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第八話『凍てつく心の棘(とげ)』

黒き影――リアファルさんの理解者を名乗る、あのフードの人物――との不気味な接触から、数日が重苦しく過ぎていった。私の心は、晴れることのない濃い霧の中にいるようだった。彼の囁いた甘い誘惑は、リアファルさんの無念を晴らしたいという私の切なる願いを強く刺激し、心を揺さぶり続ける。真実を知り、黒幕を断罪できるかもしれないという可能性は、抗いがたいほど魅力的だ。


しかし、同時に、あの人物から感じた底知れない胡散臭さと、冷たい計算高さ、そして私を単なる「道具」としか見ていないような気配が、私に決断をためらわせていた。あの誘いに乗れば、私は彼の掌の上で踊らされ、利用された挙句、もっと酷い結末を迎えることになるのではないか? そんな強い予感が、私の足を竦ませるのだ。


(あの人の言う通りにすれば、リアファルさんの名誉は回復できるかもしれない。でも、そのために私は、この力を、もっと危険なことに使わなければならなくなるかもしれない…。もし、あの人が本当の黒幕だったら…? 利用されているだけだったら…? 取り返しのつかないことになる…)


かといって、他に頼れるあてもない。このアトリエで一人、悶々と悩み続けていても、何も解決しない。頭の中に、あの氷の王子、カロンの姿が何度も浮かんでは消える。彼に相談するという選択肢。夜会での一件以来、彼に対する見方は少し変わった。彼はただ冷たいだけの人間ではないのかもしれない。リアファルさんのことだって、あるいは何か知っているかもしれないし、気にかけているようにも見えた。彼ほどの力と立場があれば、黒幕の正体を突き止め、断罪することも可能かもしれない。


(でも…彼だって、本当に信用できるわけじゃない…)


彼への不信感も、まだ完全に拭いきれたわけではなかった。彼は私の能力に気づいている。その上で、私を「興味深い」と評した。それは、私を研究対象か、あるいは利用価値のある駒として見ているということではないのか? あの夜会で私を庇ったのだって、ただの気まぐれか、あるいは何か別の計算があったのかもしれない。それに、こんな得体のしれないフードの人物に接触され、甘言を弄されているなんて話したら、彼にどう思われるだろう? 私自身が怪しまれ、警戒されるだけではないか? そんな疑念が、カロンへの相談という、か細い蜘蛛の糸にすがることを、私に躊躇させていた。


そんな出口の見えない葛藤を抱えながら、私は相変わらずアトリエに籠もり、日々の時間を過ごしていた。少しでも気を紛らわせ、そしていつか来るかもしれない「その時」に備えるために、私は呪詛錬金の力の制御を試みることに集中しようとした。感情を込めずに、純粋な物質変換だけを行う練習。例えば、この砕けた砂糖の破片を、ただの塩に変えるとか、あるいはガラスの欠片を、ただの砂に変えるとか…。しかし、何度試してみても、結果は芳しくなかった。どうしても、私の作るものには、微かな感情の「味」や「匂い」、あるいは形そのものに、私のその時の気分や、奥底に沈殿しているリアファルさんの感情の残滓が、反映されてしまうのだ。まるで、この力そのものが、私の魂と、リアファルの怨念と、分かち難く結びついているかのようだった。


リアファルさんの日記も、時折手に取ってみた。しかし、あの最後のページに触れた時の衝撃と恐怖が忘れられず、なかなか深く読み進めることができない。それでも、彼女の残したお菓子のスケッチやレシピを見ていると、心が少しだけ安らぎ、パティシエだった頃の純粋な喜びを思い出せるような気がした。


そんな、不安と葛藤、そして僅かな日常が入り混じったある日のことだった。予期せぬ形で、カロン王子が再びアトリエを訪れた。今度は使いではなく、彼自身が、またしても何の予告もなく、一人で。


コンコン、と控えめだが確かなノックの音。私は一瞬身を固くしたが、すぐにそれが彼の気配であることに気づいた。しかし、以前とは少し違う。あの凍てつくような冷気だけでなく、何か別の響き――決意のような、あるいはほんのわずかな、人間的な迷いのような――が、その気配に含まれているような気がしたのだ。

私が返事をする前に、彼は静かに扉を開け、中に入ってきた。そして、アトリエの中央で立ち止まると、低い声で、しかしはっきりと私の名を呼んだ。

「メルティア」


(…! やっぱり、私の名前を知ってたんだ…!)

驚きと警戒で、私の小さな身体が強張る。彼は、どこまで私のことを知っているのだろう?

「少し話がある。私の執務室に来い」

有無を言わせぬ、命令とも取れる口調。しかし、その声の響きには、やはり以前とは違う、何かがあった。絶対的な冷たさだけではない、何か。彼は、いつものように私を「作品」として箱に入れるのではなく、驚いたことに、白い手袋に包まれた手をそっと差し出し、私自身――この小さな砂糖人形の姿のままの私――を、壊れ物を扱うかのように、優しくその手に乗せた。そして、アトリエを後にし、王城へと向かった。


カロンの手に乗せられて運ばれる間、私は混乱していた。彼は一体何を考えているのだろう? なぜ私を執務室に? 彼の手に触れる部分から、微かに彼の体温(それは常人より低いのかもしれないが)と、そして複雑な感情の揺らぎのようなものが伝わってくる気がした。


連れてこられたのは、王城の一角にある、彼の私的な執務室だった。部屋は広く、調度品も間違いなく最高級のものだ。磨き上げられたマホガニーの大きな執務机、壁一面を埋め尽くす書棚には、難しそうな専門書が隙間なく並んでいる。しかし、驚くほど物が少なく、個人的な装飾品や、生活を感じさせるものは一切見当たらない。全てが完璧に整頓されすぎていて、まるでモデルルームか、あるいは主のいない部屋のように、どこか人間味の欠けた、冷たく寂しい印象を受けた。まるで、彼の心の内部をそのまま映し出しているかのようだ、と私は思った。


彼は私を、その大きな執務机の、書類一つない滑らかな表面の上に、そっと置いた。窓の外には、手入れの行き届いた王宮の庭園が見えるが、彼はそちらに背を向けている。二人きりの、重たいほどの静寂に満ちた空間。私の砂糖の心臓が、緊張で早鐘を打っている。彼は一体、何を話すつもりなのだろうか?


「…私には、他者の感情や魔力が、ノイズのように感じられる。生まれつきだ」

窓の外の景色を眺めながら、まるで独り言のように、カロンは静かに語り始めた。それは、あまりにも唐突な、そして予想もしなかった、個人的な告白だった。

「喜びも、悲しみも、悪意も…好意さえも、全てが等しく、私の内側でやかましく響き、私を苛む。だから、私は幼い頃から、他者との間に見えない壁を作り、自らの感情を凍らせることでしか、正気を保つことができなかった」

彼の言葉に、私は息を呑んだ。「氷の王子」と呼ばれる所以。それは、彼が望んでそうなったのではなく、彼が生まれつき背負わされた、過酷で孤独な呪いのような体質だったのだ。夜会で感じた、彼の周囲だけ空気が違うような感覚も、この体質のせいだったのかもしれない。


「…かつて、私の近しい者が、その強すぎる魔力を制御できずに暴走したことがあった」

彼は、さらに声を低め、感情を押し殺した声で続けた。

「私には、その予兆がはっきりと感じられていた。危険だと分かっていた。だが、私は…何もできなかった。私の力が、私の言葉が、その者をさらに追い詰めることを恐れて…。結局、その者は…私の目の前で…」

彼はそこまで言うと、言葉を切り、固く唇を結んだ。その横顔には、深い後悔と、決して癒えることのない痛みの色が、確かに刻まれていた。

(この人も…苦しんでいたんだ。私と同じように、生まれ持った力に…。そして、大切な人を…守れなかったのかもしれない…)

彼の孤独と痛みが、私の心に深く、そして強く響いた。彼への警戒心が、いつの間にか同情と、そして同じような苦しみを抱える者としての、静かな共感へと変わっていくのを感じる。そして、衝動的に思ったのだ。この傷ついた魂を、ほんの少しでも、私が癒してあげられないだろうか、と。


「…あの、これ…よかったら…」

私は、咄嗟に、常に少量持ち歩いている予備の砂糖を取り出した。そして、そこに特別なハーブ――アトリエの片隅に奇跡的に残っていた、安らぎをもたらすと言われる乾燥ハーブ――の粉末を混ぜ込み、私の純粋な願いを込めて練り上げていく。「あなたの心が、ほんの少しでも和らぎますように」と。しかし、その純粋な願いの中に、無意識のうちに、リアファルの満たされなかった「誰かに癒されたい」という強い渇望が、まるで隠し味のように、微かに混ざってしまったかもしれないという予感もあった。完成したのは、淡い緑色をした、小さな星形のハーブシュガーだった。

私はそれを、カロンの前に、そっと差し出した。


カロンは、差し出された小さなハーブシュガーを、一瞬、驚いたような表情で見つめた。彼にとって、他者から、特に私のような存在から、このような純粋な(ように見える)贈り物を受け取るのは、初めての経験だったのかもしれない。彼はすぐにいつもの無表情に戻ると、しかし以前よりも少しだけ柔らかい手つきで、それを受け取った。そして、近くにあった冷めたティーカップの紅茶の中に、それを静かに溶かした。


淡い緑色が紅茶に溶けていくのを、私は息を詰めて見守った。カロンは、ゆっくりとカップを口に運ぶ。紅茶を一口含んだ瞬間、彼の顔が僅かに歪み、カップを持つ手が微かに震えた。やはり、過去のトラウマが、菓子の持つ力によって呼び覚まされたのかもしれない。私の力は、やはり危険なものなのだ、と心が痛む。

しかし、次の瞬間、彼の表情が予期せぬ変化を見せた。苦痛の色が和らぎ、代わりに驚きと、そして戸惑いのような色が、彼の灰色の瞳に浮かんだのだ。彼は、まるで初めて感じる感覚を確かめるかのように、胸元をそっと押さえた。

「…これは…温かい…のか…?」

その呟きは、彼自身にも信じられないといった響きを持っていた。それは、物理的な温度ではなく、心の奥底で感じる、微かで、しかし確かな温もりだったのかもしれない。


(効いた…? 安らぎが、少しは伝わった? でも、やっぱり苦しそうだった…やっぱり、私の力は、単純なものじゃないんだ…)

私の力が、彼に安らぎと同時に苦痛も与えてしまったことに、私は喜びと後悔が入り混じった複雑な気持ちになった。しかし、カロンは私を責めるような素振りは見せず、ただ静かに、しかし以前よりもずっと柔らかく、そして何かを探るような深い眼差しで、私を見つめていた。

(この感覚は…初めてだ。苦痛と同時に、安らぎを感じるなど…。この人形メルティアは…やはり、ただの呪われた存在ではない。危険な力を持っている。だが…手放すわけにはいかない…いや、手放したくないのかもしれない…)

彼の心の声(のように感じたもの)が、以前よりもはっきりと、私の中に流れ込んでくる。彼は、私の存在が自身の凍てついた心に、予期せぬ、そして抗いがたい変化をもたらしていることを、はっきりと自覚したようだった。


この出来事を通して、私とカロンの間の見えない壁は、確実に少しだけ低くなったように思えた。彼が自身の秘密を打ち明けてくれたこと、そして私の作ったものが、僅かでも彼の心を動かしたこと。それは、孤独な私にとって大きな意味を持つ出来事だった。しかし、それは単純な信頼関係の始まりとはまだ言えない、危うさを伴った、ガラス細工のような繋がりだった。そして、私はまだ、あの黒き影の甘い誘惑について、彼に打ち明けることができずにいた。彼への理解が深まったからこそ、余計に話しにくくなったのかもしれない。私の抱える秘密は、依然として重く、暗い影を落としていた。

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