隣に挨拶に行ってみたら友人が捕まった件
昨今の引っ越し屋も大概大変だ。
人手不足できりきり舞いらしく、俺の次にも今度は隣県での現場があるようで。
挨拶はしっかりしてくれたが、終わるやいなやすっ飛んでく勢いでトラックを走らせ、その後ろ姿はすぐさま見えなくなった。
春。
桜の散りはじめの四月一日。
俺は通う大学が家から遠かったこともあり、上京する事になった。
繁忙期値段でくそ高かった引っ越し代は、親のなけなしの財力と幾ばくかの俺のバイト代貯金でなんとかしたけれど。
「高かったなぁ、さすが四月」
ぼやくくらいには痛手だった。
けど、三月からとなると余計なお金がかかるのは明白だ。
トラックを見送ってため息もそこそこに、俺はこれから自分の城となるアパートを眺めた。
これから部屋の片付けが待っている。
日が暮れる前にやってしまおう、そう決めて、未来への期待で軽い足を動かしながら一階にある自分の部屋へと向かうことにしたのだった。
「……ふぅ。これくらいでイイ、かな?」
ワンルームキッチン付きの部屋は、案外早く片付いた。
実家に多少置いてきたのと、これを機にと大分人にあげたり売ったり捨てたりしたのが功を奏したんだろう。
見渡した部屋は気持ちの良い整理整頓さで、くつろぎやすそうだ。
自分の偉業に気を良くしてほくそ笑むと、ついで母親から手渡された紙袋の中身を、確認することにした。
「引っ越し挨拶品だってかーちゃん言ってたけど、何渡してきたんだ?」
袋の中を探ると、ご挨拶の文字が書いてあるのしに包まれていたのは石鹸のセットだった。
(かーちゃん、都会はもしかしたら液体ソープが主流かもしれんのだぞ?)
そう思ったけど気持ちを無下にはできず、何より懐がこれ以上寒くなってもまずいので、石鹸を配ることに決めた。
アパートは値段なりの防音具合だったから、母親には出る前に口を酸っぱくして言われている。
両隣と上下ばかりは、音が伝うから挨拶は必須! だそうだ。
あるのとないのとでは心象が大分違うと言われては、是非ともしておきたい。
俺は早速、左隣の家から攻めることにした。
時刻は六時。
夕方定時系の社会人ならもしかしたら帰宅していないかもしれない。
そんな思いを持ちつつチャイムを押す。
ぴん、ポーン。
というちょっとばかり外れた音。
その後からガチャリ、と施錠を外す音とともに隣人が現れた。
(都会なのに無防備かよ。大丈夫か?)
思いはしたが表情に出しては男がすたる。
なるべく人好きのするように笑顔を心がけながら、最初の一言を発した。
「どうも、夕方のお忙しい時間にすみません。俺、隣に越してきた伊藤といいます。生活音とかでご迷惑おかけすることもあるかと思いますが、よろしくお願いします。これ、ご挨拶です」
そう言ってアルバイトスマイルとともに、石鹸を差し出し有無を言わさず受け取れるようになるべく相手の体に近づける。
相手はまんまと策略にハマったようで、戸惑いながらも受け取ってくれた。
よっしゃ、まずは一件。
「……どーも、ご丁寧に」
相手は少し戸惑った様子だけれど、何か粗相をしてしまっただろうか。
「……引っ越し挨拶、今時でもするものなのですね」
お隣さんは年の頃は三十代、もしくは四十代なりたてだろうか。
きっちりと整えられた髪は短く刈り込んであり清潔そうで、立ち居振る舞いはなんだかどこぞの課長とかその上クラスっぽくもある。
帰宅したてなのか、白いシャツにスラックスと、俺の引っ越し用パーカーにスウェットとはいでたちがま反対だ。
それにしても、都会じゃ引っ越し挨拶は廃れてるんだろうか? そんな疑問をよそに、相手は勝手に結論づけたようで。
「東京だからといっても、こういうのは大事ですものね。私も気をつけなければ」
そう言うと、ありがとうございました、と言ってドアを閉めてしまった。
なんだかちょっと風変わりでもあったが、とにかく最初のミッションはクリアだ。
俺は気を良くして、向かって右隣、そして下はないので上の人にも挨拶をして、その日はコンビニご飯を食べると就寝したのだった。
一日で全部の挨拶が済んだからか、幸先よく、俺の大学生活も気にいるサークルを見つけることができたり、友人ができたりといい滑り出しとなった。
同じアパートの住人とは生活時間帯が違ったりもするのか、あまり見かけないこともあって交流もなく。
けれど見かけた時には、簡単に挨拶するような平凡なけれどちょうど良い距離感の関係で。
俺は田舎の生活から一転、割とすぐに都会の生活に慣れていった。
そしてそれは唐突に始まった。
大学に入学してひと月経った頃、友人の田所と俺の家でネトゲをしていた時。
ゴッ。
……ゴッ。
「おい」
「なんだよ」
「なんか変な音しねぇ?」
田所がおかしなことを言い出した。
俺は聞こえていなかったから、耳をすましてみたら、確かにどこからか――薄気味悪い何かを叩くような音がする。
しかも割と重たいものでだ。
けれど、そこまでの大きな音でもなく、何よりそれ以降ぴたりと聞こえなくなったのでネトゲを再開してその後就寝し、俺たちはそのことを忘れた。
次の日、田所と大学に行く時にはお隣さんが丁度何処かから帰ってきたところだった。
すれ違うと、ふわんと香辛料のいい匂いがした。
つい田舎の気やすさが口をつく。
「今晩のメニューはカレーですか?」
言った後でしまった馴れ馴れしかったか?! と思ったけれど、相手は気にする風もなく答えてくれた。
「いえ、カレー屋を営んでいるのですよ」
「そうなんですか! 行ってみたいなぁ」
「ちょっとお高めなので、あなたが社会人になったら、ぜひ」
彼はそう言うと会釈をしてスッと歩いてドアの中へ入っていった。
「カレー屋で高級とか、わけわかんねー」
田所は眉を少し顰めてボソリと呟いた。
「まぁそういうなよ。あれじゃね? スパイスとかが特別なんだろ」
俺は謎のフォローを入れながらも、確かにと心の中で思いつつ、カレーは外食で選ばないから縁がなさそうだなぁとか、割と失礼なことを考えた。
それから暫くはまた、平凡な毎日。
学校へ行って、サークルの活動に顔を出したりイベントに参加したり。
充実した生活ってやつだ。
勿論、学校の課題もちゃんと提出して、バイトもしていた。
仕送りだけじゃ、親も大変だし、俺だって自由になるお金はあった方がいいと考えていたし。
そんな時だ。
深夜、ふと目が覚めて庭先に出た。
と言っても、アパートについているものでそんなに広くはない。
「各個人で管理をきちんとする、菜園や花壇は原状回復するならばうるさく言わない」と契約にもあって、割と好き好き野菜を育てたりプチイングリッシュガーデンにしてみたりと、楽しんでいる人が多いそうだ。
俺の場合は、草こそマメに抜くものの、特段使う予定はなかった。
目の前にはコンクリのブロックが六段ほどついてあり、その上には縦じまのフェンス。
両脇はアパートなので隔て板がある。
静かだ。
そんな中、ふとフェンスの向こうを見ると見知った顔と連れ立って女性がいるのが見えた。
(彼女かな)
そんなことを思ったけれど、デバガメ趣味はないので邪魔をしないよう音を立てずに室内へと戻った。
数日後。
あいも変わらず田所とつるんで家でくっちゃべっていた時だ。
ぎっ。
ぎっぎっ。
何かを強く擦るような音が、聞こえてきた。
「チッ、またかよ」
田所はレンタルビデオの映画がいいところだったので、明らか不機嫌そうだ。
俺は怒るというより、その不気味な音に気持ち悪さを感じていた。
「なんか、変じゃね?」
弱気が口をついて出る。
「なん、お前ビビってんの?」
少し小馬鹿に、けどいじる感じで田所が聞いてきた。
「だってよ、前も変な音したじゃん、悪い奴が近所に住んでたらどーすんだよ」
「想像力働かせすぎだって。あれじゃね、昼間仕事だから夜しかDIYの時間取れないとか。社会人は大変だなー」
「かもしれないけどさぁ」
確証があるわけじゃない。
俺は田所の話に半ば無理やり納得をしてその場は平静なふりをして。
映画を見終わると奴は終電前に帰っていった。
そんなことがあってから。
俺は音の正体が気になって仕方がなくなった。
なんの気なしにお隣の人が怪しいと思って、いない時を見計らって普通よりは広い庭先の利点を使い、隔て板越しに隣を覗いてもみた。
が、あるのは二台ほどの業務用っぽい冷蔵庫くらいで。
さすがカレー屋だけあるな、という感想が得られるだけだった。
ただ、奇妙なことにも気づいた。
ひと月半生活すると、すれ違う住人も固定の時間がたいてい見えてくる。
この人はお昼の仕事なんだなとか、あの人は夜勤っぽいなとか、俺と同じ学生かなとか。
ところが左隣の住人だけは、カレー屋というのになぜかよく朝学校へ通学する時にすれ違うことが多かった。
声をかければ挨拶はきっちりと返ってくる。
生真面目そうだし、別段おかしく思う挙動はない。
なのに。
俺は朝に時たますれ違う曜日が固定なことに気づいてから、あの音と相まって、その隣人への底知れぬ薄気味悪さがどうにも拭えなくなっていた。
そうなってすぐ、なんだか聞かずにはいられなくて。
たった一回だけ音について尋ねてみた。
もちろんお隣だから聞こえませんでしたか? というていで。
「さぁ、知りませんねぇ。何せ夜はVチューバーとして活動しているものですから、ヘッドフォンで遮音されてしまうのですよ」
返事はなんとも味気なく、けれど現実味もないものだった。
相変わらずバイト行って学校行ってサークルで遊んで。
時々田所と遊んで。
そんな五月が過ぎていく。
六月に入って、音のことも日常のちょっとした騒音だったんだろうと結論づけてあったこと自体を忘れかけた、ちょうどその時。
田所が捕まった。
うちの大学の女子が行方不明になって、その子と最後に会っていたんだそうだ。
容疑は否認しているらしく、テレビで見たその行方不明の子は、なんだか俺がどこかで見たような顔をしていた。
そのうちに、左隣の部屋には風呂を修理する必要が出たのかバスタブとリフォーム業者が来たりなんだりした後、引っ越し業者がきて、挨拶の粗品の箱を渡して去っていった。
渡された時ひんやりとしていたその箱は、今も封を開けることができず。
俺の冷蔵庫の奥の方に、ひっそりとたたずんでいる。
『……東京都二十三区内で次々と起こった行方不明事件からはや一ヶ月が――』