何もしない院長 パート9 ― 野上入院!? 病棟が静かにパニック ―
誰かの“当たり前”の一日を、当たり前に支えている人がいる。野上は、その一人なのかもしれない。
南方総合病院の月曜朝。
病院の“空気”が、いつもと違った。
「……今日、院長いないの?」
「いや、それが……入院したらしい」
噂はたちまち院内を駆け巡った。
■ 発端
週末、野上院長が釣りの帰りに「なんか脇腹が痛いな〜」と言いながら当直室にふらりと立ち寄った。
軽い結石かと思ってCTを撮ったところ、まさかの虫垂炎。
そのまま緊急オペ→入院となった。
「どうする? 院長が病棟に“いる”って、どうすれば……?」
最初に混乱したのは看護部だった。
● 院長だからVIP対応?
● でも本人が「普通でいい」と言ってる?
● カーテン閉めっぱなしで、昼寝してるだけ?
● むしろスタッフが緊張して休めない……
一同、“病棟に静かなるパニック”状態に突入。
■ 熊田副院長、空気を読む
「落ち着け。院長が入院したからって、特別なことをするな。
“何もしない”のが野上先生のスタイルだ。なら……我々も“変に気を使わない”のが正解だ」
そう言って、あえて病棟にも報告しないという“戦略的放置”を宣言した。
しかし、職員たちはざわついていた。
「だって……あの野上院長が“患者側”って、イメージがつかない!」
「いや、そもそも医者の検査に素直に応じるタイプだっけ?」
「リモートで指示を飛ばしてきたりしないよね……?」
■ 河添診療部長、静かに観察
河添はそっと様子を見にいった。
カーテン越しに聞こえたのは、ベッド上で淡々と読書をする声。
——それは新人向けの規定マニュアルだった。
「……え、院長、それ読んでるんですか」
「うん。ヒマだから。あと“患者としてどう見えるか”っていう視点、やっぱり大事やなあと思って」
「……!」
河添は、その“なにげない観察力”に驚嘆した。
■ 中西事務局長の暴走
一方、事務局長・中西は「これは一大事!」と院内文書を作成。
【重要連絡】院長入院に伴う業務代行体制について
※ただし本人より「何もしないで」と伝言あり
まるで矛盾のような通知に、職員は逆に安心した。
「……ああ、やっぱり“あの人”は、入院しても何もしないんだ」
■ 退院の日
一週間後。野上は何事もなかったように退院。
だが彼の退院直後、病棟カンファレンス室に置かれていたA4のメモが話題となった。
「入院中にわかったこと」 by 野上
① 夜の廊下の音は意外と響く。
② 消灯時間を“守らせる空気”はすごい。
③ 若手看護師の説明、すごく丁寧で安心した。
④ “自分が患者になった”ことで、少しだけ世界の見え方が変わった。
最後に——
⑤ 病院って、ちょっとええとこやな。
職員たちは笑い、そして静かに誇らしげな顔をした。
その日の夕方。院長室に戻ってきた野上は、
椅子に座ると、さっそくデスクの上にあった文書に目を通した。
「中西くん……この“院長入院に伴う代行体制文書”、ちょっと多すぎへん?
なんやこの“精神的ケア体制図”って」
「すみません、ちょっとやりすぎました。でも院長、いてもいなくても、病院はちゃんと動きましたよ」
「うん。俺がいないと“ちょっとだけ不安”で、
でも俺がいても“あんまり意味ない”って……そういうバランス、大事やな」
野上は、退院祝いとして職員が作ってくれた「何もしないリカバリーセット(入浴剤とお茶)」を見つめながら、
静かにこうつぶやいた。
「俺の代わりはいくらでもおる。でも、“俺がいないこと”の意味は、俺にしかできんからな」
机の端に、また新しい付箋が貼られた。
「いないことにも価値がある」
——それが、“何もしない院長”の、ひとつの仕事だった。
これはフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません