第三話『リアファルの残滓(ざんし)』
氷の王子、カロンがアトリエを去ってから、どれほどの時が流れたのだろうか。感覚の鈍いこの砂糖の身体では、時間の経過すら曖昧にしか捉えられない。ただ、彼の残していった冷たく研ぎ澄まされた気配と、「興味深い味だ」という、感情の欠落した不可解な言葉だけが、アトリエの澱んだ空気の中に、まるで凍りついた残響のように未だに漂っている気がした。あの王子は一体何者だったのか? 常人には害をなすはずの「念」のこもった菓子を、なぜ平然と口にできたのか? そして、なぜそれを「興味深い」などと評したのか? 疑問は次々と湧き上がり、答えの見えない迷宮へと私を引きずり込んでいく。
(あの王子…きっとまた来る。そんな気がする…)
それは論理的な推測ではなく、根拠のない直感だった。だが、妙に強い確信があった。彼のあの氷のように冷たい灰色の瞳は、一度興味を引かれた対象を、その本質を見極めるまで決して手放さない、そんな種類の執着の色を宿していたように思えてならなかった。もし彼が再びこのアトリエに現れた時、私はどうすればいいのだろう。このまま何も知らず、ただ怯えているだけではいけない。彼が何者であれ、そして私に何を求めているのであれ、少しでも対等に(あるいは、少なくとも一方的に弄ばれるのではなく)対峙するためには、まず私自身が何者なのかを理解する必要があった。そして、この異形の身体と呪われた能力の源泉であるらしい「リアファル」という人物が、本当はどんな人間だったのかを、知らなければならなかった。
(私が誰で、リアファルさんが誰だったのか、知らなければ…! このままじゃ、私は私でいられなくなるかもしれない…)
恐怖心を理性で抑えつけ、私は決意を固めた。このアトリエは、リアファルの怨念が渦巻く牢獄であると同時に、彼女の生きた証が残された唯一の場所でもあるはずだ。ここに残されたものの中から、過去の手がかりを、真実の欠片を探し出すのだ。それは、今の私にできる数少ない能動的な行動であり、未来への、あるいは自己存在の肯定へと繋がるかもしれない、細く、しかし確かな糸を手繰り寄せるための、最初の、そして最も重要なステップだった。
私は、軋む砂糖の身体を奮い立たせ、アトリエ内の本格的な探索を開始した。まずは、壁際にずらりと並んだ大きな木製の作業台からだ。引き出しは、長年開けられていなかったのか、湿気で膨張しているのか、私の非力な砂糖の手ではびくともしないものも多い。
(うぅ…重い…! 全然開かない…! でも、諦めない…!)
全体重をかけるようにして力を込め、ようやく一つ、ギギギ…という鈍い、嫌な音と共に、埃まみれの引き出しを少しだけ開けることができた。中には、様々な形をした金属製のクッキーの抜き型が、錆びつきながらも大量に詰め込まれていた。星形、ハート形、動物の形…子供が好きそうな可愛らしいものから、幾何学的な複雑な模様のものまで、その種類の多さに驚かされる。その隣には、繊細な細工を施すための小さなヘラや、チョコレートをテンパリングするための温度計、色とりどりのドライフルーツやナッツが入っていたと思われるガラス瓶が並んでいるが、そのほとんどは空か、中身が変質してしまっている。どれも、かつてはパティシエの夢と情熱を支えたであろう一級品に見えるが、今はただ静かに埃をかぶり、過ぎ去った時間の重みを物語っているだけだった。
他の引き出しや棚も、一つ一つ丹念に確認していく。革表紙の分厚いレシピノートを見つけた。開いてみると、美しいインク文字で、基本的な生地の作り方から、高度で独創的なアントルメ(ホールケーキ)のレシピまで、ぎっしりと書き込まれている。その記述は驚くほど詳細で、材料の配合比だけでなく、混ぜ方、温度管理、焼き加減、そして美しく仕上げるためのデコレーションのアイデアまで、熱心な研究の跡がうかがえる。輸入されたものであろう、異国の言葉が書かれた珍しいスパイスの小瓶もいくつか見つかったが、その多くは中身が空か、あるいは香りを失い、ただのガラス屑と化していた。壁に立てかけられた使い込まれた麺棒、棚の奥から出てきた美しい模様が精巧に刻まれたチョコレートの型…。それら一つ一つが、持ち主であったリアファルの非凡な才能と、お菓子作りに対する真摯で深い愛情を、雄弁に物語っているかのようだった。
そして、アトリエの奥まった一角、他の場所よりも少しだけ整然としており、書斎スペースとして使われていたらしい場所で、私はついに決定的なものを発見した。埃をかぶってはいるが、明らかに上質と分かる、深紅のなめし革で装丁された、一冊の分厚い日記帳。それは他のどの本よりも丁寧に扱われていたかのように、棚の奥にひっそりと置かれていた。表紙には、金文字で『R. F.』という優美なイニシャルが、控えめに、しかし誇らしげに刻まれている。リアファル・ファーランド、だろうか。私の記憶の断片、あるいはこの身体に残るリアファルの残滓が、その名前を告げていた。
(これは…日記? きっとリアファルさんの…! ここに、彼女の本当のことが書かれているかもしれない!)
期待と緊張で、砂糖の心臓がどきどきと高鳴るのを感じる。震える手で日記帳を手に取り、そっと表紙を開く。古びた紙の匂いと、微かなインクの香りが鼻腔をくすぐった。そして、目に飛び込んできたのは、驚くほど美しく、流麗な筆跡で綴られた文字だった。
最初の日付のページには、文字だけでなく、信じられないほど繊細で美しい菓子のスケッチが、色鉛筆で丁寧に彩色されて描かれていた。それはまるで、夜空に輝く星々を砂糖と飴で再現したかのような、あるいは複雑なレース模様をチョコレートで編み上げたかのような、見たこともない独創的なデザインのケーキだった。
(すごい…こんなデザイン、見たことない…! なんて独創的で、美しいんだろう…! これが、リアファルさんの頭の中にあった世界…?)
パティシエとしての私の血が騒ぐのを感じる。コンテストで賞を狙っていた頃の、新しいアイデアを求めて貪欲に知識を吸収していた頃の興奮が蘇ってくるようだ。このスケッチを見るだけで、リアファルが決して巷で噂されるような単なる我儘な令嬢ではなく、非凡な才能と情熱を持った芸術家であったことが痛いほど伝わってくる。
ページをめくるたびに、その驚きと感嘆は増していく。日記には、貴族の令嬢としての窮屈な日常の合間を縫って、いかに彼女がお菓子作りに没頭し、真剣に向き合っていたかが、生き生きとした言葉で綴られていた。新しい材料の組み合わせへの挑戦、伝統的な製法の改良、失敗と成功の記録、そして何よりも、自分が作り出したお菓子が誰かを喜ばせた時の、純粋な喜びの言葉…。
『今日、試作した薔薇のマカロンを侍女にあげたら、とても喜んでくれた。「まるで本物の薔薇の香りがするようです」と言ってくれたのが嬉しかった』
『新しいチョコレートのテンパリング方法を試してみた。温度管理が難しいけれど、成功すればもっと艶やかで口溶けの良いものができるはずだ。父様にも、いつか認めてもらえるようなお菓子を…』
しかし、日記を読み進めるうちに、その明るく情熱的な記述の裏に隠された、深い影のようなものも見え始めてきた。貴族社会という閉鎖的な環境の中での息苦しさ。女性が専門的な技術を追求することへの無理解や偏見。「令嬢らしくない」という周囲からの陰口。そして、彼女の突出した才能に対する、同年代の令嬢たちからの嫉妬や妨害…。
『また、お茶会で私の作ったお菓子が「奇抜すぎる」「令嬢の慰み事にしては度が過ぎる」と陰口を叩かれた。なぜ、ただ美味しいもの、美しいものを作りたいだけなのに、理解してもらえないのだろう…』
『あの方に、私の気持ちを込めたお菓子を渡したかったけれど、また別の令嬢に邪魔されてしまった。私のこの気持ちは、お菓子にしか託せないというのに…』
日記に綴られた言葉は、次第に孤独の色を深めていく。華やかな世界の裏側で、彼女がどれほど深く苦悩し、傷つき、そして誰にも理解されない才能を持て余していたかが、行間から痛いほど伝わってくる。その孤独と苦悩は、かつてパティシエとして評価されずに悩んだ私の記憶とも重なり、私の砂糖の胸を強く締め付けた。他人事とは思えなかったのだ。リアファルさん、あなたも苦しんでいたんだね、と、私は心の中で彼女に語りかけていた。
そんな風に、リアファルさんの内面に触れ、彼女への共感を深め、まるで古い友人のように感じ始めていた時だった。アトリエの隅で、カサコソ、と小さな物音がして、私の思考は中断された。見ると、少し前にチョコレートの件で異常な行動を見せたネズミとは別の、少し毛艶の良い、しかし明らかに年老いたネズミが、柱の影から私を警戒するように、しかし好奇心も隠せないといった様子で見つめている。このアトリエに長く住み着いている、主のような存在なのだろうか。
ふと、私は試してみる気になった。この砂糖の身体になってから、時折、動物の思考のようなものが、まるでノイズのように微かに感じ取れることがあるのだ。リアファルの怨念の影響なのか、それとも私自身の潜在能力なのかは分からない。でも、もし話せるなら…。
(あの…ねえ、ネズミさん。あなたは、ずっとここにいたの?)
心の中で、できるだけ優しく、警戒させないように、そっと語りかけてみる。すると、驚いたことに、老ネズミはピクリと耳を動かし、小さな黒い瞳で私をじっと見返してきた。
(チュウ…? なんだお前、新顔か? 見かけない姿だが…この塔の気配がするな。主なら、もうずっと前にいなくなっちまったぞ)
テレパシーのような形で、老ネズミの少し嗄れた思考が、私の頭の中に直接流れ込んできた。やはり、通じる!
(あの…よかったら教えてほしいの。リアファルさんのことを、何か知らない? 彼女は、本当はどんな人だったの?)
私が尋ねると、老ネズミは少し身震いし、記憶を探るように天井を見上げた。
(チュウ…あの令嬢かい? 怖かったぞ。夜中に一人で起きてきてな、ガシャンガシャン大きな音を立てて、誰も食べないような妙ちきりんな菓子ばかり作ってたんだ。それに、使用人たちの間じゃ噂になってたぞ。なんでも、王子様を誑かそうとして、他の心優しい令嬢様を酷くいじめてたってな。だから最後は、悪いことをした罰が当たって、怖い役人たちにどこかへ連れて行かれちまったんだよ)
(えっ…王子様を誑かそうと…? いじめ…? 罰が当たって…?)
老ネズミから語られたリアファル像は、私が日記で触れた彼女の内面とは、あまりにも、そして絶望的なまでにかけ離れていた。日記の彼女は繊細で、孤独で、誰よりもお菓子作りに情熱を燃やす、不器用だが純粋な天才。しかし、老ネズミ(おそらくは当時の使用人たちの噂、つまり世間の評判)が語る彼女は、自己中心的で、嫉妬深く、他人を傷つけることも厭わない、計算高い悪女。
(日記の彼女と、ネズミさんの言う彼女が、全然違う…どうして? どっちが本当なの? ネズミさんの話は、ただの根も葉もない噂かもしれない…でも、全くの嘘とも思えない…。彼女には、二つの顔があったの…?)
混乱が再び、激しい嵐のように私を襲う。どちらが真実なのか? それとも、その両方が、光と影のように彼女の一面だったというのだろうか? 事件の真相は、一体どこにあるのだろう。信じるべきは、彼女自身の言葉が綴られた日記か、それとも客観的な(しかし悪意に満ちた)周囲の評判か。
疑問と混乱が渦巻く中、私は再び日記に目を落とし、震える指で最後のページを開いた。そこには、それまでの美しい文字とは全く異なる、インクが紙に滲むほど強く、激しく乱れた筆跡で、魂の叫びのような、絶望と怒りに満ちた言葉が書き殴られていた。
『裏切り者…! なぜ!? あんなに信じていたのに! 私だけが…! どうして私だけがこんな目に遭わなければならないの!? 許さない…絶対に! この世の全てを呪ってやる!!』
その文字から放たれる、禍々しいほどの負の感情の奔流が、ページを開いた瞬間、凄まじい勢いで私の中に流れ込んできた。リアファルの絶望、憎悪、そして世界そのものへの呪詛。その強烈すぎる感情に、私の脆い砂糖の精神は耐えきれず、一瞬にして完全にリアファルの意識に同調し、乗っ取られそうになった。
(うっ…! ああ…! この怒り…憎しみ…! 私まで…! 許さない…!)
危うく「許さない!」と、リアファルの声で叫びそうになるのを、最後の理性で必死にこらえる。バタン!と音を立てて日記を閉じ、胸を押さえた。どくどく、どくどく、と、ありもしないはずの心臓が、警鐘のように激しく脈打っているような錯覚に陥る。
(危なかった…本当に危なかった…。またリアファルさんの感情に引きずられるところだった…。この日記は…危険すぎる…)
自身の精神がいかにリアファルの怨念の影響を受けやすく、不安定であるかを、改めて痛感し、背筋が凍る思いだった。気を確かに持たなければ、いつか本当に、完全に彼女に乗っ取られてしまうかもしれない。そうなったら、私は消えてしまうのだろうか。
(しっかりしないと…。私は、リアファルさんじゃない。私は…メルティア…)
私は自分に強くそう言い聞かせ、深く息をついた(実際には呼吸はしていないのだが、そうせずにはいられなかった)。リアファルの過去と事件の真相を探ることは、彼女の無念を晴らす手がかりになるかもしれないが、同時に私自身の存在そのものを脅かす危険な行為でもあるのだ。それでも、私は知らなければならない。この歪な身体と呪われた力と共に、この世界で生きていくために。そして、いつかまた必ず現れるであろう、あの不可解な氷の王子と、対等に向き合うために。アトリエの静寂の中、私は新たな決意を固めるのだった。