何もしない院長 パート8 ― いないという仕事 ―
病院は建物じゃない。そこにいる“誰か”の気配で、今日も持ちこたえている。
ある春の日、南方総合病院に一通のメールが届いた。
件名:【重要】院長・野上、来週より1週間不在のお知らせ
理由:地域医療国際シンポジウム(石垣島開催)参加のため
※釣り道具持参可否を事務に確認中
一部の職員が「またサボ……いや、視察か」と噂しながらも、
病院内にはほんの少しだけ緊張感が漂っていた。
「……“いない”って、案外、困るかもな」
副院長・熊田がぽつりと言った。
事務局長・中西は「この1週間で病院崩壊しないか検証できますね」と笑ったが、
診療部長・河添は「いや、逆に“野上が何をしていたか”が、初めて見えるかもしれませんよ」と静かに言った。
■ 院長不在1日目
朝礼。
「今日は……あ、野上院長いませんね……副院長、お願いします」
昼。
「お昼の回診同行? いや、院長って普段どうしてましたっけ?」
夕方。
「え?会議、誰が仕切る? 議題の整理って、あの人意外とやってたのか……」
一つひとつは些細な“穴”だった。
だが、誰にも怒られない代わりに、“誰も決めてくれない”。
一見自由に見えた院長の姿勢が、実は暗黙の“安定軸”だったことに気づき始める。
■ 院長不在4日目
副看護部長・井坂がぽつりと漏らす。
「“何も言わない”ことが、“何も考えてない”って意味じゃなかったんですね……」
中西もぼやく。
「誰がどこまで自由に動いていいか、全部見えてる人だったんだな……
黙って“黙ってる”って、結構怖い技術だ」
河添は言った。
「正直、いないと……ちょっと不安なんです。
でも、“不在でも病院がまわる”って、実はとんでもないマネジメントですよ」
その日、届いたFAX(!)には、野上のメモがあった。
「こちら石垣。視察先の病院は“海が見える待合室”が人気です。
うちは山しか見えんけど、それもまた良しやな。
来週戻ります。
なにかあったら、何とかして。
なかったら、そのままでええです」
■ 帰還
1週間後。
何事もなかったかのように、野上が戻ってきた。
「ただいまー。……お、誰も困ってなさそうやな?」
熊田が言った。
「ええ、まあ、問題なく……回ってました」
「それはよかった。
……俺がおらんでも回る、ってことは、俺がちゃんとおった証拠やからね」
一同、ハッとした。
その日の午後。
院長室の机には、誰かが貼った付箋が一枚。
「いないという仕事もある」
野上はにやりと笑って、こう書き加えた。
「それがバレたら、また働かされる」
これはフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません