第四話『秘密の茶会と歪な共鳴』
リアファルの日記を読んだ衝撃は、予想以上に私の脆い精神を揺さぶっていた。彼女の激しい感情の奔流に呑まれかけた恐怖は、まだ生々しく私の中に残っている。日記は、リアファルの真実を知るための鍵であると同時に、パンドラの箱のような危険な代物だ。迂闊に触れれば、私自身がリアファルの怨念に食い尽くされかねない。
それでも、疑問は消えないどころか、ますます深まっていた。日記に描かれた繊細で才能豊かなリアファルと、世間の噂(ネズミの話)が伝える嫉妬深く悪辣なリアファル。どちらが本当の彼女に近いのか? あるいは、人間とはそれほどまでに多面的で、矛盾した存在なのだろうか? そして、彼女をそこまで追い詰めた「裏切り者」とは誰なのか? 真相を知りたいという欲求は、危険を承知の上でも抑えきれなかった。
そんな内省と葛藤の中にいた時だった。
(…来た)
再び、あの気配がアトリエの扉の外に現れたのを、私は敏感に感じ取った。氷のように冷たく、研ぎ澄まされ、それでいて奇妙な引力を持つ、あの王子の気配。間違いない、カロンだ。予感は的中した。彼は、やはりまた、この呪われた塔を訪れたのだ。
(やっぱり…。今度は、一体何をしに来たんだろう…?)
砂糖の心臓(と私が認識している部分)が、期待と恐怖がないまぜになった複雑な感情で、どきり、と大きく跳ねた。前回は、リアファルの古いマカロンを食べて去っていった。今回は? 私の存在には気づいているはずだ。あの言葉からして、私の力が菓子に影響することも。彼は、私に何を知り、何を求めているのだろう?
前回のようにただ隠れているだけでは、何も進展しない。むしろ、彼の意図を探る上で不利になるだけかもしれない。私は意を決した。警戒は怠らない。けれど、今度はもう少しだけ、彼という存在に踏み込んでみよう、と。彼が何者で、何を考えているのか、少しでも探る必要がある。そして、できることなら、彼から何か情報を引き出せないだろうか。彼は隣国の王子だ。家柄も高く、おそらくは様々な情報にアクセスできる立場にあるはず。リアファルの事件についても、何か知っている可能性はゼロではない。
私は、作業台の影からそっと顔を覗かせ、アトリエの扉の方を見つめた。やはり、彼は従者を伴わず、一人で現れた。まるで吸血鬼のように音もなく重厚な扉を開け、静かにアトリエの中へと足を踏み入れる。埃っぽい薄闇の中、彼の白い肌と黒髪のコントラスト、そして何より感情を映さない氷の灰色の瞳が、非現実的なほどに際立って見えた。彼の灰色の瞳が、ゆっくりと、しかし鋭く室内を見回す。その視線は、まるで獲物を探す猛禽のようだ。
彼の視線が、私が隠れている作業台のあたりに向けられた気がして、反射的に身を引っ込めそうになるのを堪える。大丈夫、私は小さい。この影に隠れていれば、すぐには見つからないはずだ。私は深呼吸を一つして、できるだけ落ち着いた、しかし明確な警戒心を滲ませた声色で、物陰から声をかけた。
「…何の用ですか。ここはもう、何もありません。ただの廃墟です。荒らさないでいただけると助かります」
私の声に、カロンは僅かに眉を動かしたように見えた。驚いたというよりは、予期していた声が聞こえてきた、というような微かな反応。しかし、彼の表情は相変わらず凍りついたままだ。彼はアトリエの中央で立ち止まり、声のした方角――私が隠れている作業台の影――に正確に視線を向けた。その視線は、物理的な遮蔽物など意にも介さず、私の存在そのものを射抜いているかのようだ。
「そうか? だが、あの菓子の作り手には用がある」
静かで低い、しかしよく通る声が、アトリエの静寂に響いた。彼の言葉は、やはり私がこのアトリエにいること、そしておそらくは私が「菓子の作り手」であることにも気づいていることを、明確に示していた。背筋に冷たいものが走り、砂糖の身体が微かに震えるのを止められない。
「隠れているつもりか。お前の感情が混じっているな、その菓子には。やかましいほどに」
彼は続けた。その声には何の抑揚もない。だが、その言葉の内容は、私の核心を容赦なく突いていた。やはり、彼は私の菓子に込められた「感情」を、その種類だけでなく、その強さまでも正確に感じ取っているのだ。そして、それを「やかましい」と表現する。それは、おそらく彼の持つ特殊な体質――他者の感情や魔力を過剰なノイズとして感じてしまう――ゆえの、彼にとっての客観的な評価なのだろう。見抜かれている。私の存在も、私の力の特異な性質も。その事実に、私は動揺を隠せなかった。
(やっぱり気づいてる…! 私の感情が、お菓子に影響することも、全部…! なんて人なの…! まるで、心の中を覗かれているみたいだ…!)
動揺を悟られまいと必死だった。そして、動揺を隠すため、そして何よりも彼という存在をもっと知るために、私は半ば挑発的に、そして彼を試すように、言葉を返した。
「やかましい、ですか…? それはそれは。私の心の中は、いつも騒がしいのかもしれませんね。では、そんなやかましい菓子でよければ、これも食べてみますか?」
言いながら、私は懐に入れておいた予備の砂糖の欠片を取り出した。そこに、新たな感情を込めていく。それは「切望」――何かを強く、焦がれるように、手が届かないものを求める、満たされることのない渇望の感情。リアファルの日記の最後に感じた、あの痛切な願いにも似た感情だ。指先から呪詛錬金の力が流れ出し、砂糖は瞬く間に、まるで涙の雫が結晶したかのような、繊細な飴細工へと姿を変える。それを、作業台の影から、カロンの足元へと、そっと滑り出させた。彼の反応を見たかったのだ。彼は、この剥き出しの、痛々しいほどの渇望の味を、今度はどう受け止めるのだろうか。拒絶するのか、それとも…。
カロンは足元に現れた、淡い虹色に輝く飴細工を、驚いた様子もなく静かに見下ろした。そして、こともなげに屈むと、白い手袋に包まれた指で、それを優雅に拾い上げた。繊細なガラス細工のような飴は、彼の指の上で、まるで生きているかのように危うげに光を反射している。彼はそれをしばし興味深げに眺めた後、やはり何の躊躇もなく、自身の薄い唇へと運んだ。
ゆっくりと、飴が口の中で溶けていく。最初に広がるのは、上質な砂糖の純粋な甘さ。しかし、すぐにその奥から、じわりと染み出してくる、胸が締め付けられるような焦燥感、手が届かないものへの焦がれるような渇望の味が、舌を、そしておそらくは彼の精神をも刺激するはずだ。普通の人間なら、その強烈な感情の奔流に当てられて、落ち着きを失ったり、理由のない涙が込み上げてきたりするかもしれない。
しかし、カロンはやはり、表情一つ変えない。ただ静かに、目を伏せがちに飴を味わっている。その姿は、まるで高名な鑑定家が稀代の芸術品を吟味しているかのようだ。彼の内面で何が起こっているのか、私には全く窺い知ることができない。やがて、飴が完全に溶け去ったのか、彼はゆっくりと目を開き、口を開いた。
「…なるほど。満たされない渇き、か。悪くない表現だ」
(…っ!)
私は再び息を呑んだ。やはり彼は、私が込めた感情を、そのニュアンスまで含めて、恐ろしいほど正確に読み取っている。しかも、それを「悪くない表現だ」と評した。まるで、それが一つの完成された芸術作品であるかのように。彼の味覚と感受性は、明らかに人間のそれを超えている。異常だ。恐ろしい。だが、同時に…。
「やかましいが、悪くない。他の、ただ甘ったるいだけの、心のない紛い物よりよほど真実に近い」
カロンは静かに続けた。彼の言葉は、相変わらず淡々としていて、感情がこもっているようには聞こえない。しかし、その内容は、私の存在理由そのものを揺さぶるほどの力を持っていた。「心のない紛い物より、真実に近い」。それは、私がこれまでに誰からも、一度も言われたことのない評価だった。私の作るもの――それは、私の歪んだ感情や、リアファルの怨念が形になったものかもしれないが――に、「真実」があると彼は言うのだ。それは、孤独なアトリエで、自分の存在意義すら見失いかけていた私にとって、初めて差し込まれた一条の光のように感じられた。歪んでいるかもしれない。けれど、それは確かに、私の存在と能力に対する、初めての肯定だった。その言葉が、乾ききった私の心に、まるで砂漠の雨のように染み渡っていく。同時に、それは危険な甘美さを持つ毒薬のようでもあった。この人に認められたい、もっと私の作るものを味わってほしい、もっと私の「真実」を見てほしい、という、抗いがたい強い欲求が、胸の奥底から静かに、しかし力強く湧き上がってくるのを感じていた。
(…真実に…近い…? 私のこの力は、ただの呪いじゃないのかもしれない…? この人は…本当に、私のことを分かってくれるの…? この歪で、不完全な私を…)
カロンは、私の内面の激しい動揺には気づいているのかいないのか、あるいは気づいていても意に介さないのか、静かに告げた。
「また来る」
その短い言葉だけを残し、彼は再び、音もなくアトリエを立ち去っていった。嵐が過ぎ去ったかのような深い静寂が、再びアトリエを満たす。
私は、カロンが去った後も、しばらくの間、その場から動くことができなかった。彼との間に生まれた、奇妙で、濃密な共鳴。他者には決して理解されないであろう、互いの孤独や欠落が、言葉少なな、しかし核心を突くやり取りの中で、確かに響き合ったような、不思議な感覚。それは、私が生まれて(あるいは、この身体になって)初めて経験する、歪で、しかし抗いがたく強烈な繋がりだった。
彼とこれ以上関わるのは危険だ。私の本能が、警鐘を鳴らしている。彼はあまりにも謎が多く、その力も、目的も、底が知れない。彼の肯定は、甘い罠かもしれない。しかし、同時に、彼だけが私のこの異質な存在を、その歪さも含めて理解し、肯定してくれる唯一の存在なのかもしれないという、抗いがたい強い期待も、もはや捨て去ることができなくなっていた。
この奇妙な出会いは、私をどこへ導いていくのだろうか。甘い毒のように私をゆっくりと蝕んでいくのか、それとも、この暗く閉ざされた牢獄のようなアトリエから私を連れ出し、新たな世界を見せてくれる、唯一の光となるのか。答えはまだ、暗闇の中だ。ただ、私の運命の歯車が、彼の来訪によって、再び大きく、そして不可逆的に回り始めたことだけは、確かな予感として私の砂糖の胸に深く刻まれたのだった。