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第六話『招かれざる夜会と仮面の王子』

夜の街での一件以来、私の心の中には小さな変化が生まれていた。自分の力が誰かの助けになるかもしれないという微かな希望と、同時に、その力がもたらす予期せぬ結果への恐れ。そして、あの氷の王子、カロンの存在。彼は私の行動を見ていたのだろうか? もしそうなら、彼は何を考えているのだろう? 疑問は尽きず、私は再びアトリエの薄暗い静寂の中に籠もり、リアファルの遺した日記を読み返したり、呪詛錬金の力の性質を探るように、感情を込めずにただ砂糖を別の物質に変えるような、基本的な錬金術の練習を試みたりしていた。しかし、どうしても私の作るものには、微かな感情の「味」が残ってしまうようだった。


外の世界は刺激的だったが、同時に計り知れない危険も孕んでいる。この脆い砂糖の身体では、人間の悪意や暴力の前にはあまりにも無力だ。カロン王子に私の行動を見られていたかもしれないと思うと、これ以上、軽率にアトリエの外に出るべきではないとも感じていた。


しかし、燻る思いは消えない。リアファルさんのこと、彼女がなぜあのような最期を迎えなければならなかったのか、その真相。そして、もし彼女を陥れた黒幕がいるのなら、その正体を突き止めなければならない。そのためには、やはり王宮や貴族社会の情報が必要不可欠だった。どうすれば、この小さな人形の身体で、安全に情報を得ることができるだろうか…? 手詰まり感と焦りが募る。


そんな閉塞感を打ち破るように、ある日の午後、アトリエの重厚な扉をノックする音が響いた。以前のカロンの来訪とは違う、控えめで礼儀正しいノックの音だ。私は警戒しながらも、作業台の影に身を潜め、「…どなたですか?」と声をかけた。私の力では扉を完全に開けることはできないが、隙間から外の様子を窺うことはできる。


扉の向こうに立っていたのは、見知らぬ、しかし上質で仕立ての良い従僕服を身に着けた、中年の男だった。彼は私の声が聞こえたことに僅かに驚いたようだったが、すぐに表情を取り繕い、扉の隙間に向かって丁寧に一礼した。

「突然のご訪問、失礼いたします。私は、隣国よりお越しのカロン王子殿下にお仕えする者でございます。殿下より、こちらの塔にお住まいの方へ、伝言を預かって参りました」

(カロンの使い…? わざわざ人を寄越すなんて、何の用だろう…?)


私は訝しみながらも、「…お話しください」と促した。

従僕は、再び恭しく頭を下げると、淀みなく告げた。

「氷の王子殿下が、今宵、王宮にて催される夜会へ、こちらの塔にお住まいの…その、類まれなる『作品』をぜひお披露したい、と仰せでございます。芸術を深く愛される殿下は、先日拝見した貴方様の創造物に大変感銘を受けられ、是非とも我が国の貴族たちにもその素晴らしさを伝えたい、と」


(作品!? やっぱり私をモノ扱いする気!? しかも『類まれなる』ですって? 嫌味かしら…!)

私は内心で激しく憤慨した。先日、私の菓子を「やかましい」と評した舌の根も乾かぬうちに、今度は「類まれなる作品」だと? 彼の真意が全く読めない。私をからかっているのか、それとも何か別の目的があるのか。


しかし、同時に、これはまたとない機会かもしれない、という考えも頭をよぎった。王宮の夜会。そこには、この国の有力な貴族たちが大勢集まるはずだ。リアファルさんの生前を知る人物がいるかもしれない。彼女の友人だった人、あるいは敵だった人。そして、もしかしたら、彼女を陥れた黒幕その人も…? 危険は大きい。しかし、情報を得るためには、この招待に乗るしかないかもしれない。カロンの傍にいれば、彼の庇護(という名目)の下、ある程度の安全は確保されるかもしれないし…。


逡巡の末、私は決断した。

「…分かりました。王子殿下のご厚意、光栄に存じます。謹んでお受けいたします、とお伝えください」

私は、心の内の不本意さと屈辱感を声に乗せないよう注意しながら、承諾の返事をした。従僕は満足そうに頷き、「では、夜になりましたら、改めてお迎えに上がります」と言い残し、去っていった。


夜になり、再びカロンの使いが現れた。今度は、夜会用の豪奢な衣装を身に着けている。彼が恭しく差し出したのは、内側に深い青色のビロードが敷き詰められた、銀細工の美しい装飾が施された小さな箱だった。それは、まるで高価な宝石や美術品を収めるためのもののようだった。

「王子殿下はこちらの箱にお入りいただき、夜会へお連れするように、と仰せです」

(やっぱり箱の中か…! まるでペットか飾り物扱いだわ…! 屈辱だわ…!)

込み上げる文句をぐっと喉の奥に押し込み、私は無言で、言われるがままに小さな砂糖の身体を箱の中に滑り込ませた。ふかふかのビロードの感触が、妙に居心地が悪い。やがて、パタン、と音を立てて箱の蓋が閉められ、私の視界は完全な闇に閉ざされた。箱が慎重に持ち上げられ、おそらくは馬車に乗せられたのだろう、微かな振動と車輪が石畳を転がる音が、箱の外から伝わってきた。


どれくらいの時間が経っただろうか。馬車の振動が止まり、箱が再び慎重に運ばれる気配がした。周囲からは、ざわめきと喧騒が聞こえてくる。抑えられた音楽の旋律、多くの人々の話し声、軽やかな笑い声…。夜会会場に到着したのだ。やがて、箱の蓋が僅かに、外の様子を窺える程度に開けられた。眩い光と、むせ返るような香水の匂い、そして様々な感情の渦が、一気に箱の中に流れ込んできた。


箱の隙間から見える光景に、私は思わず息を呑んだ。

そこは、まさに夢物語に出てくるような、壮麗な大広間だった。磨き上げられ、鏡のように輝く大理石の床。高い天井からは、数えきれないほどの蝋燭が灯された、巨大で煌びやかなシャンデリアがいくつも吊り下げられ、眩い光を放っている。壁には、英雄譚や神話を描いたと思われる壮麗な絵画が飾られ、金の額縁が鈍い光を反射している。

そして、その空間を埋め尽くしているのは、目も眩むような豪華なドレスや、寸分の隙もなく仕立てられた燕尾服を身に纏った貴族たちだった。女性たちは、髪を結い上げ、高価な宝石を散りばめたティアラやネックレスで飾り立て、扇子を優雅に使いながら談笑している。男性たちは、胸を張り、あるいは壁際に寄りかかりながら、政治や社交界の噂話に興じている。まるで、現実の世界とは切り離された、きらびやかで華やかな別世界だ。


しかし、その華やかな外面とは裏腹に、私の敏感な感覚は、この場所に渦巻く別のものを捉えていた。見栄と虚飾。嫉妬と羨望。退屈と倦怠。計算と打算。そして、時折垣間見える、剥き出しの悪意…。美しい仮面の下で、人間のどろどろとした感情が複雑に絡み合い、渦巻いている。その強烈な感情の奔流に当てられ、私は箱の中で気分が悪くなり、頭痛を感じ始めていた。

(眩しい…! きらびやかだけど…なんだか息が詰まる…。色んな感情がぐちゃぐちゃに混ざってて…やっぱり、気持ち悪い…)


箱は、カロンの手の中に収まっているらしかった。彼は時折、近づいてくる貴族たちと、当たり障りのない、しかしどこか冷ややかな会話を交わしている。その声はいつも通り低く、感情の起伏が全く感じられない。彼の周囲だけ、空気が凍てついているかのようだ。「氷の王子」と呼ばれる所以なのだろう。彼は、この仮面舞踏会のような世界で、完璧な仮面を被って生きているのだ。


その時だった。聞き覚えのある、甲高く、そして不快な響きを持つ声が、すぐ近くから聞こえてきた。

「これはこれはカロン殿下、今宵もお美しいですな。おや、その箱は? 何か珍しいものでも?」

顔を上げると(箱の隙間からだが)、案の定、夜会でリアファルの噂話をしていた、あの軽薄そうな侯爵子息が、にやにやとした笑みを浮かべて立っていた。隣には、やはり意地の悪そうな冷たい笑みを浮かべた、派手なドレスの令嬢もいる。彼らはカロンに取り入ろうとしているのか、あるいは単に好奇心からか、カロンが手に持つ小箱に興味を示しているようだった。


カロンは無表情のまま答える。「隣国で見つけた、少々変わった工芸品だ」

「ほう、工芸品ですか。まるで砂糖菓子のようにも見えますが…」侯爵子息は箱を覗き込もうとする。「そういえば、思い出しましたぞ。あのリアファル嬢も、このような妙な砂糖菓子ばかり作っていましたな。変わり者でしたからな、ハハハ」

隣の令嬢も、扇子で口元を隠しながら、甲高い声で同調する。「ええ、本当に気味が悪かったですわ、あの呪われた女は。身の程もわきまえずに王子に懸想し、他の令嬢を虐げるとは。自業自得ですわね、あのような最期は」


(…! またこの人たち…! 変わらない…! なんて酷いことを平気で…!)

彼らの言葉に含まれる、棘のような明確な悪意と、根拠のない嘲笑が、再び箱の中にいる私に直接突き刺さる。リアファルの日記で触れた彼女の苦悩と、世間の悪意とのギャップが、あまりにも大きい。リアファルの激しい怒りと深い悲しみが、まるで自分のことのように、再び私の中でフラッシュバックし、箱の中で怒りに打ち震える。今すぐこの箱から飛び出して、彼らに真実を(私にはまだ分からないけれど)叩きつけてやりたい衝動に駆られる。


その瞬間、これまでになく冷たく、そして鋭いカロンの声が、夜会の喧騒を切り裂くように響いた。

「過去の亡霊の話は好まぬ。失礼」

その声は、いつもの感情の欠落した冷たさに加えて、明確な拒絶と、そして微かではあるが、確かな怒りのような響きさえ含んでいた。その声に含まれた威圧感に、侯爵子息と令嬢は文字通り凍りつき、顔面蒼白になった。「ひっ…! も、申し訳ありません、殿下!」二人は取るものも取りあえず、慌ててその場を去っていった。


カロンは、まるで何事もなかったかのように、周囲の好奇の視線をものともせず、箱を持ったまま会場の喧騒から離れ、月明かりが銀色に差し込む静かなテラスへと向かった。そして、ゆっくりと箱の蓋を開け、中の私を見下ろした。

「…気分が悪かったか」

低い声で尋ねてくるカロン。彼の灰色の瞳は、今はテラスの柔らかな月光を映して、少しだけ穏やかに見える…気がした。私は、まだ怒りと屈辱で震える身体を抑えながら、憎まれ口を叩きたかったが、なぜか言葉がうまく出てこない。

「…別に。あなたには関係ありません」

そう答えるのが精一杯だった。素直に「助けてくれてありがとう」と言えない自分がもどかしい。しかし、心の中では、先ほどとは違う種類の動揺が広がっていた。

(今の…明らかに私(達)を庇ってくれた…。私が怒っているのを、感じ取ったの…? それとも、リアファルさんのことを、彼も…? どうして…? あの氷の仮面の下には、一体何があるんだろう…?)

彼の行動の真意は分からない。ただの気まぐれかもしれない。あるいは、彼にとってリアファルは「過去の亡霊」ではなく、まだ何か意味を持つ存在なのかもしれない。それでも、あの悪意に満ちた言葉から守ってくれたことは事実だ。氷の王子に対する私の見方が、そして彼との関係性が、少しだけ、しかし確実に変わり始めているのを、私は感じずにはいられなかった。この夜会への潜入は、危険ではあったが、新たな謎と、そして微かな変化の兆しをもたらしたのだった。

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