第七話『黒き影と甘き誘惑』
王宮の夜会からアトリエに戻り、数日が静かに過ぎていった。しかし、私の心の中は決して静かではなかった。あの夜、箱の隙間から見たきらびやかな世界の裏側、貴族たちの剥き出しの悪意、そしてリアファルさんに対する根強い偏見と嘲笑。それらが脳裏に焼き付き、彼女の無念を晴らしたいという気持ちは、以前にも増して強く、切実なものとなっていた。一体誰が、あれほど才能に溢れた彼女を陥れたのか? 真実を知りたい、という渇望が日増しに強くなっていく。
同時に、あの氷の王子、カロンの不可解な行動も、私の頭から離れなかった。彼はなぜ、あの悪意に満ちた噂話をする貴族たちから、私を庇うような素振りを見せたのだろうか? ただの気まぐれか、それとも彼なりに、リアファルさんに対して何か特別な思いがあるのか…? 彼に対する警戒心はまだ解けていない。あの氷のような瞳の奥で、彼が何を考えているのか、私には全く窺い知ることができない。しかし、あの夜の出来事で、彼に対する見方がほんの少しだけ変わったのもまた事実だった。彼はただ冷たいだけの、感情のない人間ではないのかもしれない、と。ほんの僅かな、しかし無視できない変化が、私の中で起こり始めていた。
そんなことを考えながら、私はアトリエで過ごしていた。リアファルの日記を再び開く勇気はまだ持てず、代わりに、自分の持つこの奇妙な力、「呪詛錬金」の性質を探ろうと試みていた。感情を込めずに、ただ物質を別の物質に変えることはできないか? 例えば、この砕けた砂糖の破片を、ただの砂にするとか。しかし、何度試してみても、どうしても私の作るものには、微かな感情の「味」や「匂い」のようなものが残ってしまう。まるで、この力そのものが、感情と分かち難く結びついているかのようだった。
そんなある日の午後、アトリエの重厚な扉が、外から静かに、しかしはっきりとノックされた。コンコン、と控えめな音。それは、以前のカロン自身の来訪の時のような、有無を言わせぬ響きとは違っていた。しかし、同時に、彼の従者が来た時のような、礼儀正しいだけの音とも違う。もっと得体のしれない、ぬるりとした、気配を殺したようなノックだった。
(誰…? カロンじゃない…彼の従者でもない…もっと、何か…嫌な感じがする…)
背筋に冷たいものが走り、私は咄嗟に作業台の影に身を隠した。警戒しながら扉の隙間から外を覗うと、そこには予想通り、見知らぬ人物が立っていた。背が高く、痩せた体躯を、上質だがくすんだ色合いのローブで頭からすっぽりと覆い、顔を隠している。その人物からは、夜会のきらびやかな貴族たちとも、カロンの凍てつくような冷気とも全く違う、奇妙に甘くまとわりつくような、それでいてどこか腐臭にも似た、不気味なオーラが微かに発せられているのを感じた。
「…どなたですか? 何か御用でしょうか?」
私は、できるだけ平静を装い、しかし警戒心を隠さずに問いかけた。私の声は、この小さな身体では壁越しに聞こえているだけのはずだが、相手は正確に私のいる方向を向いた気がした。
フードの人物は、抑揚のない、蛇が這うように滑らかな声で答えた。
「お初にお目にかかる、リアファル嬢の遺した希望よ。ようやくお会いできた」
(リアファルの遺した希望…? やっぱり、私のことを言ってる…! この人は、私の正体を知っているんだ! どうやって…!?)
その言葉に、私は息を呑んだ。心臓が恐怖で激しく打ち鳴らされる。この人物は一体何者なのか? なぜ私のことを知っている? そして、何をしに来たのか?
「驚かれるのも無理はありませんな。突然の訪問、お許しいただきたい。しかし、私は決してあなたの敵ではありません。むしろ、あなたのその稀有な力を理解し、その行く末を深く案じている者です」
フードの人物は、まるで私の心の内を見透かしているかのように、言葉を続けた。その声には、奇妙な説得力と、抗いがたいような響きがあった。
「かの悲劇の令嬢、リアファル・ファーランド。彼女の類まれなる才能は、心無い者たちの嫉妬と陰謀によって、不当に貶められました。彼女の名誉は地に堕ち、真実は深い闇の中に葬られたままです。…あなたは、それを、このままにしておいて良いのですか?」
その言葉は、鋭い針のように、私の心の最も柔らかく、最も弱い部分を的確に突いてきた。リアファルさんの無念を晴らしたい、彼女の本当の姿を知ってほしい、そして真実を明らかにしたいという、私の強く、しかし漠然とした願い。この人物は、それを正確に見抜いている。
「あなたは…一体、誰なのですか? 何を知っているのですか? 教えてください!」
私は、思わず身を乗り出し、震える声で尋ねていた。恐怖よりも、真実への渇望が勝っていた。
「私は、リアファル嬢が心を許した、数少ない理解者の一人でした。そして、彼女を罠にはめ、絶望の淵に突き落とした、真の黒幕を知る者です」
フードの人物は、まるで世間話でもするかのように、しかしその言葉には重い意味を込めて、衝撃的なことをこともなげに告げた。
(黒幕を知っている!? 本当に…!?)
「あなたには、力がある。リアファル嬢から受け継いだ、その類まれなる錬金の力…感情を形にし、時に人の心すら動かすその力を使えば、固く閉ざされた真実の扉をこじ開け、黒幕を白日の下に晒し、断罪することができるでしょう。私に、協力していただけませんか? 全ては、亡きリアファル嬢の汚名を雪ぎ、その魂を安らかにするために」
その言葉は、まるで悪魔が囁く甘美な誘惑のように、私の心に響いた。リアファルさんの名誉回復。真実の露見。黒幕への断罪…。それは、まさに私が心の底から望んでいたことだ。この人ならば、本当にそれを実現してくれるのかもしれない。私のこの忌まわしいと思っていた呪われた力も、彼の導きがあれば、正しい目的のために、意味のある形で役立てられるのかもしれない。一瞬、その甘い誘惑に、私の心は大きく、強く傾きかけた。この手を取れば、全てが解決するかもしれない、と。
しかし、その甘美な期待と同時に、私の内なる警鐘がけたたましく鳴り響いていた。強い違和感。この人物の言葉はあまりにも滑らかで、完璧で、都合が良すぎる。フードの奥から覗く(ように感じる)瞳には、リアファルさんへの純粋な同情や義憤ではなく、どこまでも冷たい計算高さと、私という存在を、その力を、自身の目的のために利用しようとする明確な意図が宿っているように、どうしても思えてならなかった。なぜ、彼は見返りもなく、私に協力しようとする? 彼自身のメリットは何だ? リアファルさんの「理解者」だというのなら、なぜ今まで何も行動を起こさなかった?
(この人は…絶対に信用できない…危険だ…!)
本能が、全力で警告を発している。しかし、彼の提示した誘惑はあまりにも魅力的で、抗いがたい。もし彼の言うことが本当で、彼に協力すれば真実にたどり着けるとしたら…? 私は、希望と疑念の狭間で激しく葛藤した。
「…少し、考えさせてください」
結局、絞り出すように言えたのは、その一言だけだった。即答を避けるのが、今の私にできる精一杯の抵抗だった。
「…よろしいでしょう。時間はあまり残されていないかもしれませんがね。賢明なご判断を期待していますよ、小さく、そして興味深いお人形さん」
フードの人物は、含みのある、そして最後に私の正体を明確に示唆する不気味な言葉を残すと、まるで影が溶けるかのように、音もなくアトリエの前から姿を消した。
一人残されたアトリエで、私は先ほどまでとは比べ物にならないほどの恐怖と混乱に打ち震えていた。あの人物は誰なのか? なぜ私の正体を知っている? 本当に黒幕を知っているのか? そして、彼のあの甘い誘いに、私は乗るべきなのか、それとも拒絶すべきなのか?
(どうすればいいの…? あの人に協力すれば、リアファルさんの無念は晴らせるかもしれない。でも、きっと利用されて、もっと酷いことになるだけだ…。じゃあ、どうすれば…? 誰を信じれば…?)
頭の中に、再びカロン王子の姿が浮かんだ。彼なら、この国の王子なら、何か知っているかもしれない。あの夜会での態度からして、彼もリアファルさんのことをただの「亡霊」とは思っていないようにも見えた。彼に相談すれば、何か道が開けるかもしれない。あの黒い影の危険性を伝えれば、あるいは…。
(でも…彼だって本当に信用できるわけじゃない。何を考えているか分からないし、私のことをどう思っているのかも…。それに、こんな怪しい人物に接触されたなんて話したら、彼にどう思われるだろう…? 私まで疑われるかもしれない…)
結局、私は誰にも頼ることができず、一人でこの重く、危険な秘密と、あまりにも大きな選択肢を抱え込むしかなかった。黒き影の甘い誘惑は、私の心に深い疑念と葛藤の種を蒔きつけ、アトリエの闇をさらに深いものへと変えていった。