と笑って謝る。
しかし、その日は違った。
近隣の急性期病院で電子カルテシステムがダウンし、
地域の救急搬送の大半が南方病院に集中することになった。
ベッドは埋まり、スタッフは疲弊。
ICUは満床、OPE室は調整がつかず、救急医は目を赤くしてモニター前に立ち尽くす。
事務局は緊急の災害モードで動き出す。
当然、トップの決断が問われる状況——なのに、野上院長の姿が見えない。
「……また釣りですか?」
皆がため息をついた、その時。
ピンポン、と院内一斉メールが届いた。
《全診療科にて応援対応を》
差出人は、野上。
開封すると、たった三行の文章。
「救急外来が逼迫中です。
診療科の壁を越えて、柔軟な支援をお願いします。
私は診療調整の妨げになりそうなので、病院には戻りません。」
一瞬、職員たちは顔を見合わせた。
だが——動いた。
整形外科の医師が救急に降り、内科医がトリアージに協力。
地域医療連携室が自発的に転院先リストを最新化。
看護部が人員を横断的に再配置。
ベテラン医師がICUの調整役に回った。
「なんで皆こんなに動くのか?」と新人が問うと、主任看護師がつぶやいた。
「“院長が下手に出て、口を出さない”って、現場にとっては一番ありがたいのよ。
主導権、ちゃんと渡されてるってことだから」
その日の夜。状況が落ち着いたころ、
控室の白板には誰かが書いた一文が残されていた。
“指揮官が黙ると、現場が自分で考える。現場が考えると、医療が回る。”
後日——
外部監査チームがこの対応を「奇跡的な一致団結」と絶賛。
「誰が指揮をとったのか」と問われ、スタッフはこう答えた。
「ええと……一番“何もしなかった人”です」
そして、野上院長の机には今も貼られている。
「今日も“なにも邪魔しない”——それだけは忘れずに。」
ただし、その横にはもう一枚の付箋がある。
「でも、災害時には“Wi-Fiの話”はしないこと」