何もしない院長 パート15 ― 引き止めたのは、たった一言 ―
実在はしないけれど、いてくれたらいいなと思う人の物語。あなたのそばにも、そんな人がいますように。
ある秋の日の夕方、外来が終わりかけたころ。
若手内科医の山根直樹(29)が、白衣のまま院長室をノックした。
野上は、例によって院長公印を押している最中だった。
山根:「あの……急で申し訳ありませんが、
先生に、お時間をいただきたくて……」
野上:「ええよ。……ちょっと待ってな。あと3枚で終わる」
几帳面に判を押し終えると、野上は椅子をくるりと回し、彼を見た。
■ 山根の退職願
机の上に、白い封筒が置かれた。
山根:「……いろいろ、考えたんです。
地方病院で自分にできることは限られてる気がして。
都会の大病院に移って、専門性を深めたいと」
野上は、それをじっと見つめた。
手も伸ばさず、封筒を開けようともしない。
山根:「……患者さんや看護師さんには、申し訳ないんですが……」
野上:「……ほう」
山根:「今のままじゃ、何かが足りない気がして……
自分が、この病院で何になれるのか、わからなくなったんです」
野上は、小さくうなずいた。そして、
窓の外をしばらく見ながら、静かに、こう言った。
「山根先生、あんた今、ちょうど“病院になりかけてる”とこやと思うんや」
山根:「……え?」
野上:「“医者になりかけてる”じゃなくて、“病院になりかけてる”」
山根:「……どういう意味ですか?」
野上:「患者さんが、“この病院がいい”って思うときって、
“○○先生がすごい”やなくて、“なんか、全体がええ”って感じやろ?」
山根:「……はい」
野上:「その“なんか”に、先生の顔とか、声とか、ちょっとした気配りが入ってると、
病院全体の“空気”に、混ざるんよ。
せやから、もうちょっとだけ混ざってみぃひんか?」
山根は、黙った。
何を返せばいいのかも、わからなかった。
けれど、
彼の目から見えたのは、決して押しつけではなく、
「帰ってこい」とも「辞めるな」とも言わない、ただ“混ざってくれ”という言葉。
山根:「……もう少しだけ、考えてもいいですか?」
野上:「それがええわ。封筒、ここに置いとくから、明日取りに来て」
翌朝。
封筒はそのまま置かれていた。
だが、その上には付箋が一枚、貼られていた。
「封筒、いらんようになったら、こっちで処分しとくわ」
山根は、次の月曜、
病棟の申し送りで一番に声をあげていた。
「〇〇さんのデイルーム、暖房が弱いかもしれません。もう少し調整できたら」
その声に、師長がにっこりとうなずいた。
中西事務局長がつぶやいた。
「あいつ、もうだいぶ“南方病院っぽく”なってきましたね」
副院長・熊田は言った。
「ああ、院長の“何気ない言葉”が、いちばん効くんだよ。
……処方せん、いらんくらいにな」
これはフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません