何もしない院長 パート16 ― 三つの問い ―
もし“ウチの病院もこうだったら…”と思ったあなた、それはすでに感染しています。ご注意ください。
研修医の坂口望は、2年目の冬を迎えていた。
真面目で気が強く、周囲からの評価も悪くない。
だが最近、彼女は口に出せない違和感を抱えていた。
——“このまま医者を続けていいのか”
——“何科にも魅力を感じるけど、決めきれない”
——“誰もが“向いてる”というが、自分ではそう思えない”
迷いを口にすれば“甘え”に思われる気がして、
誰にも話せずにいた。
■ ある昼下がり、院長室の前
用事があって事務局に来たついでに、ふと目に入った「野上院長室」の札。
(……この人、たしか“何もしない”って噂だったな)
(けど、“話はちゃんと聞いてくれる”とも言ってたな)
ノックする勇気はなかった。
だがそのとき、ドアが内側からスーッと開いた。
野上:「あ、ごめんごめん。コーヒー取りに出ようとしてたんや。……どないしたん?」
坂口は思わず答えた。
「……いま、時間、いいですか?」
■ 院長室、沈黙とコーヒーの匂い
坂口:「……自分が医者に向いてるのか、わからなくなって」
野上:「ふんふん」
坂口:「診療科も決められないし、
同期はもう、留学だの専門医コースだの……。
焦っても、動けないんです」
野上は頷いたあと、目の前に紙とペンを出し、こう言った。
「3つ、質問させてな。答えは紙に書かんでもええ」
坂口は少し驚いたが、うなずいた。
■ 野上の三つの問い
①「朝、病院に来るとき、いちばん気が重いのは何や?」
坂口:「……病棟で、自分の決断が誰かに迷惑をかけてないか考えるとき」
野上:「ふむ」
②「これまで一番“救われた”と思った瞬間は?」
坂口:「入院中の患者さんから“あなたが毎日来てくれるのが楽しみ”って言われたとき」
野上:「ええやん」
③「“医者を辞めたら”何が一番惜しいと思う?」
坂口:「……たぶん、自分の“してきたこと”が全部なかったことになる感じがして」
野上は、笑った。
「それ、もう“医者の一部”やで」
坂口:「え?」
野上:「“向いてるか”なんて、いま考えてもわからん。
でも、“それが惜しい”って思えるなら、
もうだいぶ、体にしみ込んでるんや。
やめてもええけど……もったいないな」
坂口は目を伏せ、そして笑った。
「……意外と、ちゃんと話してくれるんですね」
野上:「意外とって、どういうことや」
■ 数日後、病院の屋上
坂口は、同期に言った。
「まだ決められないけど、ちょっと安心した。
たぶん、私……“決めたい”んじゃなくて、“迷ってることを、誰かに見てほしかった”んだと思う」
彼女が病棟に戻ると、白板に付箋が一枚、貼られていた。
「迷ってるってことは、歩いてるってことやで」——野上
これはフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません