同級生リリナの場合
伯爵令嬢のリリナ・レスケールはそのパーティーに出席していた。
とは言っても彼女自身は、第一王子ともその元婚約者であるアルテルノ家の侯爵令嬢ともあまり接点がない。
マストーネ王国に住んでいて、年齢が同じ十七歳であり、同じ貴族学校に通っている。それだけだった。
強いて言うならば、婚約破棄の原因となったメルリ男爵令嬢とは寮の部屋が近く、社交辞令程度の会話を数回かわした事があった…それくらいの縁だ。
伯爵家とは言ってもレスケール家はあまり裕福ではない。
真面目すぎる祖父と少し気弱な父を主とし、地方に少しばかりの領地を持っている程度。王国内で七家ある伯爵位の中では五番目の力、財政面では最下位の七番目といってもいい。
けして貧乏で日々を憂いているわけではないが、とにかく地味で目立つ事を嫌う家風だった。
当のリリナ自身も赤茶で縮れた髪、上向きの鼻に少し焼けた肌のパッとしない容姿である。
--だから、今日は少し特別な日だったのに。
騒動のあったパーティーを振り返り、リリナ下唇をそっと噛む。
久々に新調した菫色ドレス。左手の小指には『婚約中』を意味する銀色の指輪。
その手を引くのは長年、想いを寄せていた一つ年上の幼馴染の子爵令息のヴェルナード・レミット。
婚約後、最初のパーティーだった。
初めて、ヴェリにエスコートをされた。
ドレスだって今までは父や兄の言う事を聞いていたけれど、今回初めて私の意見を通して大好きな色と形に仕上げてもらった。
騒動が起きるまでは親しい友人たちに細やかな祝いの言葉をもらい、また婚約が内内に決まっている友人たちに「正式な発表が待ち遠しいわね」などと言葉をかけあったり、して笑い合っていた。
それがあの瞬間。
「アメリーナ・アルテルノ、お前との婚約を破棄する!」
第一王子の勇ましい声で全てが終わってしまったのだ。
王子と侯爵令嬢の婚約破棄の話は、もう有名だろうからここには記さないでおく。
完璧すぎて冷血とすら言われる侯爵令嬢が愛の前に敗れた話は、いやでもあなたの耳に入るだろう。
ただ侯爵令嬢が会場を去り、王子が側近たちに取り囲まれて、保護者代わりの貴族学校の職員たちや護衛騎士たちが走り回り…なんだか有耶無耶のうちにパーティーは終わってしまった。
「……ヴェリと一緒にダンスがしたかったわ」
リリナはぼんやりとつぶやく。
自分の部屋の机に向かい、書きかけの便箋には季節のあいさつのみ。
婚約者となったヴェルナード……今は愛称のヴェリと呼んでいる、彼に直接送る初めての手紙だ。
それが、パーティーで早々に帰宅することになった謝罪とはなんと虚しい事なのか。
どうしてあの日だったのか。そもそもパーティーなんて場所でこんな事をしでかしたのか。
あの日でなかったとしても、社交の場は「誰かにとって特別な日」になり得る。リリナ以外の誰かがきっと傷ついていただろう。
不敬とは思いながらも部屋にはリリナ一人しかいないので恨言をぽつりぽつりとこぼす。
「殿下は礼服の新調やパーティーを頻繁にされてるから、着飾って誰かにあうという事が特別な日になるなんて気持ち、わからないでしょうね…」
ぽつりと涙が一雫、便箋のインクを小さく滲ませた。
婚約破棄騒動から数日が経過。
被害はそれだけでは済まなかった。
最初は無責任な公開処刑に呆れていた者が、突然「真実の愛」に感化されはじめたのだ。
身分違いで親の決めた婚約者がいる、本来では結ばれない二人の情熱的な愛憎劇は貴族だけでにとどまらず、平民たちの心まで掴んだらしい。
安酒場では吟遊詩人が王子と男爵令嬢の愛を歌い聞かせ、中央劇場では早速、禁断の愛をテーマにした舞台が始まった。
子供向けのお話から絵画のテーマから、大人向けの少々刺激が強い読み物までが「真実の愛」を売り出している。
「え、サイザルさん、婚約破談になったの!?」
「やだ、リリナさんったら古いわね。破談じゃなくって『破棄』よ。は、き!」
そんな流行にに多感な十代の若者が流されていくのは当然の結果だと言えよう。
リリナの周囲では婚約破棄や身分違いの相手との恋愛が流行り始めた。
数月前に伯爵令息と婚約したばかりの友人、サイザル・リオネット男爵令嬢は、先日その関係を白紙に戻した事を嬉しそうに報告してきたのだ。
他にも、平民であるカフェの女性店員を妻にしようとして家族と喧嘩中の同級生や、婚約者がいる身でありながら見目の麗しい使用人と良い仲になりつつある知り合いなど、何だか嫌な噂が周りを飛び交っている。
「リリナさんはどうなのよ? 婚約者ってあのレミット子爵家でしょう?」
「そうだけど…あのって何よ」
「もっと上を目指したいとか…逆にもっと下の者と情熱的な関係になりたくないの?
みんなやってる事よ」
「……絶対に無いわ」
レミット家は文官体質が多く、堅物な家系だ。
ものすごく裕福な訳でもないし、情熱的でもない。容姿は決して悪く無いが飛び抜けた美しさはなく、歌劇のような生き方にはけして恵まれないだろう。
だが、リリナはそんなレミット家が、ヴェリが大好きだった。
ヴェリの父親であるレミット家の当主は、国の財務部に主任として長く勤めているが、家柄ではなくその生真面目さを認められた故の役職だ。
当主以外にも、王国図書館の司書長や、王国魔導士隊の備品管理部門、大手商会の経理、王国法律士など、自らの勤勉さで堅い仕事についた者が多い。
ヴェリ自身は他の家族よりも体が丈夫で運動も好きだったので、昔からレスケール伯爵領の農地見学によく来ていた。
親譲りの真面目さで生産量や天候記録を読み解いて、自ら農地に足を運ぶ。時に、農夫に教わって農具を自ら振るい、改善点を洗い出す……。
そんな姿を、貴族学校が長期休みに入るたびに見てきた。
ヴェリへの想いに、大きく燃え上がるような情熱はない。
けれど、消えることのない灯火が胸の奥にずっとある。
「一時的に燃え上がる炎は、燃え尽きたら惨めよ」
嫌味っぽくリリナがそう言うと、サイザルは大きなため息をついて立ち上がり、使用人に帰宅を告げた。
ろくに見送りもせずに、リリナは使用人たちに「もう、彼女からの誘いは受ける必要ないわ」と告げる。
本来であれば両親へ先に言うべきだが、何かあって取り継がれては厄介だ。
おそらく両親もみんなわかってくれるだろう。
窓から外を眺めると、もう友人ではない彼女を乗せた馬車が去っていくのが見える。
「みんなやってる、かぁ……」
嫌な寒気が、ぞわりと内臓を通り抜けた。
さらに数日後、リリナは得体のしれない胸騒ぎを覚えた。
なんだか使用人がソワソワしている。
学校から帰ると、ヴェリが家にきていたが先ほど帰ったと聞かされる。
リリナの両親や兄も多忙を理由に部屋に籠る日が増えた。
それとなく、リリナを気遣うような奇妙な空気があり家の居心地が悪い。
「明日の予定だけど、王室図書館にいって、帰りは中央のカフェに行くわ」
「リリナお嬢様、レミット様とのお約束では…」
「無くなったのよ。忙しいから来ないって連絡が来たわ」
専属使用人のミーアになんでもない風にそう告げながら胸がズキズキと痛んでいた。
今朝になって、父経由で伝えられた「一刻くらいは時間があるから、お茶くらいしかできないが」の連絡。
直接自分にではない事に苛立ちを覚えながらも「そうであれば、中止で結構です」と返事をした。
以前であれば、ほんの一時顔を見るだけでもいいと思えたが、最近のソワソワとした空気の中ではそんな気分も起きなかった。
「みんなやってる……」
友人だったサイザルの言葉を反芻しながらリリナは俯いた。
休日、図書館で好きな本を読み、帰りにカフェで好きな紅茶を飲む。
付き添いとしてミーアいるが、基本的にはリリナが話しかけなければ彼女は黙っている。
毒見の一口を済ませた彼女にもそのまま紅茶を楽しむよう勧めた。
良い香りに包まれながら胃腸が温まるにつれ、リリナの思考がはっきりとしてくる。
ーーちゃんと話をしよう。家族とも、ヴェリとも。
現実に直面をするのは恐ろしいが、後戻りができないほど悪化してからでは遅い。
そう、決意をし手のひらに力を込めた時、隣の席の話し声が耳に滑り込んだ。
「ついにレミット家が破棄するのね」
「そうらしいよ……レスケールの……が」
「あの古臭い……嫌ねぇ」
「ねえ……貧乏人みたいな……と思ってた……」
途切れ途切れに耳に入る言葉に、全身がこわばった。
聞いてはいけない。盗み聞きなんてはしたない。
そう思っても耳は勝手に単語を拾ってしまう。
話題の中でちらりと聞こえた名前はゴンダルド伯爵家……貴族街の一頭地に店を構える家の名前だった。
「……リリナお嬢様?」
「あ、だ、大丈夫よ」
「いいえ、何か…とにかく店を出ましょう」
ミーアが不安げにリリナの顔を覗き込む。
突然俯いて震え出した事に「非常事態」と判断されたらしい。
手を引いて立ち上がらせるミーナに抗えないまま、リリナは悲しげな目で隣の席を眺めた。
どこの誰かは知らないけれど、そんな話を聞かせた事に半分感謝を、半分恨みを抱きながら。
家に戻ると、すぐに寝巻きを着せられてベッドの中に押し込まれた。
何度リリナが大丈夫だと伝えても、聞いてはもらえない。
リリナ自身、「自分がずっと恋焦がれた婚約者から婚約破棄をされると知ったショックで」など説明できるわけもない。
薄暗い静かな部屋にいると、悪い気持ちばかりがめぐってくる。
たしかにレスケール家はみんな財産も仕事も容姿もパッとしない。
ーーでも、貧乏で明日を憂いてるわけでも、お父様たちが仕事下手なわけでも無いの。お金は必要なところにしっかり使っているわ。
悪意のある指摘にリリナはいつもそう答えている。
実際に節度を守って生活していれば収入は潤沢すぎるほどにある。
貴族であるが故、ある程度の贅沢をする事が義務となっているが、元来、派手な宝飾品や遊びにあまり興味が薄い家なので、他の貴族からは下に見られているのはわかっていた。
「ヴェリも、そう思ってたのかな…」
涙が一粒、頬を伝って枕へと落ちた。
「リリ、具合はどう?」
「ありがとうございます、お母様。なんともないわ」
「そうなの? 無理はしないで頂戴ね」
「は、はい……あのお母様?」
数刻後、部屋を訪れたリリナの母、レスケール夫人は心配そうにリリナの頭や顔を撫で回す。
まるで野菜に傷がないか確かめるように触れた後、頬を両手で包みながら目をじっと見つめる。
「リリナ、あのね。今はあなたにとってとても大切な時期なのよ」
「……何がですか?」
「次の休前日の夜が勝負なのよ」
「お母様、説明が下手です」
「大丈夫、全部お母様たちに任せなさいね」
それだけ言うと、夫人は満足そうにうなずき部屋から出て行ってしまった。
レスケール夫人は、貴族学校時代には首席、その後農業自然学の研究所に勤めた才女だ。今も伯爵夫人として家を取り回す傍らで農地の研究を行なっている。
尊敬できる人ではあるけれど、頭が良すぎて発想が突飛すぎるので家族でも話が通じない事がある。
「でも、大丈夫……か」
リリナは自分の頬に手を当てる。まだ少し母の温もりが残っているようで安心をした。
説明が下手で突拍子もなく、おしゃれに興味がない効率主義だけど家族への愛情は本物である彼女の言葉を繰り返す。
「大丈夫。うん……こっちの方がいいわ」
唇からこぼすなら、信頼のない元友人の言葉より、愛する母の言葉がいい。
そういってリリナは笑った。
次の休前日に何があるのかは知らないが、自分のやるべき事をやろう、と。
家の中は相変わらず妙な空気だが、学校では何も変わらない。
渡り廊下で二度ほどヴェリとすれ違ったが、向こうは何かいいたげに見つめてくるだけだったので、会釈で答えた。
背中で、ヴェリが友人らしき男子生徒に大声で笑われているのが少し気になった。
ミーナはあれから過保護なほどに体を気遣ってくれた。
毎日手脚と顔に念入りなマッサージをされる。
そんな数日を経て、休前日の夕方を迎えた。
学校から帰ると、すぐに三歳上の姉から呼び出される。
理由もなにも聞かされず、風呂に押し込まれ、出たらすぐに着替えと化粧。
「ライナお姉様、あの」
「いいの、リリナ。何も聞かないで」
「いえ、あの、説明が欲しいです」
「いいからいいから。あなたは今夜はただ『はい』って言えばいいの」
「いえ、あの」
「わかった?」
「………。」
「わかったわね?」
「……はい」
大手商店で貴族専用の受付係をしているライナにリリナは大人しく従うしかなかった。
髪を結い上げ、菫色のドレスをまとい、お化粧をしたリリナはライナに手を引かれて応接間に向かう。
ドアを開けて、最初に目に飛び込んだのは正装のヴェリだった。
王子の婚約破棄事件の日と同じ姿。
あの時と同じか、それ以上かに緊張した面持ちの彼が、一歩、二歩とリリナに近づく。
ーーいやだわ。これじゃあの日の再現みたいで。
「リリ、や、リリナ・レスケール嬢」
泳ぐ視線はリリナを見ていない。直視できないという方が正しいかもしれない。
部屋の隅や足元などをぐるぐる見渡しているようだ。
リリナの頭の中に、楽しかった思い出が走馬灯のように駆け抜けていく。
「婚約早々で、申し訳ないがーー」
「いやです!」
「結婚してくだ、えっ」
「えっ」
空気が凍るようだった。
お互い動けないリリナとヴェリ。
家具の横に隠れていたらしい父と兄が、驚いた顔でゆっくりと出てくる。
その手には祝い用の花束が握られていた。
やっと状況を把握したリリナの唇から、言葉が漏れる。
「……婚約破棄じゃないんですか?」
「りっリリはやっぱ僕なんかとは結婚したくないのか!? 」
「いえそんな事ないです! むしろ私の方が全然ダメで…」
地味で癖毛で肌も白くなくて美人じゃないし、面白みもない。
そう言いかけた言葉を被せるように。ヴェリが叫ぶ。
「君は可愛いし勉強熱心で優しくて素敵な女性だよ!婚約期間が短すぎるけど、まだお互い学生だけど、君を他の人に取られたくない!
だから結婚してください!」
リリナの左手を取り、跪いて俯いた顔を覗き込む。
その手は小さく震えている事に気づき、リリナは精一杯微笑んだ。
「はい、よき妻になれるよう、精一杯努力をいたします」
背後でライナが「だから『はい』って言えと言ったのに」と文句を言いながら笑っていた。
その後ろから、母とヴェリの両親が笑い合い、使用人が大きなケーキを運んでいた。
家族でケーキを食べて語らったあと、結婚の書類にサインをし、
部屋の空いたスペースで兄の弦楽器と姉の鍵盤楽器に合わせてヴェリとリリナは踊る。
ダンスパーティーのような豪華な物ではないけれど、その分足運びは軽やかで緊張もない。
「あの時、一緒に踊れなくて残念だったから無理を言って同じ服装にしてもらったんだ」
「あら、私、ヴェリにそう言ったかしら」
「聞いてないよ。でもリリならそう思ってるかなって」
「察しが良いのね」
得意げに笑うヴェリに、リリナはにっこり笑う。
「なら、ここしばらくの間、私がどんな気持ちだったかわかる?」
「ん?」
「会いたいって言っても避けられて、家族もなんだかよそよそしくて…」
「んん!?」
ズン、とヴェリのつま先をリリアの踵が勢いよく踏みつけた。
悲鳴を上げずに耐えるヴェリを見て、リリナははっきりと口角を上げて笑ってみせる。
「サプライズもいいけど、ちゃんと話し合える夫婦になりましょうね」
それを見ていたレミット家とレスケール家の当主は少し青ざめた顔をしていたが、両家の夫人は嬉しそうにゆっくりと頷くのだった。
ヴェリ、ことヴェルナードは、もともと自然が好きな少年だった。
自分の食べている物、着ている服の素材がどうやって作られているのかを知るのが楽しくてしょうがない。それを見学させてくれるレスケール家に多大な恩義を感じていたし、幼い頃から農夫の話を聞いて要望をまとめて、こっそりレスケール当主に伝える役を行うリリナを心から尊敬していた。
「リリとの婚約だって、僕が何度も父さんに願ったんだ。最初はこちらの格が低いから難しいだろうって…父さんは聞いてすらくれなかったけど」
「初耳だわ」
「は、恥ずかしくて……」
「私もずっと、ヴェリみたいな人と農地を守りたいってお父様に言ってたの」
「そうなのか?」
「ええ、でも私も恥ずかしくてあなたに言ってなかったわね」
「こういう話も、ちゃんとしようね」
翌日、結婚書類を正式に提出した。
数日後には無事、受理をされて二人は正式な夫婦となった。
とは言えまだ二人は学生。ヴェリはあと半年で卒業し、その後レスケール家で農業経営を学び、おいおいは自分の領地を統治する予定だが、リリナはまだあと一年間の在学義務がある。
その辺りの取り決めは今後、両家でしっかり話し合う予定だ。
「でもお父様が早く孫が見たいって。お姉様たちに言って欲しいわ」
「僕の父さんも言ってる。兄さんに言って欲しい」
あれから、両家とも家族の話し合いの時間が増えた。
贈り物をするのもお互いの意見を聞く。
サプライズの喜びより、突然よくわからないものを貰う手間の方が悪い、と言われて男性陣はみんな除草剤をまかれた雑草のようになっていたのは、なかなかの見ものだったとリリナは思う。
婚約破棄をされた侯爵令嬢は、改めて王子と男爵令嬢に多額の慰謝料を請求して話題となっている。
そんな流れに乗っかるように、「真実の愛」に浮かれて婚約破棄された人たちも慰謝料の裁判を進めているらしい。
よくよく考えればあたり前のことだ。完璧すぎることで有名な侯爵令嬢が、愛なんて抽象的な物に易々と負ける訳が無い。
慰謝料の他にも、婚約当時に王子のサポートを行っていた事や、国の運営に関して見つけた穴を突いて突いてほじくり返し、今では国の上層部の権力図がアルテルノ侯爵家を除いて丸っと入れ替わっているらしい。
そういえば、とリリナは元友人であるサイザル・リオネットを思い出す。
婚約『破棄』を自慢げに話し、別の誰かと熱愛をしたのは覚えている。
よく考えれば、彼女と知り合ったのは『破棄』となった元婚約者の伯爵家が縁だった。
その伯爵家は鉱山開拓事業を行なっており、レスケール領地の農機具はその鉱石を使っている。
伯爵家から「うちの息子の婚約者がリリナと年が近いから、今後のために」と交流を持たされただけで……『破棄』となった今では彼女と付き合う事にリリナ個人もレスケール家も、何一つ利点がない。
貴族社会は繋がりの世界。一つの縁が切れると他もするりと抜けていく。
「そういえば」
徐にヴェリが呟く。
同じ単語を頭に浮かべていたリリナはドキリとしつつも簡単な相槌を返す。
「前にうちに出入りしてた食品業者で、リオネット商会ってわかるかな」
「い、いいえ。名前だけは知ってるけど」
「ちょっと前に契約を打ち切ってたんだけど、どうもそこの子女が流行にのって『婚約破棄』して、慰謝料や負債で大変な事になってるんだってさ」
「そう……」
「最近は古かったり変な匂いがしたり、質の悪い麦や食材ばかり持ってくるから、商会の方も時間の問題だったと思うけどね。確か僕が農地見学させてもらってた時に何度かご子息と会ったのになぁ……」
勉強が無駄になっちゃったのは可哀想だよね、とヴェリは遠い目をしている。
その横で、リリナは首をかしげる。
ーーレミット家が契約を破棄……レスケールの農地で勉強をした……古くて臭……質の悪い……食材……!?
いつだかカフェで聞いた噂話の途切れ途切れな言葉が、頭の中ではまっていく。
「もしかして、次はゴンダルド伯爵家の…」
「なんで知ってるんだ!?
そう、今はゴンダルド商会経由で食品を仕入れてるんだよ」
無邪気に笑うヴェリに、リリナは背中に冷たい汗を感じた。
あんな噂話を盗み聞きした上に、ろくに聞いてもいないのに勝手な勘違いで信じた。変に突っ走らなくて本当によかった、と。
「ねえ、うちの領地の麦を加工してゴンダルド商会に卸してるのよ」
「知らなかった。 どうりでパンやパスタが絶品なわけだ」
「今度、ゴンダルド家が経営してる料理店に行ってみましょうよ」
「良いね! 使われ方が具体的に見えていた方が農地経営にもつながりそうだ」
「他に家畜の餌として牧場に、工芸品や麦わら帽子なんかの商品も勉強したいわね」
「一緒にやりたい事がいっぱいだね!」
「そうね」
ヴェリの言葉を受けて、リリナの頭の中には一緒に食べたい物、やりたい事、行きたい場所が溢れてくる。
一緒にいろいろ試して、いっぱい話をしよう。
好きな事、嫌いな事、して欲しい事、されたくない事。
くだらない勘違いや思い違いをしないように。
突然相手に怒りをぶつけないように。
一つ前の「戸籍管理マリィオの場合」と順番が前後してしまいました。
本来はこちらの方が先の話だったため婚約指輪の件が先のマリィオ話だと説明不足になっておりました。