第二話『氷の味蕾(みらい)、呪いを喰らう』
アトリエの硬く冷たい石畳の上で膝を抱えたまま、どれくらいの時間が過ぎ去ったのだろうか。時間の感覚すら、この砂糖の身体では曖昧になっていくようだ。私が意図せず作り出してしまった「呪い」のチョコレートと、それを食べて絶対的な孤独に囚われてしまったかのようなネズミの姿が、繰り返し瞼の裏に焼き付いて離れない。あのネズミは、今どうしているだろうか。まだ壁に向かって震えているのだろうか。それとも…。考えるだけで、罪悪感と恐怖が、冷たい砂糖の身体を内側からさらに冷たく蝕んでいくようだった。
私は何者で、これからどうなるのか。答えの見えない問いが、堂々巡りのように頭の中をぐるぐると巡るばかりだ。そして、時折、まるで嵐のように襲ってくるリアファルの激しい感情の波――怒り、悲しみ、そして深い憎しみ――が、私の脆弱な精神を容赦なく揺さぶり、消耗させていた。このままでは、リアファルの怨念に完全に呑み込まれてしまうかもしれない。そんな恐怖も、絶えず私に付きまとっていた。
そんな重苦しく、閉塞感に満ちた静寂を、不意に破ったのは、塔の外から聞こえてきた微かな物音だった。最初は遠くで響く風の音かと思った。だが、それは徐々に近づいてくる。複数の硬質な足音と、抑えられた低い話し声。そして、その喧騒の中に一つ、明らかに異質な、研ぎ澄まされた刃のような気配が混じっていた。冷たく、張り詰めていて、周囲の空気を凍てつかせるような、有無を言わせぬ静かな威圧感を放つ何か。
(誰か…来たの?)
心臓(砂糖でできているけれど、確かにそう感じる器官があるのだ)が、どくりと嫌な音を立てた。恐怖が再び、冷たい霧のように私を包み込む。この塔は曰く付きだと、どこかでリアファルの記憶が囁いていた。呪われた令嬢が立て籠もった、忌まわしい場所。普通の人間が、興味本位ならともかく、好んで近づくような場所ではないはずだ。だとしたら、この異様に冷たい気配の主は一体…? まさか、私を、あるいはこの場所に残るリアファルの怨念を、どうにかしようという存在なのだろうか。
私は慌てて近くにあった、布がかけられたままの大きな作業台の影に、小さな身体を滑り込ませた。息を殺し、気配を消す。砂糖でできたこの身体は、隠れるには都合がいいほど小さいけれど、もし見つかってしまったら、抵抗する術もなく砕かれてしまうだろう。固唾を飲んで、扉の方を見つめる。
やがて、ギィィ…という重々しい音を立てて、長い間開かれていなかったであろうアトリエの重厚な扉が、ゆっくりと軋みながら開かれた。外からの光が眩しく差し込み、暗闇に慣れた目が眩む。そして、その逆光の中に浮かび上がった人影を見て、私は息を呑んだ。
一人の青年が、従者らしき中年の男を伴って、そこに立っていた。
青年は、人間離れしていると言っても過言ではないほど、恐ろしく整った顔立ちをしていた。艶やかな黒曜石のように光を吸い込む黒髪に、雪のように透き通る白い肌。そのコントラストは鮮やかで、まるで上質なインクで描かれた絵画のようだ。そして、何よりも印象的なのは、彼の瞳の色だった。それは、まるで感情というフィルターを通して世界を見ることを拒絶するかのように、どこまでも冷たく、どこまでも透き通った、氷のような灰色をしていた。その瞳は、感情というものを一切映さず、ただ無機質に目の前の空間を、そこに存在する事象を、分析するかのように捉えている。彼が纏う空気は、実際に周囲の温度を数度下げてしまうのではないかと思うほど、鋭く冷え冷えとしていた。
(きれいな人…でも、すごく冷たい…怖い…)
その青年こそが、私が扉の外から感じ取っていた、あの異質な気配の主だったのだと直感的に理解した。彼は、隣に立つ従者が何か言おうとするのを、僅かに手を動かして制すると、靴音一つ立てずに、静かにアトリエの中に足を踏み入れた。その立ち居振る舞い、身に纏う上質な衣服、そして何よりもその圧倒的な存在感から、彼が高い身分の、それもただ者ではない貴族であることはすぐに分かった。
「王子、本日の午後は〇〇大臣との会談が予定されております。あまりお時間もございませんが…」
従者が、気遣わしげに小声で彼の予定を告げる。
(王子…? やっぱり貴族…それも王族? どこの国の人だろう…それにしても、どうしてこんな場所に…?)
私の疑問が頭をよぎる。
王子と呼ばれた青年は、従者の言葉には「…承知している」とだけ短く応じると、興味深そうに、しかし感情の読めない灰色の瞳で、アトリエの内部をゆっくりと見回し始めた。その視線は、アトリエの荒廃ぶりや、壁に掛けられたまま色褪せたタペストリー、そして床に散乱した様々な道具に向けられているようだった。彼は一体、何を探しているのだろうか。
(…む? この感覚は…?)
その時、再び彼の心の声のようなものが、私の頭の中に直接響いてきた気がした。いや、気のせいではないかもしれない。この砂糖の身体になってから、時折、他者の思考や感情の断片のようなものを、微かに感じ取れることがあるのだ。リアファルの怨念の影響なのか、それとも別の理由なのかは分からないけれど。
彼は確かに、このアトリエの中で何か特別なものを感じ取っているようだった。
(…この感覚は? 強い…だが、歪んでいる。怨念…だけではない?)
彼の視線が、アトリエの中をゆっくりと、舐めるように巡る。そして、ふと、ある一点で動きを止めた。それは、私が昨日作ってしまい、ネズミが食べて異常を起こした、あの「孤独」のチョコレートではなかった。その近くに、まるで忘れられたように転がっていた、別の小さな焼き菓子。以前リアファルが試作したと思われる、色褪せてはいるものの、かつては美しい細工が施されていたであろう、古いマカロンだった。
「あちらは曰く付きの塔でございます。数年前、かの呪われた令嬢リアファルが立て籠もり、最後は…」
従者が、気を利かせたつもりなのか、あるいは王子をこの場から遠ざけたいのか、塔の曰くについて説明を続ける。しかし、王子はそれをほとんど聞いていないかのようだ。彼の興味は、完全にあの古いマカロンに向けられている。
彼はマカロンの前に歩み寄り、その場に静かに屈むと、白い手袋に包まれた指で、それを拾い上げようとした。
「王子、お待ちください! それがどのようなものか分かりませぬ! 呪われているやもしれませぬ! まずは毒見を…!」
従者が、今度こそ慌てた様子で制止しようとする。彼の声には、本気の心配と恐怖が滲んでいた。
しかし、王子は「不要だ」と、やはり冷たく言い放つと、何の躊躇もなく、その古びて強い「念」を放つマカロンを、自身の口へと運んだ。
(食べた!? また!?)
私は物陰で、再び信じられない光景を目撃してしまった。あのマカロンからも、チョコレートほどではないにせよ、リアファルのものと思われる複雑で強い「念」が確かに放たれていたのだ。それは虚無感のような、全てを諦めたような、ひどく乾いていて、触れる者の心を蝕むような感情だった。普通の人間が口にすれば、間違いなく気分が悪くなったり、精神に何らかの悪影響があるはずだ。なのに、この王子は…!
王子はマカロンを口の中で静かに咀嚼し、ゆっくりと飲み込む。その間、彼の表情には、やはり一切の変化が見られない。まるで味のない砂でも食べているかのように、ただ淡々と。隣で側近の従者は青ざめ、今度こそ何か恐ろしいことが起こるのではないかと、固唾を飲んで主の様子を見守っている。
やがて、王子は無表情のまま、唇を僅かに動かして、短く呟いた。
「…興味深い味だ」
その声には、やはり何の感情も乗っていないように聞こえた。ただ、その凍てついた灰色の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、何か得体の知れない鋭い光――それは単なる好奇心というよりは、もっと冷徹で知的な、未知の現象を分析しようとする探求心のようなもの――が宿ったのを、私は確かに見逃さなかった。
彼はそれ以上、アトリエやマカロンについて何も言うことなく、立ち上がると、まるで最初から何もなかったかのように踵を返し、静かにアトリエを立ち去っていった。後に残されたのは、呆然として物陰から動けない私と、主の不可解な行動に安堵と困惑の入り混じった複雑な表情を浮かべる従者だけだった。
(食べた…? 二度も…? 何も起きないの…? あの虚無を…諦めを…平然と…? そして、『興味深い』…? あの人は、一体何者なの…?)
恐怖が、先ほどよりも強い力で再び私を襲う。あの王子は、明らかに普通ではない。常人には感知できないはずの「念」を感じ取り、あまつさえ「呪い」とも言える感情が込められた菓子を平然と口にし、それを「興味深い」と評した。彼は、私のこの異質な存在や、この「呪詛錬金」の能力に、どこまで気づいているのだろうか? もし全てを知られてしまったら、私はどうなる? 破壊される? 利用される?
しかし、その激しい恐怖と同時に、私の心の片隅には、無視できない別の感情も、よりはっきりと芽生えていた。それは、あの氷のように冷たく、謎めいた王子に対する、理解不能な存在への抗いがたい強い興味。そして、もしかしたら、あの人だけは、他の誰も理解できない私のこの呪われた力を、その本質を、見抜いてくれるのではないかという、淡く、そして極めて危険な期待だったのかもしれない。
アトリエの静寂が、再び私を深く包み込む。だがそれは、もはや単なる絶望的な静寂ではなかった。未知の存在との遭遇によってもたらされた、不穏な予感と、微かな変化の兆しを孕んだ、新たな静寂へと変わっていた。私の運命の歯車が、ゆっくりと、しかし確実に回り始めたような気がした。