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第九話『暴走するシュガーアルケミー』

カロン王子との間に、ほんの少しだけ、ガラス細工のような脆い繋がりが生まれたかもしれないと感じていた日々。しかし、それは同時に、私の心の中に潜む黒い影――リアファルさんの理解者を名乗る、あのフードの人物――の存在を、より重く意識させることにも繋がっていた。彼の甘い誘惑は、リアファルさんの無念を晴らしたいという私の願いを絶えず刺激し、心を揺さぶり続ける。真実を知り、黒幕を断罪できるかもしれないという可能性は、あまりにも魅力的で、抗いがたい。


(あの人の言う通りにすれば、リアファルさんの名誉は回復できるかもしれない。彼女の魂も、少しは安らげるかもしれない…。でも、そのために私は、この危険な力をもっと使わなければならない。もし、あの人が本当の黒幕で、私を利用しているだけだったら…? もっと多くの人を傷つけ、取り返しのつかないことになるかもしれない…)


一方で、カロン王子に相談するという選択肢も、依然として私の心を占めていた。彼に自身の秘密を打ち明けられたことで、彼への信頼感は以前よりも増している。彼なら、あの黒い影の危険性も理解してくれるかもしれない。そして、彼の力と立場があれば、安全に真実を探る手助けをしてくれるかもしれない。しかし、彼を巻き込むことへの躊躇いもまた、強くなっていた。彼の過去のトラウマを知ってしまった今、私の抱えるこの禍々しい問題が、彼に更なる苦痛を与え、再び彼を孤独の淵に突き落としてしまうのではないかと、恐れてしまうのだ。


結局、私はどちらの道も選べず、重い秘密を抱えたまま、アトリエという名の鳥籠の中で、ただ時間だけを浪費していた。力の制御の練習をしても、リアファルさんの日記の断片を読み返しても、心の迷いは晴れない。むしろ、焦りと不安ばかりが募っていく。時折、リアファルさんの激しい感情が、まるで悪夢のようにフラッシュバックしては、私の精神を削り取っていく。


そんな私の迷いを見透かしたかのように、あるいは、私の躊躇いが彼らに十分な準備の時間を与えてしまったのか、黒幕の罠は、静かに、しかし確実に、そして最も卑劣な形で、私に迫っていた。


ある日の夕暮れ時、アトリエの古びた窓枠に、一羽の漆黒の鳥が、音もなく舞い降りた。それはカラスのようにも見えたが、その瞳は不気味な赤い光を宿しており、明らかに普通の鳥ではなかった。纏う空気も、どこか淀んでいて禍々しい。私が警戒しながらゆっくりと近づくと、鳥はカァ、と嗄れた声で鳴き、咥えていた小さな羊皮紙の巻物を窓の内側に落とすと、再び音もなく夜の闇へと飛び去っていった。


(何…? あの鳥…それに、この巻物…)


嫌な予感が胸を騒がせる。震える手で巻物を拾い上げ、紐を解いて広げてみる。そこには、急いで書かれたのであろう、少し乱れた、しかし見慣れた特徴を持つ文字で、短いメッセージが記されていた。そして、その下には、カロンのサインが、本物そっくりに模倣されていた。


『メルティア、助けてくれ。リアファルの塔にて何者かに襲撃され、負傷した。動けない。奴らはまだ近くにいるかもしれない。至急救援を乞う! 頼む! カロン』


(えっ!? カロンが!? この塔で!? 襲撃!? 負傷して動けない!?)


瞬間、私の頭の中が真っ白になった。血の気が引く(砂糖の身体だが、確かにそう感じた)。カロンほどの剣の腕と力を持つ王子が、しかも彼が警戒しているであろうこのリアファルの塔で、襲撃され負傷するなんて。ありえない。しかし、この筆跡(のように見える文字)と、彼のサイン(のように見える署名)、そして何より、助けを求める切迫した内容。罠かもしれない、という疑いが一瞬、本当に一瞬だけ頭をよぎった。だが、それ以上に、彼が危ないかもしれない、私が助けに行かなければ、という強い衝動が、私の冷静な判断力を根こそぎ奪い去った。もしこれが本当なら、一刻も早く彼の元へ行かなければ!


(行かなきゃ! カロンが危ない! 私が行かないと!)


私は後先を考える余裕もなく、アトリエを飛び出した。リアファルの塔――私が今いるこの古びた塔――の内部は、入り組んでいて迷路のようだ。メッセージには具体的な場所は書かれていなかったが、彼ほどの人物が隠れるとしたら、あるいは待ち伏せするとしたら、最上階に近い、見晴らしの良い部屋かもしれない。私は、軋む砂糖の身体に鞭打ち、埃っぽい螺旋階段を、転がるように必死で駆け上がった。息が切れる(ような感覚に陥る)。


そして、塔の上層階、かつてリアファルさんが客人を招き、ささやかな茶会などを開くために使っていたと思われる、今は荒れ果てて家具もまばらなサロンのような部屋にたどり着いた時、私は息を呑むほど異様な光景を目にした。


部屋の中央には、カロンの姿はどこにもなかった。代わりに、部屋の中央に置かれた優美な円テーブルの上に、古びた、しかし螺鈿細工のような美しい装飾が施されたオルゴールが一つ、まるで舞台の小道具のように、ぽつんと置かれていたのだ。そして、そのオルゴールからは、私の敏感な感覚が捉えるまでもなく、禍々しいほどの強い呪いの気配が、黒いオーラのように立ち昇っていた。それは、リアファルの深い怨念と共鳴するような、悪意に満ちた力。

(これは…罠だ!)

そう気づいた時には、全てが遅かった。私が部屋に足を踏み入れた瞬間、まるで私の侵入を待っていたかのように、オルゴールがひとりでにギィィ…と軋んだ音を立てて開き、そこから濃密な黒い霧のような呪いが、猛烈な勢いで噴き出したのだ。それは、おそらくリアファルが愛用していたであろうオルゴールに、黒幕が長い時間をかけて仕掛けた、彼女の怨念を強制的に増幅させ、暴走させるための、強力で悪質な呪術だったのだ。

「しまった…!」


黒い霧は、回避する間もなく、私の小さな砂糖の身体を完全に包み込んだ。瞬間、まるでダムが決壊したかのように、私の内側で辛うじて抑え込まれていたリアファルの怨念が、強制的に、そして爆発的に増幅されるのを感じた。

(ああ…! 頭が…割れる…! 憎い…! 憎い憎い憎い! 裏切り者! 私を陥れた奴ら! みんな、みんな、許さない…!)

リアファルの激しい怒り、深い悲しみ、満たされなかった渇望、そして世界そのものへの呪詛が、制御不能な奔流となって私の意識を完全に飲み込んでいく。

「やめて…! 私は…メルティア…! リアファルさんじゃない…!」

最後の力を振り絞って抵抗しようとするが、増幅された怨念の力はあまりにも強大で、私の矮小な自我など、まるで木の葉のように簡単に押し流されてしまう。私の理性は急速に溶解し、身体の奥底から、制御不能な禍々しい力が、奔流となって溢れ出し始めた。


アトリエの壁や床、天井、残っていた家具、空気中の水分までもが、私の意志とは全く無関係に、次々と美しいが禍々しい砂糖の結晶へと姿を変えていく。鋭利な飴細工の棘が床から無数に突き出し、壁には苦悶の表情を浮かべたような不気味な砂糖のレリーフが次々と浮かび上がる。甘ったるい香りがむせ返るほどに空間を満たし、それはもはや芳香ではなく、死と狂気を孕んだ毒の瘴気のようだ。空間そのものが、怨念によって歪み、ねじ曲げられていくかのようだった。

(ああ…! 止まらない…! 身体が…力が…勝手に…! 壊れていく…全部…!)


そして、その暴走は、私自身の身体にも容赦なく及んだ。美しい砂糖人形の姿は見る影もなく崩れ始め、不定形に、醜悪に膨張していく。複数の顔が、苦悶や憎悪の表情を浮かべて現れては消え、無数の砂糖の手足が、まるで悪夢のように蠢きながら生えてくる。それはもはや「メルティア」ではなく、リアファルの怨念と私の力が歪に融合し、具現化した、名状しがたい砂糖の怪物だった。

(全部…壊レテシマエ…コロシテヤル…)

もはや、メルティアとしての私の意識は、嵐の海の底に沈んだ小石のように、ほとんど残っていなかった。リアファルの憎悪と破壊衝動の声だけが、私(あるいは怪物)の中から、空間全体に響き渡る。

「裏切り者! 許さない! 私をこんな目にあわせた奴ら! みんな、みんな、壊れてしまえ!」


その、絶望と狂気に満ちた叫びが最高潮に達した、まさにその時だった。

「メルティア!」

階下から、切羽詰まった、しかし強い意志のこもったカロンの声が聞こえた。彼は罠に気づいたのか、あるいはこの凄まじい異変を察知して駆けつけてくれたのだ。

「しっかりしろ!」

声と共に、カロンは暴走する力の渦の中へ、躊躇なく飛び込んできた。鋭利な砂糖の破片が、嵐のように彼を襲う。しかし、彼はそれを卓越した剣捌きで的確に弾き、あるいは自身の持つ冷気の魔力で凍らせて防ぎながら、恐れることなく、怪物の姿と成り果てた私へと真っ直ぐに近づいてくる。

「くっ…! なんという力だ…! これが、お前の力の暴走か…!」

彼は圧倒的な力の奔流に押し返されそうになりながらも、決して諦めなかった。そして、その凍てつくような灰色の瞳で、蠢く怪物の中心――そこにまだ辛うじて残っているであろう、メルティアとしての私の本来の意識、その魂の輝き――を捉えると、魂そのものを振り絞るかのように、力強く叫んだ。

「目を覚ませ、メルティア! お前はリアファルの怨念の器ではない! お前は、お前自身の意志を持っているはずだ! 私の声を聞け! メルティア!!」


カロンの必死の呼びかけ。それは、吹き荒れる怨念の嵐の中では、あまりにもか細く響くだけだったかもしれない。しかし、その声に乗せられた強い想いと、彼自身の魂の力は、確かに、怨念の分厚い殻を貫き、私の意識の最も深い、最も暗い場所に、一筋の光のように届いたような気がした。

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