何もしない院長 パート10 ― 回答しないという回答 ―
病院には、白衣だけじゃなく、人の気配と時間が積み重なっている。これは、そんな空気を描いたお話です。
ある日の夕方、南方総合病院の医事課に、一通の封書が届いた。
差出人のない、手書きの投書だった。
中には、こう書かれていた。
「最近の南方病院は、職員がよく笑っている。
昔はもっと、ピリッとしていたように思う。
あんなに和やかで、命が扱えるのか。
本当に、信じていいのか、教えてください。」
課長は少し困って、その投書を副院長・熊田に回した。
熊田は黙って読み終え、そして小さくつぶやいた。
「……これは、案外、重いな」
数年前なら、即座に院長室の扉をノックしていただろう。
だが今は、もう分かっている。
これは、院長・野上が自分で受け取るべき手紙だ。
翌朝、熊田が静かに封筒を野上に手渡すと、
院長は「ほう」と言って受け取り、そのまま目を通した。
読み終わると、何も言わず、ただ椅子にもたれて天井を見上げた。
——そして、そのまま、何もしなかった。
■ 院内、揺れる
看護部長・吉永:「返事を出すべきでは? “笑顔=緊張感がない”と見られているのなら誤解を解きたい」
事務局長・中西:「匿名でも“地域の声”です。公的病院として黙っていていいのか、議会に問われかねません」
診療部長・河添:「私なら“教育的見地から”説明したくなります。だが、あえて出さない理由が、あるとすれば……」
——そして一週間後。
誰にも言わず、野上は掲示板の一角に、小さな紙を一枚貼った。
タイトルもなく、名前もなく。
ただ、こう書いてあった。
今日、うちの病院で赤ちゃんが生まれました。
そのおじいちゃんが外来にお見舞いにやって来て、「なにがあってもじいちゃんがみてやるから心配いらんからな」と言いました。
その横を、手術室から出てきた若い先生が、にこにこしながら通りすぎました。
病院という場所は、人の不安と人の決意が、同じ空間にいるところです。
笑ってるのは、余裕ではなく、踏んばってる証かもしれません。
誰かが聞いた。
「院長、これは投書への返事ですか?」
野上は答えた。
「……返事って、“相手が名乗ってから”するもんやけどな。
でも、“名乗れない本音”もあるやろ? なら、“こちらも本音”で返せばええだけやと思ってな」
その掲示文は、翌週にはもう剥がされていた。
でも、誰かが撮った写真が、院内のLINEグループで静かに広まり、
「たぶん、あれが一番“らしい”回答だった」と、皆が思っていた。
数日後、事務局にまた一通、封書が届いた。
今度は差出人付きだった。
「あの掲示、見ました。
“命ある場所には、沈黙よりもある種の空気感が必要”ってわかりました。
ありがとうございました。」
中西が封筒ごと院長に渡すと、野上は嬉しそうに笑って言った。
「ようやく“何もしない返事”が、伝わったみたいやな」
その日、院長の机の付箋が、そっと書き換えられていた。
「何もしないのは、沈黙じゃない。受け止める構えのことだ」
そしてもうひとつ、なぜか別の付箋も。
「でも、匿名の投書箱はそろそろ鍵つけよう」
これはフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません