文士の恋(こひ)
時代劇の要素を加味したタイムトラベルSF、嘉月堂奇譚第二話
まだらの紐の一件から二週間後の夕方、新之介は墨田堤を歩いていた。行きつけだった向島の料亭が店を閉めるというので、食器や調度品をいくつか買い取る話をつけた帰りだった。ここ数日の冷え込みで紅葉の始まった桜並木を渡る風は冷たく、この時刻に堤を歩くことになるなら、袷の羽織にすべきだったと新之介は考えた。
とその時、新之介は川下のほうから歩いてくる人影に気づいた。黄昏時の上に、向かい風を嫌ってうつむいているせいで、顔はよく見えないが、その男のくたびれかけた背広には見覚えがあった。だが、相手のほうは新之介に気づく気配はなく、肩がぶつからないように少しばかり脇に寄っただけで、そのまま通り過ぎていった。
「やっぱり、弥太さんじゃないか! 心ここに在らずって様子だな。締め切りにでも追われてるのかい?」
新之介はすれ違いざまに男の顔を確かめて声をかけた。
「ああ、新さんか……。俺に原稿を頼んでくる編集なんていやしないよ」
彼の名は茶川弥太郎。あまり売れていない文士で、京島の裏長屋に住んでいる。今着ている背広は、知人の流行作家のおさがりだ。
「ん? 弥太さん、栄養失調か病み上がりにしか見えないぜ。一体どうしたんだ?」
新之介は夕日に照らし出された相手の顔を見て、思わず声をあげた。頬はげっそりと痩け、落ちくぼんだ両眼はいやにぎらぎらとした光を放っている。
「どうもしやしない。俺はすこぶる健康さ」
食事のせいでも病気のせいでもないとすると、原因はまた例のやつか……。新之介はそう考えながら、状況を探るために、弥太郎を食事に誘うことにした。
「とにかく、何か精のつくものを食ったほうがいい。夕飯はこれからだろう? 俺がおごるよ。鰻とはいかないが、駒形どぜう(どじょう)の柳川鍋はどうだ? どじょうが苦手ならくじら鍋でもいいぜ」
「うん、冷えてきたし、鍋はありがたいね」
「よし決まりだ。で、弥太さんはどじょうとくじらなら、どっちがいいんだ?」
「どちらかといったら、くじらのほうかな……」
二人はそんな会話を交わしながら、吾妻橋に向かって歩き出した。
まだ五時台とあって客の数は少なく、新之介達は座敷の四人掛けの席につくことができた。鍋が程よく煮え、一本目のお銚子が空いたところで、新之介は弥太郎に尋ねた。
「ところで弥太さん、最近何か骨董を買ったろう?」
「え? ああ、うん……。買うには買ったが、その、いつものような、質の悪い品物じゃないよ」と、弥太郎はどぎまぎしながら答えた。
彼は骨董好きだが、悪縁の品物に惹かれる妙な癖を持っている。気に入るものにはすべて悪縁の黒い紐が巻きついているのだ。確率を考えれば、これはもう一種の才能と呼べるのではないかと新之介は考えている。文才はあるのにさっぱり人気が出ないのも、悪縁の骨董に囲まれて暮らしているせいだろう。新之介の店にもよく顔を出すが、悪縁の品がないから何も買ったことがない。
弥太郎のコレクションが悪縁の品ばかりだということは当人にも伝えてあるが、手放すつもりはないらしい。もはや趣味の問題なので、新之介はいちいち干渉せずに放置することにしている。ただ、中には所有しているだけで命にかかわるような、なんとも物騒な品物が交じっていて、やむを得ず取り上げなくてはならなくなることがある。そんな品物に限って弥太郎がひときわ執着するものだから、新之介は浅草の観風寺の住職、良月に裁定を委ねることにしている。
良月和尚は新之介が知る限りでは最も高い法力の持ち主で、悪縁の品物の危険度を見極めることはもちろん、それを浄化することさえ可能なほどだ。とはいえ、すべてを浄化できるというわけではなく、浄化そのものが危険と判断されれば、封印して寺の蔵に仕舞い込まれることになる。弥太郎のコレクションからは、すでに二品がお蔵入りしている。
弥太郎が骨董を買い始めるまで、良月が浄化できないような品物など、数年に一度見つかるかどうかだった。弥太郎がいかに特異な存在かおわかりいただけるだろう。巷にある悪縁の品を片端から買い求めてくるのだ。良月は冗談交じりに、弥太郎のことを『骨董界の掃除屋』と呼んでいる。
「だが、新しい骨董を手に入れてから、何かが起こっているんだろう?」と、新之介はさらに尋ねた。
「それはまあそうだが、別にまずい事なんかじゃない」
「それなら聞かせてもらおう。一体何があったというんだ?」
「……夢に若い娘が出てくるんだ。十六、七かな、とてもかわいらしい娘なんだが、どこか寂しげで、放っておけない、なんとか笑顔を見せて欲しい、そんな気持ちになる」
「弥太さん、それって……」
夢に寂しげな女性が現れて、日に日にやつれていく? それはもう観風寺行き確定案件じゃないか、と新之介は密かにつぶやいた。良月和尚なら難なく除霊できそうだが、弥太郎のことだ、その死霊と会えなくってしまうのを嫌がるだろう。とはいえ、彼がやつれてゆくのをこのまま見過ごすわけにもいかない。
「すまないが、手鏡を持ってきてくれないか?」と、新之介は傍らを通りかかった中年の女中に声をかけた。
「はい、少々お待ちを」
新之介は女中から手鏡を受け取ると、弥太郎の鼻先に突きだした。
「ほら、どうせ自分の顔なんてろくに見ていないだろう。目の隈やら顔色やら、自分で確かめるといい」
「うう……」
弥太郎は手鏡を覗き込んだまま、言葉をつまらせた。身なりなどには無頓着な男だ。新之介の予想通り、自分のやつれ様にまったく気づいていなかったのだろう。
「自分の状態がやっとわかったようだな。じゃ、良月和尚に会うぞ。明日の夕方六時、観風寺の山門の前に集合だ。ところで弥太さん、手に入れた骨董というのは何なんだい?」
「櫛笥だよ。多分その娘のものだ」
※櫛笥 櫛や化粧道具を入れておく箱。
翌日の夕方、新之介と弥太郎は本堂の右脇にある茶室で良月と面会していた。
「急に押しかけてすみません」
「ああ、構わん、どうせ暇だ」
「手土産がわりの般若湯です」
新之介はそう言いながら美濃焼の一升徳利を差し出した。
「おう、これはすまんな! 善哉、善哉」
良月はたちまちそのいかつい相好を崩すと、身をのりだして徳利を受け取った。
※般若湯 酒の隠語。
※善哉 よきかな 相手の言動をほめたたえる言葉。
年齢は五十歳を越えたところだが、はだけ気味の作務衣の間からは、分厚い胸板ときれいに割れた腹筋が覗いている。きれいに剃った頭に太い眉、これで薙刀でも持たせれば、荒くれの僧兵にしか見えないだろう。
「では弥太郎、まず夢の内容を聞かせてもらおう」
「はあ、内容というほどのものは何もないんです。私が見ているのはどこか寂しげな横顔で、なんとか笑って欲しくて色々と話しかけてみるんですが、振り向いてもらうことすらできなくて」
「服装は?」
「着物も髪型も古風で、江戸時代の商家の使用人ではないかという気がしました」
「なるほど……、次は櫛笥を」
良月にうながされて、弥太郎は脇に置いていた風呂敷包みを開け、櫛笥を取り出した。櫛笥は幅三十センチ、縦と高さが二十センチほどで、黒漆の地に簡素な鶴の線画が金蒔絵で描かれている。
「ふむ、若手の職人だろうが、いい仕事だ。後には名人と呼ばれるようになったろう。新之介、例の紐は見えるか?」と、良月は新之介に尋ねた。
良月も藤奴も、良縁、悪縁の品物から流れ出る〈気〉は感じ取ることができるが、新之介のように、白や黒の紐のような、具体的な形を持った存在として見ることはできない。
「ええ、ごく淡い、薄墨のような灰色です。悪縁の品と呼ぶほどのものではありませんね」
弥太郎の言う〈寂しさ〉が伝わってくるような色だ。そう考えながら新之介は答えた。
「そうだろうな……。その娘は悪霊でも死霊でもない。この世への未練が櫛笥に纏わりついているだけだろう。人を害そうという考えも力も持ってはいない」
「では、彼はなぜこんなにやつれているんですか?」と新之介は困惑しながら尋ねた。
「弥太郎の様子を見ていてわからんのか? 医者でも草津の湯でも治せんという、あれだ」
「恋の病、ですか……?」
良月は右手で首の後ろを掻きながらうなずいた。
「体中に経文を書こうが、部屋の四隅にお札を貼ろうが、何も変わらない。弥太郎が勝手にその娘のことを想っているだけのことだからな」
「それじゃ、一体どうすれば……」
現実の相手ではないから関係の進展は望めない。強引に問題を解決するなら、櫛笥を弥太郎から取り上げるか、櫛笥に残っている娘の想いを良月の法力で消し去るかだが、そんなことを弥太郎が受け入れるはずがない。
「いつもなら、この手のことは放っておくんだが、弥太郎は思い込みが激しいからな、下手をすると焦がれ死にしかねない」
「ええ」
「そこで、わしに一つ考えがあるんだが、実はこの案の実行者はお前でな。新之介、話を聞く気はあるか?」
「なんだかきな臭い気配がする聞き方だなあ……。まあ、彼を引っぱってきたのは俺だし、乗りかかった船だ。話はうかがいますよ」と新之介は答えた。
「なあ新之介、結局のところ、弥太郎とその娘を会わせないことには何も進まない。そうは思わんか?」
「それはまあ……、和尚、まさか!?」
「そのまさかだ。お前と藤奴で弥太郎を過去に連れて行く」
「どういうことですか?」と、弥太郎が驚きの声を上げた。
「藤奴という新之介の馴染みの芸者のことはお前も知っているだろう」
「ええ、新さんの店でちらっと見かけたくらいですが。柳橋で一番だという評判の通りだ。あんなにきれいな姐さんは見たことがない」
「実は、藤奴には特別な力がある。新之介が見つけた因縁の紐をたどって、時間を遡るというものだ」
「そんなことができるんですか?」と弥太郎は勢い込んで尋ねた。
「ああ、過去に行けるのは、魂だけだがな」
「ちょっと待った、いくら藤奴でも弥太さんまで連れて行くなんて芸当ができるかどうか……」
「なあに、魂に重さがあるわけじゃなし、どうにかなるだろう。もちろん、可能か否かは当人に聞いてみるさ」
「それにしたって無茶な……」
「この一件であらためて感じたんだが、弥太郎には何がしかの霊力がある。新之介、お前も薄々気づいておったろう? いくらなんでも、悪縁の品ばかりあんなに引き当てられるわけがない。その弥太郎が娘の念に惹かれているから事が厄介なんだし、過去に辿り着くこともできようというわけだ」
「新さん、頼む。どうかあの娘に会わせてくれ」
弥太郎は居住まいを正して深々と頭を下げた。過去に行けると聞かされればこうなるに決まっている。狸親父め、それを承知で話したな……。新之介は心中で密かに悪態をついた。
「弥太さん、連れて行けるかどうかの判断は藤奴に任せる。ただ、行き過ぎた期待や誤解を避けるために、前もって伝えておかなくちゃいけないことがあるから、それだけ聞いてくれ」
「うん」
「まず、俺たちが行けるのは、因縁の紐ができたところ、つまり、その娘さんがこの世に心残りを感じた時までだということ。それから、過去は変えられない。彼女を助けたいと思っても、どうすることもできないんだ。たとえば、ある人が命を落とすところを救ったとする。一見いいことのようだが、それは他の人間が生まれてくる巡り合わせを奪うことになるかもしれない。まあ、これは極端な例だが、一度生じたずれは、時がたつにつれてどんどん大きくなる。そして、未来が変われば、過去を変えようとした人間の意志や思考も変わる。過去を変えようとした人間がいなくなってしまうわけだ」
「過去を変えようとしたことはないんだね?」
「ああ、俺たちが過去に行ったのは二度、悪縁の品物を良月和尚に浄化してもらうのに、過去のいきさつを知って難度を見極める必要があった時だけだ」
話を複雑にするだけなので、新之介はまだらの紐の件には触れないことにした。そもそもあれは過去を変えたわけではない。並存していた二つの過去を分岐させただけのことだ。
「過去を変えようとしたらどうなるんだろう?」
「わからない。過去にいた魂が消し飛んで、こっちには空の体だけが残るとか、過去を変えようという考えが消えて、過去に来たことさえなかったことになるとか。あれこれ考えてみたことはあるが、所詮は単なる想像だ。ただ、俺の経験では、過去で何か少しでもやり過ぎると、ものすごい圧力がかかってくるのを感じる。過去を変える前に、間違いなくこっちが圧し潰されるだろうという感じの……。なあ、弥太さん、過去に行ったところで、つらい思いをするだけだと思うんだが、それでも行くつもりかい?」
「うん。俺はあの娘の身に何があったのか知らなくちゃならない。そう思うんだ。小説のネタにしようとか、決してそんなんじゃない。新さん、お願いだ、どうか力を貸してくれ」
「……わかった。藤奴には俺から話す。明日の昼間は時間が取れるはずだから、十一時にもう一度集まろう」
翌日、新之介とともに観風寺を訪れた藤奴は、型通りのあいさつを終えると良月に言った。
「和尚様、お考えの通り、弥太郎様をその娘さんのところまでお連れできると思います。それで、向こうから戻るまで、こちらをお預かりいただけますか?」
藤奴は袂から小さな袱紗包みを取り出すと、良月に差し出した。
※袱紗 絹製の小さな風呂敷。
「これは?」
「中身は後ほどお目にかけますので、今はこのままで。そうですね、その櫛笥と一緒にしておいていただければよろしいかと存じます」
「わかった。預かろう」
「ありがとうございます。では、弥太郎様」
藤奴は弥太郎のほうに向き直って言葉を続けた。
「過去に行くことにどんな危険があるか、何をしてはならないかは、もうご承知だとうかがいました。ですから、それについては何も申しません。ただ、あらかじめ一つだけ、ご了承いただきたいことがございます」
「何でしょう?」
「もちろん私は全力で新之介様と弥太郎様をお守りします。ですが、もし万が一、どちらか一方しかお助けできないような事故が起きた場合には、新之介様を選ばせていただきます。詳しくは申し上げられませんが、これは私の一族が果たさなければならない務めなんです」
「こっちの我儘で連れて行ってもらうんだ。それで構いません。言いつけはきちんと守りますよ」
「そのお言葉、忘れないでくださいね。新之介様はしょっちゅう無茶をなさるんです。倍になったら手に負えません」
藤奴は笑いながらそう付け加えた。
「では、そろそろ参りましょうか」
藤奴は傍らに置いていた三味線を手にして撥を構えた。
「弥太郎様はその娘さんの姿を思い浮かべて、『近くに行きたい』、ただそれだけを念じてください」
弥太郎は無言でうなずくと強く両眼を閉じた。件の櫛笥は、胡坐をかいた良月の前に置かれている。新之介は調弦の音に耳を傾けながら、薄墨色の紐にあらためて目をやった。彼が因縁の紐を見つめていなければ、藤奴は過去への道筋を辿ることができない。
三味線の即興演奏が始まると、紐はするするとほぐれて上方へ伸び、茶室の天井を通り抜けていった。『ぢやっくと豆の木』とかいう童話のようだ。新之介がふとそんなことを考えた時、彼の霊体はすでに過去へと跳んでいた。
新之介たちがやってきたのは、江戸時代の大伝馬町に軒を連ねる木綿問屋の一つ、『田端屋』の前だった。因縁の紐は建物の奥のほうに、中天からまっすぐ降りてきている。
藤奴は人通りを避けて伊勢町堀の堀留にある稲荷に通じる路地に入ると、形代を使って、新之介と弥太郎を町人の姿にし、自身は純白のハツカネズミに変身した。
※伊勢町堀 日本橋本町一丁目と日本橋小舟町の境界にあった掘割。
※堀留 堀を掘り進めて行って止めたところ。
※ハツカネズミ 江戸時代後期には、白や斑のネズミをペットとして飼育する
ことが流行していた。
「藤奴姐さんは本当に何でもできるんですねえ」
弥太郎は感心しながら、しきりに頭の上の小銀杏をなでた。
※小銀杏 町人が結った髷
「霊体には形がありませんから、姿はどうにでもなるんですよ。私が店の中を探ってきますから、お二人は町の様子のほうを調べてくださいね。半時経ったらここに集まりましょう。新之介様、通行人に踏まれたくありませんので、『田端屋』までお連れ願えませんか」と、新之介の掌に乗ったハツカネズミ(藤奴)が言った。
※半時 一時の半分。約一時間
「それは構わないが、掌に乗せたままだと歩きにくい。袂に入れても?」
「そうですね……、でしたら、できれば懐に入れていただけたら……」
「ん? 窮屈じゃないか? まあ、お前がそうしたいなら、断る理由はないが」
「おや、藤奴姐さん、霊体にはもともと形がないんだから、どこだって同じって話だったんでは?」と弥太郎が冷やかすように言った。
「気分の問題です!」
藤奴はそう答えると新之介の胸元にもぐり込んだ。
「では後ほど」
田端屋の前で新之介の懐から飛び出したハツカネズミは、目にもとまらぬ速さで人々の足元をすり抜け、誰に気づかれることもなく店の奥へと姿を消した。
「さて、弥太さん、俺たちも行こうか」
新之介と弥太郎は本町通りを西に歩いて通油町に向かった。弥太郎が本屋を覗いてみたいと言ったからで、通行人から聞いた話では、この町の地本問屋、村田屋治郎兵衛が版元の『東海道中膝栗毛』が大変な人気を呼んでいるとのことだった。大伝馬町から通旅籠町を過ぎ、旧吉原から北に延びた大門通りを渡ると、通油町に着く。
※地本問屋 浮世絵や草双紙と呼ばれた絵入り本などを出版・販売する本屋。
喜多川歌麿、東洲斎写楽等の浮世絵を出版した蔦屋重三郎が名高い。
彼の店も通油町にあった。
「で、どんな本が読みたいんだい? 膝栗毛は読んだことがあるんだろう?」
「そうだねえ、一番好きなのは上田秋成だから、未読の珍しい作品が見つかったら最高なんだけれど……」
「くどいようだが、いくら貴重な本でも持って帰るわけにはいかない。そこは忘れないでくれ」
「わかっているよ。それにしても、この蒸し暑さはたまらないね。霊体にも感覚はあるんだな」
弥太郎は梅雨時のどんよりとした空を見上げながら言った。今日は文化二年(一八〇五年)の六月朔日、閏八月のある年で、新暦との差は一月足らずだ。梅雨明けにはまだ間があるだろう。
「形代で実体化しているからね。嗅覚や味覚だってある。ただし、飲み食いはできない。まあ、渇きも空腹も感じやしないが……」
※閏月 月の満ち欠けに基づく旧暦(太陰暦)は一年が約三六四日で、新暦
(太陽暦)とのずれがすぐに広がってしまう。それを修正するために、およそ
三年に一度、閏月を設けて、一年を十三ヶ月としていた。閏月直後に新暦との
ずれは最大となり、それから次第に差が縮まってゆくことになる。ちなみに、
旧暦で行われていた行事を一ヶ月遅らせて行う「月遅れ」は、簡易な方法で
新暦と旧暦の季節のずれを修正しようとしたもの。
「でもね、有名どころの浮世絵なんかを見たら、一枚くらいはっていう気の迷いは起きそうな気がする。骨董商として、新さんはそんな気持ちにならないのかい? 喉から手が出るような品物がそこら中にありそうだと思うけれど」
「それを言わないでくれ」
新之介はそう言って苦笑した。
「まったく、江戸の職人はすごいよ。道具や材料は大正の世のほうが良いものも多いと思うんだが、何て言うか、鍛えが違う。剣術で言うと、才能が同じ者同士なら、よりたくさん素振りをして、立ち合いの場数を踏んできたほうが必ず勝つ。そんな差を感じるんだ。そして、彼らは手間を惜しまない」
「べた褒めだねえ。それで、惚れ惚れするような品物を見つけた時は?」
「良さそうな品だと感じたら、それ以上近づかないようにしている。目の毒だからね」
「なるほど、そんな用心が必要なのか……」
「持ち帰れそうな小物の場合はね。宗達が描いたばかりの風神雷神図が見られると言われたら、まっしぐらに駆けつけるさ」
※宗達 俵屋宗達 桃山・江戸初期の画家。
新之介達が堀留の路地に戻った時、藤奴はすでに変身を解いて二人を待っていた。髪を丸髷に結い、渋い茶色の小紋の小袖に、色鮮やかな花の刺繍を施した帯をお太鼓に結んだ姿は、裕福な商家の御新造に見える。
※お太鼓 お太鼓結び。町人の帯の結び方。
※御新造 武家や上中層町人の妻の敬称。
「すまない、待たせたな」
「いえ、私も今、参ったところです」
藤奴の暗く沈んだ面持ちは、状況が想像していたよりもはるかに思わしくないことを告げていた。
「弥太郎様、あの娘さんは重い病気で床に臥せっておいでです。申し上げにくいのですが、ご快復は難しいかと……」
「そんな、何とかならないんですか?」
藤奴は静かに首を振った。
「盲腸炎をこじらせてしまったようです。弥太郎様、過去は変えられないから手出しができないということではございません。このあいだ、柳橋の仲間の姐さんが同じ病気で亡くなりました。大正の世でも、膿んだところが破れて腹膜炎を起こしてしまうと、ほとんど手遅れになってしまうんです」
※盲腸炎 虫垂炎/虫垂突起炎の俗称。日本で虫垂炎の早期手術の意義が認め
られたのは、昭和六年とされている。
櫛笥の持ち主は池袋村の農家出身の八重という十六歳の娘で、十三の時から田端屋で下女奉公をしていた。病に冒されてからは物置小屋に寝かされ、近所から通いで下働きに来ているお留という老婆が看護に当たっていた。物置小屋というと聞こえが悪いが、奉公人達は大部屋住まいなので、病人を安静に寝かせておける場所が他になかっただけで、主人側に悪意はない。
※池袋村 江戸時代には池袋は村だった。
八重を診察した医者が匙を投げた時、主人は池袋村にいる唯一の肉親である腹違いの兄に病状を知らせたが、元々不仲だった兄の返事は、八重が無断で下女奉公に出た時点で縁は切れているというものだった。
藤奴はさらに、八重が櫛笥を買い求めたいきさつを二人に告げた。
「あの娘さんが櫛笥を買ったのは、商家をまわって化粧道具を商っている平次という男からだそうです。田端屋に姿を見せるようになったのは一年ほど前で、紅や白粉をお内儀に勧めるかたわらで、売れ残りのちょっとした品物を若い下女たちに贈ったりしてご機嫌取りをしていたようです。と言ってもお内儀の好みなどを聞き出すためで、役者になれそうな色男ですが、吉原で商売していた時分に不始末をしでかして命を落としかけてからは、行儀の悪い振る舞いは慎んでいたそうです。
それが半年前、八重さんが突然、給金の前借りをさせて欲しいと願い出たそうなんです。わけを尋ねると、平次から櫛笥を買いたいのだと言う。さては夫婦の約束か何かで誑かされたのかと問いただしてみても、ただその品物が気に入ったのだと言うばかり。平次のほうも呼びつけて詰問したんですが、確かに吉原ではしくじったが、素人娘をだますほど落ちぶれちゃあいないと、派手な啖呵まで切ったそうです。結局、櫛笥は確かな品で値段も妥当、主人も給金の前貸しに応じてやるほかありませんでした」
※お内儀 町人の妻への敬称
「それで、櫛笥はいくらだったんですか?」
「一両、八重さんの一年分の給金です」
「確かに大金だ……」
「結局、決まった相手がいて嫁入り道具を用意したわけではないと?」
「ええ。平次は十六の娘との大商いが決まり悪かったのか、その後ふっつりと姿を見せなくなりましたが、八重さんが特に気にしている気配はありませんでした。奉公人同士の付き合いもろくになく、藪入りでも帰省することも、遊びに出かけることもないような娘でしたから、他に想い人がいるとも考えられず、なぜあれほど高価な品をと、皆不思議がっていたそうです。その後も別段変わった様子もなく、真面目に働いていたんですが、五日前、急に腹痛を訴えて寝ついてしまった……。わかったことはこれで全部です」
※藪入り 奉公人が正月および盆の十六日前後に主家から休暇をもらって親元に
帰ること。
「さすがだな、あの短い時間でよく調べてくれた」
「恐れ入ります」
新之介は弥太郎のほうに向き直って話しかけた。
「弥太さん、その娘さんの看病をするつもりでいるんだろうね?」
弥太郎は静かにうなずいた。
「となると、俺たちは彼女の身内ということにする必要があると思うんだが、どうだろう?」と、新之介は藤奴に尋ねた。
「ええ、それで、私達の関係をどういうものにするか、少し考えていたんですが……」
藤奴が考えたのは、自分達を八重の遠縁にあたる上州の絹商人一家だと名乗ることだった。藤奴と新之介が夫婦で、弥太郎はその惣領息子、新之介が家督を弥太郎に譲って隠居することにしたので、挨拶回りのために江戸を訪れたのだが、途中で立ち寄った八重の実家で彼女が重体だと知り、看病するために田端屋を訪ねたということにする。
「いかがでしょう? この時代で男二人に女一人の旅というと、これが一番自然かと……」
「うん、いいんじゃないか」
「では、そのように」
藤奴の言葉とともに靄のようなものが一瞬眼前をよぎったかと思うと、新之介と藤奴は初老の町人夫婦の姿になっていた。三人とも三度笠に脚絆、草鞋穿きの旅装束で、男二人は振り分け荷物を肩にかけている。
「すごいな、歳まで変えられるのか!」
弥太郎は新之介達の姿を見て思わず声を上げたが、すぐに思い直して付け加えた。
「もっとも、ハツカネズミにだって変身できるんだ、何でもありか……。新さん、藤奴姐さんて、一体何者なんだい?」
「良月和尚でさえ一目置く霊力の持ち主。言えるのはそれだけだ。ここでの出来事は一切他言無用で頼むよ」
「もちろん。絶対に迷惑はかけないよ」
「それじゃ、名前を決めましょう。新之介様は新介、屋号は上州屋。私は女房のお藤」
「いいんじゃないか」
「あの、俺は?」
「町人ぽい名前だから、弥太郎様はそのままで大丈夫だと思いますよ。あ、時に、そのお名前は本名なんですか?」
「いや、本名は君嶋憲次郎といいます」
「あら、何だか作家というより政治家の先生みたいですね」
「実際、父は貴族院議員をやっています」
「で、息子の方は俺と同じ、勘当の身ってわけだ。帝大まで出て作家になるなんて言い出せば、まあ当然の成り行きだな」
田端屋の主夫婦は、親族として八重の看病をしたいという新之介達の申し出を手放しで歓迎した。多忙で奉公人の看護にまで手が回らないことへの後ろめたさもあったのだろう。こちらの言い分がすべてそのまま受け入れられるように、藤奴が軽い暗示をかけてはいたのだが、彼らが善良な人物であることは確かだった。
「根性曲がりの太吉って兄も、ひとつだけ良い事をしましたねえ。上州屋さんにお越しいただいて本当によかった。八重も喜ぶでしょう。要るものがあったら、何でもおっしゃってください」と主の仙右衛門が言った。
「実は、太吉という男には会っておりません。八重さんのことを教えてくださったのは近所の方々でして。このお藤が話を聞いて大層怒りましてね、兄妹の縁を切ったというのなら、こちらも親族の縁を切ると申しまして、そのままこちらに伺ったという次第で」
「なるほど、太吉が教えたというのは何かしっくりこなかったんですが、それで合点が行きました。とにかくお耳に入ってよかった」
「まったくです。虫の知らせとでも言うんでしょうか、お藤が、池袋村に親戚がいて、子供の頃に優しい伯父、伯母に可愛がってもらったことがある。代替わりはしているだろうが、一度訪ねてみたいと申しまして、予定を変えて村に立ち寄ったところ、そちらさまのお使者を太吉が追い返したという噂が村中に広まっておりました」
「それはそれは、使いを出したのも無駄にはならなかったわけですね」
「ええ、おかげさまで、不憫な娘さんの世話をすることができます」
八重の看護に関しては、身体を拭いてやるなどの世話が藤奴、額を冷やし、話し相手を務めるのが弥太郎、必要なものを主人側に伝えて用意してもらうといった調整役が新之介ということに決まった。
藤奴の霊力で痛みだけは押さえられたが、病状そのものが改善する望みはないことを、三人とも承知していた。八重は半時ほど眠っては、目を覚ましてわずかばかりの水を飲み、小半時もすると再び眠りについた。
※半時 約一時間 ※小半時 約三十分
その短い覚醒のひとときに、八重はぽつりぽつりと自身の身の上を語った。兄が八つの時にその母親が亡くなり、八重の母が後妻に迎えられたこと。父親が先妻の死から二年足らずで再婚したことに兄が反発し、八重の母や、程なく生まれた八重に冷たくあたったこと。そして、後ろめたさもあってか、兄の行状を父が野放しにしていたこと……。
兄の仕打ちに耐えかねた八重が下女奉公に出て半年もたたない頃、両親は流行り病であっけなく亡くなったのだが、兄は八重を葬儀に呼ぶこともなく埋葬を済ませると、絶縁状に死の経緯だけを書き添えて八重に送りつけたのだった。
「平次さんから櫛をもらった時、一緒に所帯を持とうと言われた気になったとか、そういうことではないんです。当人が、これは商売のための、言ってみれば撒き餌のようなものだと言っていたし、他にも何人か同じものをもらったようでしたから。私はただ、あの人が自分の店を持ちたいと話しているのを聞いて、それを助けたいと思ったんです。どうせ私なんて藁くずのようなもので、一生下女奉公を続けるだけだし……」
※櫛 当時は求婚の際に櫛を贈る習慣があった。
「それで、櫛をしまっておくための櫛笥を?」
「はい。でも、櫛は誰かに盗られてしまって、結局空のままなんですが……」
「誰がそんなひどい事を……」
「いいんですよ。ちょっとねたましくなっただけでしょう。おつかいに出ていたりして、櫛をもらいそびれた娘が何人かいましたから。本気で嫌がらせをするつもりなら、櫛笥の方を盗んだと想います」
「八重さん、君は決して藁くずなんかじゃない。こんな綺麗な心の持ち主に、僕は会ったことがない。君は幸せにならなくちゃいけないんだ」
夢で目にしていたのは、すべてを諦めたこの表情だったのだ。そう考えながら、弥太郎は寂しげに微笑む八重の手を取った。
次に目を覚ました時、八重は小声で弥太郎に言った。
「あの、お三方は、私の親戚ではありませんよね」
「なぜそんなことを?」
「お藤様にお腹をさすっていただいただけで、すっかり痛みがおさまりましたし、弥太郎様は商人とは思えないような話し方をなさいます。私、皆さんは神様のお使いだと思うんです。『池袋のものを家に入れると、祟りで石が降る』と嫌がられていた上に、こんな病気で死ぬなんて、神様にも好かれていないんだと、罰当たりなことを考えていたんですが、ちゃんと気づかってくだすったんですね……」
「僕らは神様の使いではありません。でも、別の世界からやってきたというところは、少し似ているのかな」
「どんな世界なんですか?」
「こことそれほど変わりませんよ。少しばかり便利だけれど、人と人は争ってみたり、仲良くしてみたり、根っこのところは同じだ」
「弥太郎様はそこでどんなお仕事を?」
「何ていうか……、読本のようなものを書いています。あまり人気はありませんが」
「だから難しい言葉をたくさん知っていらっしゃるんですね。私、字が多い本を読むのが苦手で……、あの、何かお話を聞かせてくださいませんか?」
「ええ、喜んで」
※石が降る 石降りは特定の家の周囲、主に屋根に小石が降る、ポルターガイス
トの一種のような現象。池袋村の女を下女に雇うと、池袋の土地神が氏子をよ
そにやるのをいやがって、石降りなどの怪異を起こす、という噂があった。
※読本 江戸時代後期の小説の一種。絵が主体の草双紙に対し、読むことを主体
とした。上田秋成の『雨月物語』などが代表作。
弥太郎が即興で物語ったのは、戦国時代を舞台にした、波乱に満ちた恋物語だった。
松尾城の城主の次男、萩丸は十歳の時に、人質として同盟相手の楠美城の城主のもとに預けられ、一つ年下の明姫と出会う。二人は次第に惹かれ合うようになり、利発な萩丸は城主の楠美義正からも気に入られて、後継者の一人と目されるまでになるが、十六歳での元服を目前にしたある日、状況は一転する。父親の松尾源丞が同盟を破棄し、嫡男宗馬の率いる二万の軍勢を楠美城に差し向けたのだ。萩丸は地下牢に入れられ、開戦の朝に処刑されることになるが、秘密の通路を知っている明姫の手引きで城を脱出する。こうして、地位を失い、両陣営を敵にまわした萩丸と明姫の逃避行の幕が開いたのだった……。
八重は物語に夢中になり、短い眠りから覚めると、目を輝かせながら続きを弥太郎にせがんだ。
「弥太郎さん、こんなお話もお作りになるんですねえ。もっと難しいお話をなさるのかと……」と、部屋の隅で耳を傾けていた藤奴が新之介にささやいた。
「俺も少しばかり意外だった。八重さんを喜ばせたい一心なんだな。それがいいほうに出ている」
「ええ、本当に」
八重が特に胸を高鳴らせたのは、明姫が母の形見の懐剣に宿った霊力で何度も萩丸の窮地を救う件だった。彼女が話に引き込まれているのを感じると、弥太郎の語り口はますます熱を帯びていった。
「こんな素敵なお話、いつまでもいつまでも終わらなければいいのに……」
藤奴は声をつまらせると、袖をそっと目頭にあてた。
物語が大詰めにさしかかったところで八重が眠りにつくと、藤奴は弥太郎と新之介を部屋の外に連れ出した。
「弥太郎様、申し上げにくいのですが、八重さんがお目覚めになるのはあと二度、三度目は難しいかと……」
「そうですか、千一夜物語のように話を続けていったら、ひょっとして八重さんも生き続けてくれないかと考えたんですが、やはり、そう甘くはないんですね」
弥太郎は目を伏せて何ごとか考え込んでいたが、やがて意を決して顔を上げた。
「新さん、藤奴姐さん、八重さんに櫛を贈りたいと思うんだが、何か手立てはないだろうか?」
「弥太さん、それは……」
「この時代のものを手に入れるのはご法度だってことはわかっている。でも、八重さんをこのまま逝かせるなんてことは、俺にはできない。お願いだ、どうか助けてくれ」
「弥太さん……」
「あの、弥太郎様、櫛をお貸しするということでよろしければ、なんとかなるかもしれません」
「え?」
「この時代の私の親族に貸してもらうんです。ちょっと特別な家系ですから、お貸しするだけならそこまで歴史に影響はないと思います。八重さんには弥太郎様からの贈り物だとおっしゃっていただいて構いません」
「藤奴姐さん、恩に着る。それで十分だ」
弥太郎が八重のもとに戻ってゆくと、新之介は小声で藤奴に尋ねた。
「その親族というのは?」
「私の姉さまです。術を使って弥太郎さんの物語をお聞かせしたら、大層気に入って、今も続きを楽しみにしているんです。弥太郎さんが八重さんのために願うことなら、二つ返事で叶えてくれるでしょう。ひとっ走りして借りてまいりますから、こちらをお願いしますね」
「ああ、わかった」
姉はいくつなのか? この時代にも藤奴はいるのか? 数々の疑問が浮かんだが、新之介はそれらを口にすることなく、外出しようと店先のほうに向かう藤奴の後ろ姿を見守った。
年齢を話題にされるのを嫌がるし、そもそも人とは別の理に従って生き、時の流れの感じ方も人とはまったく異なっているはずの存在に、そんなことを尋ねてみたところで、意味のあるはずもなかった。ただ、姉さまや姉さんではなく、姉さまという呼び方には、その妖狐が一族の中で別格の存在として敬われていることを感じさせるところがあった。
八重が目覚めると、弥太郎はこれまで以上に熱を込めて物語を大団円へと導いた。
―萩丸は明姫に助けられて、敗走していた楠美城の残党をまとめ上げ、義父、義正の仇である実父と兄を討ち果たす。父、源丞の裏切りの原因は、兄、宗馬が萩丸のあまりに優れた力量を妬んだことにあった。楠美、松尾、二城の城主となった萩丸は、晴れて明姫と祝言を挙げるのだった……。
「弥太郎様、ありがとうございました。自分が明姫様になったような気がして、こんなに楽しかったのは生まれて初めてです」と、八重は頬を紅潮させて言った。
「お礼を言うのは僕の方です。こんなに熱心に話を聞いてもらったのは、亡くなった母のとき以来だ」
「お母様が?」
「ええ、僕は妾腹の次男で、僕も母も、正妻とその子供達からずっと疎まれていました。その心労が、生まれつき体の弱かった母の死を早めたんでしょう。母は僕が八歳になった春に亡くなったんですが、最期の一年は離れでほとんど床についたままでした。そんな母を少しでも慰めたくて、学校であったことや、街で見たことを話して聞かせているうちに、自分で物語を作って母に聞かせるようになったんです。すると母は、その主人公にこんな友達がいたら、とか、話をふくらませる手がかりをくれました。母と一緒に物語を作る。その作業のなんと楽しかったことか……。僕が物書きになろうと思ったのは、おそらくこの体験がきっかけなんです。ところが、学生時代にちょっとした賞をもらって、作家の端くれにはなったものの、読者の顔が見えない。いつの間にか、ただ食ってゆくためだけに筆を執るようになっていました……。大切な人のために物語を作る。八重さんのおかげで、僕は出発点に戻ることができたんです。ありがとう」
※妾腹 正妻の子供でないこと
「私がお役に立てたなんて……、本当にうれしいです」
「八重さん、実は、君にもらって欲しいものがあるんだ」
弥太郎はそう言いながら懐から袱紗包みを取り出すと、八重の枕元で包みを開いた。
「それは?」
入っていたのは黄楊の梳櫛と、鼈甲に金、銀、貝殻を使った象眼で蝶の模様を施した挿櫛だった。
「なんてきれいな櫛……」
手渡された挿櫛を灯火にかざして見つめながら、八重は思わず声を上げたが、程なく我に返るとあわててつけ加えた。
「でも、私のような者が、こんなに立派なものをいただくわけには……」
「いや、八重さんだからこそ、これを贈りたいんだ。そして、僕の妻になってもらえないだろうか」
「弥太郎様……」
困惑している八重に藤奴が声をかけた。
「八重さん、この方が本気なことは私達が請け合います。あとはあなた次第。ご自分の気持ちに素直になって、お決めください」
八重はしばらく考え込んでいたが、藤奴の助けを借りて半身を起こすと、いくぶん声は細いものの、しっかりとした口調で言った。
「弥太郎様、私が死んだら、後添いをお貰いになって構いません。ただ、次の世に生まれ変わったら、もう一度、私をお嫁に迎えてくださいますか? そうお約束いただけるなら、お話をお受けいたします」
「ああ、約束する。現世でも来世でも、八重さんが僕の妻だ」
弥太郎は藤奴に教わりながら八重の髪を梳いてやり、その髪を藤奴が文金高島田に結い上げ、前髪とまげのあいだの位置に、あの鼈甲の櫛を挿した。
「弥太郎様、ありがとうございます。明姫様が使うような、本当に立派な櫛……」と、八重は藤奴が差し出した手鏡に映る自身の姿を見つめながら言った。
「それに、こんなにきれいな紅を点したのも初めてです」
「八重さん、おきれいですよ。ね、弥太郎さん」
「ええ、本当に、美しい……」
「それにしても、顔立ちの整った娘さんだとは思っていたが、きちんと装うとこれほどとはね。あの紅も姉さまから?」
新之介が藤奴にささやくと、彼女は笑いながら答えた。
「そうですよ。下りものの小町紅です。でも、新之介様、ちっともおわかりになっていらっしゃいませんねえ。女は恋することで、何倍も美しくなるんですよ」
※文金高島田 婚礼で花嫁が結う髪型
※下りもの 上方から江戸に入る商品の総称
※小町紅 紅花を原料に京都で作られた良質な口紅
半時後、八重はおだやかな微笑みを浮かべながら、眠るように息を引き取った。弥太郎に自分達の出会いの物語を書いて欲しいというのが、八重の最期の願いだった。
兄が何をするかわからないので、遺体は池袋村ではなく、浅草の観風寺に埋葬することになった。
「ここのお住職は代々高い法力があって、うちの親族とは長い付き合いですから、しっかりお墓を守ってくださいますよ」と、埋葬の終わった小さな墓を前にして藤奴が言った。住職と田端屋夫婦はすでに引き揚げた後で、新之介達三人だけが残っている。
八重の櫛笥は藤奴の親族、つまり彼女の姉が預かることになった。時が来たら、弥太郎の行きつけの骨董屋に頼んで、弥太郎が買うように仕向ける予定だ。今では金色に輝く良縁の紐が巻きついていて、これでは弥太郎の好みに合いそうもないが、と新之介が尋ねると、櫛笥を元通りにするくらいのことは、姉さまには造作もないことなのだと藤奴は答えた。
「弥太郎様、お名残り惜しいでしょうが、そろそろ大正の世に戻りませんと」
「ええ」
藤奴にうながされて、弥太郎はあらためて墓に手を合わせた。
「八重さん、次に来る時は、野に咲く花を手向けるよ。君自身が、そんな花そのもののような人だったからね……。では、しばらくお別れだ」
弥太郎は新之介達のほうに向き直って歩きだした。
「お待たせしました」
足早に近づいてくる弥太郎を見守りながら、新之介は藤奴に言った。
「なあ藤奴、帰りのことなんだが、どれくらいの危険があると思う?」
「何とも言えませんねえ……。櫛も姉さまから借りただけですし、歴史を変えるようなことはしていないんですが、弥太郎さんは、歴史が変わろうが構わないとお考えでしたから」
「うん、俺もそこが何となく引っかかるんだ。あの力は何ていうか、先まわりして働くようなところがあるからな」
二人は歴史を維持しようとする力に、生物の免疫系のような一面があるように感じているのだった。一度異物として認識されてしまうと、排除すべき対象として容赦ない攻撃を受ける。特に危険なのは、元の時代に戻る瞬間だった。抗体ができている生体内に侵入するようなものだとでも言えばいいだろうか。
墓地は低地に作られていて、本堂までの道はなだらかな上り坂になっていた。本堂と墓地のちょうど中間あたりに生えている杉の大木のところまで来た時、藤奴が二人に声をかけた。
「このあたりにしましょう。この木が陰になって、本堂のほうから見えにくいですし。新之介様はいつも通りにお願いします。弥太郎様は、そうですね、八重さんのことをお考えください。それが一番集中できるはずですから」
「わかりました」
「では、お二人とも目を閉じてください。三つ数えたら跳びますよ。一の、二の、三……」
次の瞬間、三人の霊体は無数の〈世界の泡〉を前にしていた。
―新さん、いったいこれは何なんだい? この卵のような、泡のようなものは……。
―俺にもよくわからないが、この一つ一つが宇宙というか世界、ということらしい。そのどれにも地球や日本があり、俺達そっくりの人間が暮らしている……。まあ、実際の宇宙がこんな形をしているわけじゃなくて、藤奴の力で、俺達に見えるようになっているってことらしいが……。
―それにしても、こんなにたくさんあって、元の世界がわかるのかい?
―それは大丈夫です。出発した時、私たちの世界からは因縁の紐が伸びていました。戻りながら、その場所を確かめたんです。ここは出発した時より少しだけ後なので、紐は見えませんが、どの泡だったのかはわかります。
前回のような世界の分岐は起きていないので、元の世界を見つけるのはそれほど困難ではないらしかった。
―これです。では、弥太郎様から……。
藤奴が弥太郎を泡の内部に移動させようとした時、突然泡が膨張して彼をはじきとばした。
―いけない!
藤奴はあわてて弥太郎を引き戻そうとしたが、彼女自身も体勢を乱されていたせいで、あとわずかのところで間に合わなかった。
―弥太さん!
その時、目映い光の玉が泡の中から飛び出してきたかと思うと、瞬く間に弥太郎の霊体を包み込んだ。光の玉はその場でぴたりと静止すると、新之介達の前をゆっくりと通り過ぎて、泡の中に戻っていった。
―藤奴、今のは?
―どうやら掛けておいた保険が効いたようです。弥太郎さんはご無事ですよ。詳しいことは向こうでお話ししますから、とりあえず私達も戻りましょう。
「弥太さん、あの光の玉は何だったんだ?」
新之介は自分の体に戻るなりそう尋ねた。
「俺にもわからない。泡にはねとばされたと思ったら光に包まれて、気がついたらここにいたんだ。ただ、あの光に包まれた時、何となく心が温かくなって、ひどく懐かしい感じがしたよ」
「八重さんの霊魂が助けてくださったんです」と藤奴が言った。
「八重さんの?」
弥太郎が声を上げると、良月がうなずきながら膝もとの袱紗包みに目をやって言った。
「そこから光の玉が飛び出していって、程なく弥太郎が目を開いた。その娘の力だな」
藤奴は袱紗の包みを手に取って弥太郎に差し出した。
「弥太郎様、包みをお開けください」
包みの中から現れたのは、彼が藤奴の姉から借りて八重に贈った二つの櫛だった。
「これは……」
「はい、あの時の櫛です。八重さんの形見としてお渡しするために、うちの親族が預かっておりました」
「でも、貸すだけだと……」
「あの時差し上げたら、一緒に埋葬するとおっしゃって、親族のほうで預かると申し上げても、聞き入れてくださらないのではないかと心配したんです。この時代に戻る時、もし弥太郎様の身に何かあったら、きっと助けになってくれるはずだと思いましたので」
「なるほど、形見の品を介して降臨したのか……。それにしても、とてつもない霊格だな。めったにお目にかかれるものじゃない」と良月が言った。
「和尚、八重さんの霊は今どこに?」と新之介が尋ねた。
「弥太郎の頭の後ろあたりだ。新之介、お前にはどう見える?」
「そうですね……、言われてみれば、少し光っているような気がします」
「そのくらいが丁度良いな。わしの目には眩しすぎて、目を開けているのもひと苦労だ。弥太郎、もう悪縁を気にする必要はない。好きな骨董を手に入れて構わんぞ。お前にちょっかいを出そうものなら、瞬く間に浄化されることうけあいだ」
「あの、八重さんと話すことはできませんか?」
「お前にも多少の霊力があるからな。慣れれば夢で会うくらいのことはできるんじゃないか」
「よかった! ありがとうございます。そうだ、藤奴姐さん、この櫛を届けてくださった親族の方というのは?」
「私の姉さまです」
「そうでしたか、何かお礼を差し上げないといけないな……」
「いいんですよ。実は、私も最近知ったんですが、姉さまは弥太郎様のことを、それはそれは贔屓にしているんです。お書きになったものは全部読んだそうで、ですから、新しい作品を書いてくださるのが一番のお返しになります。八重さんと約束した、お二人の物語をお書きになるんでしょう? 姉さまも楽しみにしておりますよ」
藤奴がそう答えた時、新之介は弥太郎の背後の光が、相槌を打つかのように強まるのを目にした。
程なく旧正月を迎えようという二月上旬の日曜の夕方、新之介と藤奴は神楽坂の地蔵坂を下って、神楽坂通りに向かっていた。立春を過ぎ、そこかしこで赤や白の梅が咲き誇っている。二人はこの近くの牛込館という映画館で、藤奴が観たがった活動写真を観た帰りだった。藤奴が着物の上に和洋折衷の東コートを羽織っているので、新之介もそれに合わせて、和装の上にインバネスコートを纏っている。
「面白かったですねえ、『怪盗ジゴマ』」
「恋愛ものより活劇が好みとは、ちょっと意外だったよ」
「恋愛ものも好きですよ。でも、それでしたら歌舞伎か新派の劇にします。活動写真はやっぱり活劇でなくちゃ」
※東コート 婦人の和服用コート。明治の中頃に白木屋(東急百貨店の前身)が
売り出した。
※インバネスコート ケープのついた袖なしの外套。明治初期に輸入され、和装
用コートとして流行した。
神楽坂通りに出たところで、藤奴は書店の店頭に貼り出された手書きの広告に目をやりながら言った。
「弥太郎さんの小説、評判のようですね」
広告には毛筆で次のように書かれていた。
時を越えた恋!
茶川弥太郎作『野に咲く花』掲載
文藝倶楽部三月号 増刷出来
※出来 物ができあがること。
「君の姉さまも喜んだろう」
「ええ、それはもう。自分をもとにした江戸の霊能者が、主人公の青年を呼び寄せたことになっているんですから。本職の方はうまく考えるものですねえ。おかげで私や新之介様が関わっていたことは知られずに済みました」
「確かに、因縁の紐をたどって過去に行くというより、あのほうが自然だね。櫛笥を手にして、薄幸の娘の思いに感応した青年を霊能者の女性が呼び寄せる」
「ところで、弥太郎さんは夢で八重さんに会えるようになったんですか?」
「ああ、最近、夢に色がついたと言って喜んでいたよ。まさか夢の話で惚気られるとは思わなかった。中てられてかなわない」
「あら、うらやましいんですか?」
「別にうらやましいというわけじゃないが、あれだけお互いのことを想い合っているのを見ると、立派なものだとは思うよ。俺は母を亡くしてから、人を愛おしいと思ったことなどないからな」
新之介の言葉に、藤奴は少し表情を曇らせた。
「……そう言えば、弥太郎さんはどんな悪縁の品を手にしても大丈夫だというお話でしたね。観風寺が預かっている品物はどうするんでしょう? それなりに値打ちのあるものもあったと思いますが」
「ああ、和尚も引き取ってもらいたいだろうね。ただ、当分は無理だろう。今の弥太さんは、八重さんのことしか頭にないからな」
「確かにそうですねえ」
藤奴はそう言って微笑むと、そっと新之介の腕を取った。
第三話 予告
ついに明かされる新之介出生の秘密。
妖狐一族を敵視する謎の一団、その正体とは……