第五話『呪われた菓子、街角に咲く』
カロンの残した「真実に近い」という言葉は、暗闇の中に差し込んだ一筋の光のように、私の心を照らし続けていた。それは、凍てついていた私の存在意義への問いに、予想外の角度から投げかけられた、一つの可能性だった。私のこの力は、ただ世界を呪い、他者を傷つけるためだけの、忌まわしいものではないのかもしれない。使い方によっては、あるいは…。そして、リアファルさんの無念も、この力でなら…? そんな淡く、しかし無視できない希望が、絶望と恐怖に凝り固まっていた私の心を、ほんの少しずつだが、確実に溶かし始めていた。
(試してみよう。このアトリエの外で。この力で、何ができるのか。何が変わるのか。そして、リアファルさんのことをもっと知るために…外の世界の情報が必要だ)
決意は固まった。しかし、アトリエの重厚な扉を前にすると、途端に足が竦む。外の世界は未知だ。光も、音も、人々の感情も、何もかもがこの静かなアトリエとは違う。そして何より、この脆い砂糖の身体。人間の子供ほどの大きさもないこの姿で、無事に外を歩けるのだろうか。もし誰かに見られたら? 人形が動いていると知られたら? きっと大騒ぎになる。捕まえられて、調べられて、あるいは恐れられて、壊されてしまうかもしれない。様々な不安が、次から次へと湧き上がってくる。
(でも…それでも、行かなきゃ)
このままアトリエに閉じこもっていては、何も変わらない。リアファルの真相も、私の存在の意味も、カロンの真意も、何も分からないままだ。私は、アトリエの隅で見つけた、埃っぽいけれど丈夫そうな古い布きれを手に取った。これをマントのように深く被れば、顔や姿をある程度は隠せるだろう。ぎこちない砂糖の指で布を体に巻き付け、フードを目深に被る。近くにあった割れた鏡の破片に、自分の姿を映してみる。そこにいたのは、薄汚れた布を纏った、小さな、怪しげな影だった。お世辞にも人間に見えるとは言えないが、これなら夜の闇に紛れれば、何とかやり過ごせるかもしれない。
(よし、これで…きっと大丈夫…なはず)
自分に言い聞かせ、私は最後の深呼吸(のつもりで、胸のあたりに意識を集中させる)をした。そして、意を決して、重いアトリエの扉に全体重をかけるようにして、ゆっくりと押し開けた。ギィィ…という、長い間使われていなかった蝶番が悲鳴を上げるような鈍い音と共に、外の空気が一気に流れ込んできた。それは、アトリエの中の澱んだ空気とは全く違う、様々な匂いが混じり合った、生々しい夜の街の匂いだった。食べ物の匂い、家畜の匂い、人々の汗の匂い、そして微かな水の匂い…。活気と、どこか猥雑なエネルギーに満ちた空気。私は一瞬ためらったが、覚悟を決めて、その喧騒と闇の中へと、小さな一歩を踏み出した。
夜の街は、私の想像を遥かに超えて騒がしかった。石畳を不規則に叩く無数の人々の足音、酒場の開け放たれた扉から漏れ聞こえる陽気な音楽と酔客の笑い声、客引きの甲高い呼び込みの声、建物の間を縫うように駆け抜ける馬車の車輪が石畳を削る音…。あらゆる音が渾然一体となって、私の耳(あるのかどうかも定かではないが、音は確かに聞こえる)に襲いかかってくる。
そして、何よりも私を圧倒したのは、視覚や聴覚以上に強く感じられる、行き交う人々の剥き出しの感情の奔流だった。喜び、興奮、怒り、悲しみ、嫉妬、羨望、欲望、疲労、焦り、安堵…。まるで色とりどりの濁流のように、様々な種類の、強い感情が、私の周囲を渦巻き、私という異質な存在にぶつかってくる。敏感すぎるこの感覚は、外の世界では明らかに厄介なものらしかった。感情の波に当てられて、頭がくらくらし、立っているのすら辛くなってくる。
(うわ…すごい人…!それに、色んな感情が…うるさい…!情報量が多すぎて…頭が痛くなりそう…!)
私は人々の流れに逆らわないように注意しながら、壁際や建物の影、積み上げられた荷物の陰などを選んで、慎重に進んだ。慣れない砂糖の身体での移動はやはり難しく、石畳の僅かな凹凸にも躓きそうになり、何度も転びそうになるのを必死でこらえた。時折、路地裏の暗がりに身を潜め、少しだけ息を整えながら、行き交う人々を観察した。
楽しそうに腕を組んで歩く若い恋人たち。その表面的な幸福感の下には、相手を縛り付けたいという強い独占欲や、他の異性への嫉妬の感情が見え隠れしている。一日の仕事を終え、疲れ切った顔で家路を急ぐ恰幅の良い商人。彼の思考は、今夜の食事のことと、溜まった帳簿へのうんざりした気持ちで満たされている。見るからに裕福そうな貴婦人が、物乞いの差し出す手に施しを与えている。しかし、その優しそうな笑顔の奥には、「良いことをしている自分」への陶酔と、周囲への見栄、そして物乞いへの隠された侮蔑の感情が透けて見える。
(人間って、本当に複雑だなぁ…お菓子みたいに、材料を混ぜれば味が決まるってわけじゃないんだ…。甘さの裏に苦さがあったり、見た目は綺麗でも中身は空っぽだったり…)
そんな風に人間観察をしながら(それは、かつてパティシエとして様々な客と接した経験から来るものか、あるいはリアファルの皮肉っぽい人間観が私に影響しているのかもしれない)、私はリアファルに関する情報がないか、それとなく周囲の会話に耳をそばだてていた。貴族の噂話や、古い事件の話などが聞こえてこないかと。しかし、そう簡単には手がかりは見つからない。
諦めてアトリエに戻ろうかと思い始めた、その時だった。少し開けた広場へと続く、ひときわ薄暗く汚れた路地の奥から、男の甲高い怒鳴り声と、子供のか細い泣き声が、私の耳に届いた。
(なんだろう…? 喧嘩…? それとも…)
ただならぬ気配を感じ、好奇心と、妙な胸騒ぎに引かれて、私は壁に張り付くようにして、そっと路地の奥へと進んだ。そこで目にしたのは、胸が悪くなるような光景だった。
見るからに悪徳商人といった風体の、脂ぎった顔をした太った中年男が、まだ十歳にも満たないであろう、みすぼらしい身なりをした幼い少女を壁際に追い詰め、唾を飛ばしながら脅しつけている。少女は痩せていて、怯えた大きな瞳には涙が溢れている。
「さあ、とっとと金を出せ!お前の死んだ親が残した借金だ!今日中に返済できねぇなら、お前をどこぞへ売り飛ばして、少しでも足しにしてやるからな!」
男は少女の細い腕を掴み、乱暴に揺さぶっている。少女はただただ怯えて、「うぅ…そんなお金、ありません…お父さんもお母さんも、そんな借金、したことないって言ってました…」と涙声で訴えるばかりだった。
(なんて酷い言い草! 顔つきも、言ってることも、明らかに嘘をついている! 弱い子供相手に、なんて卑劣な!)
その光景を見た瞬間、私の内側で、まるで導火線に火がついたかのように、リアファルのものと思われる激しい義憤が燃え上がった。プライドが高く、曲がったことが大嫌いだった(であろう)彼女なら、きっとこんな卑劣な弱い者いじめを決して許しはしなかっただろう。そして、それは、今の「メルティア」としての私も全く同じだった。理不尽な暴力と搾取に対する、強い怒りが込み上げてくる。
(見過ごせない…! 絶対に! でも、私に何ができる…? この小さな身体で…? いや、私には…この力がある…!)
呪詛錬金の危険性は十分に理解している。あのネズミの時のように、予期せぬ恐ろしい結果を招くかもしれない。しかし、目の前で泣いている少女の姿を見て、恐怖に竦んで何もしないでいることは、私にはできなかった。私は咄嗟に決断した。この力を使う。ただし、相手を直接傷つけるような呪いではなく、少女が自分自身で真実を見抜けるように、手助けをする力を。
私は懐に忍ばせていた非常用の砂糖の欠片を素早く取り出した。そこに、「真実を見抜け」「嘘に惑わされるな」「勇気を持て」という強い意図を込めて、力を集中させる。指先から淡い光のようなエネルギーが流れ出し、砂糖は瞬く間に、少し酸っぱい柑橘系の香りのする、半透明の雫型のグミへと姿を変えた。
私は男の注意が逸れた一瞬を突き、音もなく少女のそばに駆け寄ると、彼女の震える小さな手に、そっとグミを握らせた。
「あ、あの…これを…早く食べてみて。そして、あの人の言うことを、もし契約書があるならそれも、嘘がないか、よおく見て、感じてみて」
突然現れた私(フードを被った小さな影)に、少女は驚いた顔で私を見つめたが、その瞳には絶望だけでなく、藁にもすがるような思いが浮かんでいた。彼女はこくりと小さく頷くと、迷わずグミを口の中に放り込んだ。
グミを食べた瞬間、少女の怯えきった目に、戸惑いから驚きへ、そして次第に確信へと変わっていく強い光が宿った。彼女は溢れていた涙を乱暴に袖で拭うと、自分を脅していた悪徳商人を、臆することなくまっすぐに睨みつけた。
「嘘つき!あなたが持ってるその契約書、日付も名前も、お父さんの字じゃない!それに、あなたが言ってること、全部嘘ばっかり!お父さんもお母さんも、あなたみたいな人からお金なんて絶対に借りてません!」
これまでのか細い声とは打って変わった、凛とした強い口調での反論。突然の予想外の反撃に、悪徳商人は一瞬、虚を突かれたような間抜けな顔をしたが、すぐに顔を真っ赤にして逆上した。
「な、なんだと!この生意気なクソガキが!親の借金を踏み倒す気か!何を言い出すかと思えば!」
男が怒りに任せて少女に掴みかかろうとした、その瞬間だった。これまで遠巻きに見ていただけの周囲の人々の中から、「おい、見ろよ!子供相手に本気で手を出そうとしてるぞ!」「またあの悪徳金貸しか!懲りないやつだな!」「誰か衛兵を呼んでこい!」という声が上がり始めた。あっという間に人だかりができ、商人の悪行に対する非難の声が飛び交う。騒ぎはどんどん大きくなっていく。
(わわ…!思ってたより、ずっと大変なことになっちゃった!)
まさかこんな大きな騒ぎになるとは、全く予想していなかった。私の力が、意図せずとも虐げられていた少女を助けるきっかけになったのは、素直に嬉しい。胸の中に、温かいような、誇らしいような気持ちが微かに灯る。しかし、同時に、この騒ぎの中で、私の正体――人ならざる砂糖人形であること――がバレるわけにはいかない。私は混乱に乗じて、人々の足元を素早くすり抜けるようにして、その場から全力で逃走した。
息を切らせて(いるような感覚で)、アトリエへの帰り道を急ぐ。路地をいくつか曲がり、少しだけ人通りの少ない場所に出た時、ふと強い視線を感じて、反射的に空を見上げた。少し離れた建物の、月光を浴びて銀色に光る屋根の上に、黒いマントを翻して佇む人影が見えた気がした。そのシルエットは、見間違えようもなく、氷の王子、カロンのものだった。冷たい灰色の瞳が、こちらを、いや、私が今しがた逃げ出してきた路地の方向を、じっと見下ろしている…?
まさか、気のせいだろうか。それとも、彼は偶然そこに居合わせただけ? いや、偶然にしてはタイミングが良すぎる。彼は私の行動を、やはりまた見ていたのだろうか? そして、もし見ていたとしたら、彼は何を思ったのだろうか? 私のしたことを、彼はどう評価するのだろうか? 彼の真意は全く分からないまま、私は再びアトリエの暗がりへと逃げ込むしかなかった。
外の世界は、想像以上に刺激的で、私の力も役立つ可能性を確かに示してくれた。しかし、同時に、それは予期せぬ結果を招き、大きな危険も孕んでいることを、私はこの夜、改めて思い知らされたのだった。そして、あの氷の王子の影が、私の運命にますます深く関わってきていることも…。