戸籍管理マリィオの場合
アルテルノ侯爵令嬢と、第一王子の婚約が破棄された。しばらくは王子の愚かさをみんなが笑っていたはずが、気がつくと周りは口々に「真実の愛」なる言葉を言い出した。
「馬鹿じゃねーの!ばーかばーーか!!」
そう叫びながらマリィオ・ヴァイタリオスは瓶から酒を飲むように、直接着付け薬の入った茶を煽った。
ここは場末の酒場……などではなく、王城の国民の籍を管理する大籍資料室。窓のない大きな部屋にぎっしりと並ぶ本棚。その中身は数十年分の国民の戸籍表だ。
そして部屋の隅に置かれた小さな作業机に突っ伏して、マリィオはまた叫ぶ。
「真実ならなあ、結婚婚約する前に見つけろってんだよ!!」
耐火、耐湿、防音にすぐれた部屋の中で好き勝手に叫び続ける。
たとえ聞こえたところで大半の職員は聞かなかった事にしてくれるのをマリィオはわかっていた。
「俺もう、五日も家帰ってねーよぉ…ベッドで寝てねぇ…」
最後はすすり泣きになりながらそう呟く。
婚約破棄をした王子と男爵令嬢の禁断の恋は「真実の愛」として、貴族平民問わずに「婚約破棄ブーム」を巻き起こしていた。そうなると大変なのは、当人だけではない。
ここ最近、特にその被害を受けているのは婚約や結婚での籍移動や新たな家系の立ち上げに関する書類管理をしているこのマリィオ・ヴァイタリオスだった。
毎日最低十件、多い時は数十件の婚約書類の破棄だとか、新たな婚約書類の受理作業がある。
「私の妹と婚約者が駆け落ちしたので破棄します」なんていう、破棄に必要な書類が揃っていない提出も山ほどある。
ちなみにこの場合、相手が行方不明なので不足書類の請求は叶わず、別途書類を作成したり証明書を発行する必要があり手間が数倍かかる。
平民同士はそこまで大変ではないが、貴族絡みだと、当人同士は破棄を望んでいても家長がそれを許さず、せっかく整えた書類を送り返してきたり、ビリビリに破いてしまったなどと言う事も多い。
書類を送り出すたびに「せめて、そのまま送り返してくれ!丸めたりちぎったりはするな!」と祈る日々だ。
マリィオは、恋をした事がなかった。
一昨年まで、婚約者候補はいたが、もともと仕事場に篭りがちなため、見限られてしまってそのまま今に至る。一応、伯爵家に連なる者だが、家や領地は祖父、父、伯父、兄の四人で取り回して自分がやる事はない。
社交会も嫌いだし、着飾った女の化粧の匂いも苦手だった。
そもそも男の中では背が低い方だし、目は世辞で切長だと言われるがたんに細い吊り目なだけだ。しかも徹夜続きで常に隈があり、視力が悪く顔を顰める癖と、度のきついメガネで一層目が小さく見える。
自分なんか好きになる女はいない。
そして自分も誰も好きにならないだろう。
だから余計に、この仕事で好き勝手にくっつき離れるやつらの気がしれない。
気を紛らわすために酒を煽り、さらに顔つきを厳しくするのだった。
「あ゛ーーーーーダルい」
夕暮れ時の曇り空を見上げ、久々に王城から出たマリィオを誰に言うでもなく独りごちる。
流石に見かねた他の職員が大籍資料室からマリィオを引きずり出して、ロッカーから上着を無理矢理着せて外に放り出したのだ。
「一日、いや、三日は休め。処理は俺らが代わりにやっとくから」
そう、心配そうに力説する同期と部下たちを思い出す。
マリィオは恋心は知らないが、友情や好意は理解している。なので、彼らの気持ちは嬉しくもあり、同時に不安もあった。
正直、俺の仕事量ってあいつら二、三人じゃ回せないだろーなぁ。
暗算と瞬間記憶に異常なほど長けた彼だからこそ、一日数十件の戸籍番号の処理ができたのだ。三日とは言われたが、明日も職場に一応顔を出そう。そう誓いながら帰路をとぼとぼ歩く。馬車や送迎は、とっくの昔に使うのをやめた。いつ帰るかわからないからだ。
ああ、本当に俺、貴族向いてない!
親兄弟のように家令や使用人をうまく使う事もできず、何でも自分でやろうとする。
領地経営や家の繁栄のために好きでもない婚約者との時間をつくる事もできなかった。
それをやろうとする、先見の明はなく、その努力もしてこなかった。ただ、決まり事に書類を作ったり分けたり覚える事だけしか取り柄がない。
虚しさのあまり、足元の小石を蹴り飛ばそうとしたが、思ったよりも疲れていたらしく小石の上を通り抜け宙を蹴り、その勢いで靴が脱げて吹っ飛びバランスを崩して倒れ込んだ。
「貴族どころか、人間も向いてないな…」
ぼんやり見上げた空は雲一つない綺麗な星空だった。
起き上がって眼鏡をかけ直して靴を探さねばとわかっているのに力が入らず、マリィオはゆっくり目を閉じる。
ぴたり。
途端指先に冷たいものが触れた。
雨でも降ったかと目を薄く開けるが、やはり空は綺麗な星が瞬いている。おそるおそる首だけ起こすと、手の横に吹っ飛ばしたはずの靴が落ちていた。
「あ、れ?」
見間違いか。数度まばたきをすると、突然暗闇に2つ、金の穴が開く。
「ヒゥッ!!」
悲鳴に成らぬ声をあげかけてよくよく見ると、それは金色の目ーー。
「あーぅん」
消えそうな声で、その金の目の主は鳴く。
瞳以外全てが真っ黒な体と三角の耳、短い尾を上げてプルプルと振るわせる猫。マリィオは上半身のみ起き上がると金の相貌に顔を近づける。
「……お前が拾ってくれたのか?」
「あぅん」
「そうか、ありがとう」
そう言って靴に手を伸ばすと、小さな前足がペシリとその手を打ち、金の目を輝かせた。
マリィオは、その目つきを知っている。確かこれは、領地で父と兄に連れられ狩をした時にーー。
思いつきで靴を手に取ると、目の前に投げ捨てた。すると猫は尻尾を高く上げながら靴に飛び付き、再び加えてマリィオの手元に落とす。今度は先程より遠くに投げると、また猫は拾いにいく。
「間違いなく、あの猟犬たちと同じだ」
領地にいた二匹の大型犬に三匹の小型犬たちが頭の中を駆け回る。兄が「ウォーミングアップだ」と言い獲物の匂いを付けたぬいぐるみを投げた時、それを加えて兄のもとに持ち帰った時のあいつらにソックリな輝きを放つ目。
「お前、猫らしくないなぁ!」
耐えきれず笑うマリィオに、何が嬉しいのか猫は顔を擦り寄せる。仕草も猫より犬らしい。
「お前、飼い主は?」
「あぅー」
「いないのか。じゃあ俺の家くるか?」
「あーぅ」
意味はわからないが、おそらく合意を得られたのだろう。マリィオは靴を履き直すとその小さな体を抱き上げた。
マリィオが住んでいるのは王城に勤めるものが住まう寮の一室だ。
本来、平民や遠方に住まう地方貴族の中から王城に勤める事になった者達のための小さな宿舎であり、王都に家があり子爵家のマリィオが使うような場所ではないのだが、貴族らしくない彼はこの狭くて職場に近くてほとんどの事を自分でやらねばならないこの住まいが大好きだった。
「いらっしゃい、おちび」
そっと猫を床に下ろすと、不安げに部屋の中を一周したあと、そっとマリィオの足元に腰を下ろす。
小型の氷納庫から酒の肴にするため買っておいた蒸し魚から骨を除き、ほぐして小皿に盛ると、大喜びで食いついた。
大きな汚れや怪我はなさそうだが、耳の中や手足や腹の汚れから野良猫で間違いはなさそうだ。
「……一緒に寝るのは洗ってからだな」
少し残念に思いながら、部屋の隅にクッションと毛布をしいてやる。自分の居場所と分かったらしく小さな黒い体を横たえた。
それから、毛布の横に紙屑を詰めた箱と、少し離れた場所に水の入った小皿を置いて、その日はマリィオも早々に眠りについた。
翌日、マリィオが目を覚ますと昼過ぎだった。
寝ぼけながら部屋の中を見回すと、積んでいた本が一部雪崩をおこして、並べておいたはずの書類は床に散らばっていた。眼鏡をかけてまばたきをすると、書き物用の椅子の脚が小さく毛羽立っている。
「ああ、そうだ。猫拾ったんだ……」
まだ重い頭を奮い立たせて起き上がると、ベッドの下から小さな前足がマリィオの足を叩く。
「お前やってくれたな。いや俺のせいだけどさ」
『しちゃいけない事は最初に説明するか、余計なことをしないよう準備を。特に初心者は何をやらかすかわからないぞ』
自分が初めて部下を持った時に上司から言われた言葉だ。初心者どころか子供よりさらに下の動物には、理屈は通じない。そう考えてマリィオはその小さな体をベッドの下から引き摺り出すと、小さなカバンにおしこむ。自分用のタオルと石鹸を棚から取り、共同のシシャワー室へと向かった。
「とりあえず、一つずつ準備しよーな、おちび」
「あーぅん?」
不安に思っていたシャワーは問題なく終わった。むしろ水浴びが楽しいのか大喜びで横腹に水を浴びたり、シャワーに手を突っ込んで水を舐めていた程だ。そして部屋に戻ると、猫をよく拭き、昨日と同じように蒸し魚をほぐして食わせる。マリィオも香草入りの塩を少し振って食べた。
その後、書類や本を片付けて、勝手にいじらないように本棚にはいらないタオルを切って張り、カバーをかける。机と椅子、ベッドの足にもボロ布を巻き付け爪研ぎ防止とした。これらは寮の備品なので極力綺麗に使いたかった。本棚はマリィオが実家から持ち込んだものなので、気にしない事にした。
部屋の隅で「粗相」をしたので片付け、その匂いをクズ紙につけて昨夜用意した箱に入れ「ここがトイレだぞ」と教えこむ。
四度の失敗を経て、五度目に自ら箱の中で致す姿を見てマリィオは心から歓喜した。
昼過ぎか夕方に職場を見に行く事はすっかり忘れていた。
翌日は店を巡り、きちんと猫用の餌やブラシ、トイレ用の砂や羽飾りのおもちゃを買い込んだ。
餌やブラシは嬉しそうだったが、おもちゃはあまり喜ばなかった。どちらかといえば、マリィオの丸めた靴下を拾う方が楽しいようだった。
そんな風に貰った休み三日間、すべてを猫に費やした。明日からはまた王城の大籍資料室に籠らなくてはならない。
「お前と離れたくないな…ヴェルナンダ」
「アォーン」
その名前を呼ぶとわかっているかのように低い声で鳴く。
なお、王国内で使われている金貨、その型を作った天才鋳金師から名前をとった。さすがに金貨に顔が描かれたお方の名前をつけるのは不敬だと感じた。しかしこの金の目はどの硬貨より財宝よりも価値がある。
マリィオは今まで一度も抱いた事のない熱い気持ちを胸に感じるのだった。
翌日、いやいや王城に出勤をする。
きっと大量の再登録戸籍や申請があるのだろう。もしかすると三日分丸々あるのではーー。
そんな考えで大籍資料室の机を見ると、想像していたものの半分より少し少ない程度の山が目に入った。
「ヴァイタリオス先輩、ちゃんと休めましたか?」
戸籍対応の、主に移住受付をしている後輩が声をかけてきた。
「すみません、昨日の分が残っちゃってて…あと先輩に聞かないとわからないことも多かったんです」
「いや、むしろ思ってたより全然少なくて驚いたよ」
「三日間、カレード先輩が頑張ってましたよ。あ、今日はカレード先輩が休みです。明日は来ますから」
カレードはマリィオの同期で、先日徹夜続き住み込み状態で戸籍処理をしていたマリィオを机から引き剥がし、ロッカーから上着を持ってきた同僚達の中の一人だ。
「カレード先輩が言ってました。こんな量一人に任せてるのはおかしいから、上に人員増加を訴えるって。早ければ来月にはお手伝いの人が来るかもです」
「そう、だといいな」
優しく笑う後輩に、マリィオは苦笑を返す。
人員の補充はずっと前にマリィオが訴えて「でも仕事回ってるからなぁ」と却下されている。今更叶うとは思っていないが、同期や後輩の気持ちは素直に嬉しかった。
それからマリィオはまた戸籍の処理を済ませる。
カレードの手に会えなかった細かい申請書が必要な物が多くあり、正直手間ではあったが予想より量が少なかった事が励みとなりサクサク山を崩していった。そうして、本来であれば就業時間である夕刻の金が六度鳴る時間になった。
減らしたはずの山は再び今日の追加で新しい小山となっている。
せめてコレを片付けないと、明日にはもっと…。うんざりした気持ちで手を伸ばした時、自分の袖口のボタンに黒い毛が巻きついている事に気づいた。
ーーなんだよヴェルナンダ、もう行かないと。甘えん坊め。帰ってきたら靴下投げしような。
朝のそんな些細なやり取りが頭の中にブワッと広がった。
「そうだ俺、帰らないと」
靴下投げもそうだが、ヴェルナンダは食事もトイレも自分が管理せねばならない。こんな所で寝泊まり、いや残業すらしている場所ではない。
ロッカー室に走り、さっさと上着を羽織ると、何か言いたげな上司を無視して王城から飛び出す。外は夕暮れだがまだ明るさがある。こんな時間に帰るのはいつぶりだろう?と考えるとマリィオは少し泣きそうな気持ちになった。
そんな風に時間通りに出勤し、時間になると帰る日を続けると、当然申請書は未処理のものが溜まり出す。怒りを露わにする上司に、カレードと一緒に人員増加を願う。六度目の訴えで、近日中の増員が決まった。ヴェルナンダがトイレを覚えるのよりも遅い、と胸中で舌を出した。
いろいろと順調に動き始めたある日、寮の隣室に住むエドガー・タンクに「お前の部屋から物音がする」と言われる。
「ああ、猫がいる」
「猫?野良か?」
「いや、俺が飼ってる……」
「ここ、動物入れていいのか?俺はてっきり禁止だと」
「えっ」
考えた事がなかった。
禁止と聞いたことはないが、そもそも王城で働く者のための寮に動物を連れ込むやつなどそうそういないだろう。
「え、じゃあ俺追い出されるかな」
「いやぁ、お前じゃなくて猫を、じゃないか? 伯爵様の身内に出て行けとは言えないだろう」
まあ、頑張れよと言い残し、エドガーは去っていく。これから王城の夜間警備だと言っていた。
部屋に戻るとヴェルナンダはここ数日と同じようにマリィオの足元に駆け寄り、嬉しそうに顔を寄せる。まだ半月も経っていないのに、すっかりその姿に慣れてしまった。羽飾りより靴下が好きで、ジャンプは下手で、嬉しいと尾が揺れる犬のような猫のヴェルナンダ。
「ヴェル、一緒に新しい家、探そうか」
離れ離れになるなんて、マリィオにはできなかった。
それからマリィオはヴェルナンダをカバンに入れて貸家の張り紙を見に行った。時間も遅くしまっている店も多いが、日中働く人々のためにこうして張り紙は一日中見ると事ができる。王城近く、動物OKで一人暮らし用という簡単そうな条件。しかし不必要なまでに豪華で家賃が高かったり、逆にボロ過ぎたりとちょうどいい場所がなかなかない。
「アォーン」
「大丈夫だよ、絶対どこか、いい場所があるって」
マリィオの言葉は祈りに近かった。
数件回っても良い条件はなかった。
公園の噴水のふちに腰を下ろす。
「意外と『普通でちょうどいい』ってないんだなぁ、ヴェル」
「ンナーゥ」
あの寮の環境がいかに恵まれていたのか実感しながらマリィオはすっかり暗くなった空を眺めた。もし、ヴェルナンダがいなければ何も気にせずあの『普通でちょうどいい』場所に住める。しかしマリィオにその選択はなかった。
ボロい家でも、大変でも、ヴェルナンダと一緒がいい。
しかしボロ屋は子爵である家族が反対するだろう。遠い場所は、そんな所から通うなら家に戻れ、もしくは従者をつけろと言われるに違いない。
「黙って引っ越して事後承諾……いや、住所移した時点で上司経由でバレるか?」
あれよこれよと考えて、ふとマリィオの頭の片隅に嫌なものが浮かんだ。
「真実の愛で婚約破棄するやつも、こんな気持ちだったのかなぁ」
マリィオは、未だに恋はわからない。
ただ、ずっと一緒にいたい存在は知っている。知ってしまったのだ。そのために家族を説得して、反対されたとしても逃したくない。恋慕ではないが確かな『愛』。
「どうしたんですか」
ふいに声をかけられて慌ててヴェルナンダの入ったカバンを抱きしめる。
「あ、ごめんなさい。あの物取りとかなんかじゃないから、大丈夫ですよ」
そう言う相手は、年頃の女性だった。丸みのある輪郭にむっちりがっしりとした肩周りに小柄な体型。子供向けの赤ちゃん人形のようなくりっとした目付き。
「やっぱり、戸籍のお兄さんだわ。覚えてないかしら、半年前に婚約破棄の相談をしたーー」
「シシー・アラン男爵令嬢、ですよね」
「まあ、覚えていてくださったのね。お久しぶりです」
小さな丸い目を少し細めてシシーは小さく頭を下げた。
半年前、婚約破棄ブーム到来とほぼ同時に婚約破棄をされた一人が、このシシー・アランダだった。
もっと見目の麗しい女がいいだとかなんとか言って、伯爵家の長男が手ひどく彼女を捨てたと聞いた。その時はまだ忙しくなりたてだったので、マリィオも申請に対して今よりずっと丁寧な対応をしていた記憶がある。
「お兄さんが言う通り、私が悪くないって、向こうが先に浮気をしたんだって証明を作ったからウチの悪い噂がほとんど立たなかったわ」
「ああ、そりゃ良かった。でも少しはあったのか……アドバイス不足で申し訳ない」
「ううん、その、噂はお兄さんのせいじゃなくて私や家族のせいだから……ほら私、太っちょだし。うちも男爵っても平民からの成り上がりだから」
「それでも、言われのない噂は嫌だろ」
「あはは、優しいのね。それで、お兄さんは何してたの?」
マリィオは、カバンの中のヴェルナンダを見せて話した。
思いつきで拾った事、寮の規約を考えていなかった事、新しい家を探している事。シシーは、はあーとかんんー?と、令嬢らしくない相槌をうちながら話を聞いてくれた。
「それは、お兄さんダメよね。寮や借家の規約は一番最初に確認しないと」
「あ、ああ……」
「でもそれ以外は良かったわ!猫を飼うのに大切な事しっかりしてるし、部屋の保護もしてるじゃない」
「……ありがとう」
「ンナーゥ」
カバンの中でヴェルナンダも返事をする。
「ねえ、この子名前は?」
「えっとヴェルナンダ……」
「ヴェルナンダ?もしかしてアーロン・ヴェルナンダ?」
「そう、鋳金師の……目が金貨みたいだから」
「センス良いわね!私だったらロードベルドにしちゃう」
「それは、……不敬だと思うぞ」
自然な口調に戻っている自分に気づき、マリィオは表情を崩した。自然に話して、ヴェルナンダの名前の由来も伝わって気負いのない相手。
「ねえ、良ければこの子ウチで預かろうか?お兄さんが新しい家見つかるまで」
しかも魅力的な提案まで飛び出した。
「ウチは領地の狩猟と畜産で爵位貰ったくらいだし、家にも犬も馬もいるし今更、猫一匹増えても大丈夫よ。他の動物や人に慣れない子のための隔離部屋もあるから」
「いや、でも……ほぼ初対面の男爵家にそんな迷惑」
「大丈夫!迷惑なんかじゃないわ」
シシーは元気よく笑って言い切った。
「婚約破棄に比べたら」
その後、シシーを家に送り届けた。
犬の餌の発注書を商会に届けた帰りだったらしい。自分に付き合い遅くなった詫びを告げ、名前と家名を名乗ると、シシーとアラン男爵は口を開けて固まる事数秒。伯爵家の御子息に無礼な事をと謝る事数分。
勤務中は気兼ねなく相談ができるよう家名や爵位は隠しているし、夜会などにもろくに参加しない自分を知るわけがないと、マリィオの方が謝罪し、謝罪合戦になること十数分がかかった。
とりあえず本日はヴェルナンダは連れ帰った。明日の朝、出勤前にトイレと餌を持ってアラン男爵家のお世話になる。
最後の夜は一緒のベッドで寝た。寝付くまでずっと顔を舐められ少々痛かったが、それも嬉しかった。
翌朝、アラン男爵家にヴェルナンダを送り届け、早めに王城に向かい、寮の管理者へコンタクトを取った。
動物を連れ込んでいた事を謝罪し、引き続きの飼育を希望するため、転居先を探している旨を説明した。しかし管理担当者はあくまで備品や清掃、設備の管理しかしておらず、規約や罰則はよくわからないと言う。
管理担当者から寮の土地の持ち主に連絡を取り、後日の面会を約束した。
帰りにアラン男爵家に行き、ヴェルナンダとシシーに合った。ついでに犬も見せてもらい、顔中舐められた。
「動物、別にダメじゃないわよ?」
後日、寮の土地のを管理するメルセダン侯爵家へお詫びに伺ったマリィオは、責任者である侯爵夫人からそう言われたのだ。
昔は鷹遣いや猟犬・番犬遣いなどの動物を伴って登城を願われた者も多くいたらしい。
「馬や牛……あと大きすぎたり獰猛な動物はダメですが、普通の猫であれば構いませんよ。ただ申請書を別に出して、退去時には別途補修費用を頂く場合がございますが…」
「構いません!ありがとうございます」
その言葉に、マリィオは涙を流し感謝を示し、逆に夫人を困らせたほどだった。
なお、この時マリィオは気づかなかった。「普通の猫」という部分。過去に外国に住む大型の猫と言い張って虎を飼育しようとした者が、女性寮にいた。
当時は夫人の母…前侯爵夫人が管理者だった頃の話である。夫人にとっては貴族学校からの友人で、風変わりだけど楽しい女性ーー。懐かしさを胸にそっと抱き、マリィオの帰った後に夫人は久々に『彼女』が好きだった辛口の赤ワインを嗜むのだが、それはまた別の話。
マリィオは管理者に申請書を貰い、すぐに提出した。
なお申請書自体が存在しなかったのでマリィオが一般の賃貸契約を参考に一から作り直した。
そしてきちんと書類が受理された当日、アラン男爵家にヴェルナンダを迎えに行ったーーのだが、ヴェルナンダはすっかりシシーに懐いてしまい、寮に帰るのを嫌がったのだ。仕方なくマリィオが一人で帰ろうとすると、それも嫌がった。
困るマリィオに、シシーが冗談で
「マリィオ様もうちの子になっちゃえば?」
と言った。
固まるアラン男爵に、卒倒しかけるアラン男爵夫人をよそに、ヴェルナンダはとてもとても嬉しそうに
「アゥン!」
と鳴いた。
それから、婚約破棄ブームは去った。
今度は婚約破棄への慰謝料ブームがきているらしい。裁判官が大忙しだと聞いたが、これもすぐに収まるだろうとマリィオは思っている。
『真実の愛』に目覚めた人々は、裁判や慰謝料請求をされて冷静になる者、その後の貧困により破局をする者、全てを捨てて得た愛を今でも育む者とさまざまだ。肯定する気は起きないが、せっかく手に入れた『愛』なんだから、責任持って貫いて欲しいと思う。
「だって、またみんなが別れたらマリィオの仕事が増えちゃうもんね」
そう笑うシシーの左手の小指には『婚約中』を意味する銀の指輪が光っている。近々、これを結婚指輪に買い換えなければならない。短すぎる婚約期間にヴァイタリオス家では多少不安視はされたがマリィオとシシーの仲睦まじい様子に今は純粋に祝福をしてくれている。
ヴェルナンダは今日もシシーの膝に乗り、前足を伸ばして隣に座るマリィオの腿を揉んでいる。
初めて知った『真実の愛』は膝の上。それが呼び寄せた『愛』は今、隣に座り、その腹の中には、新たな『愛』の命が芽吹いていると聞かされたのが今日の話……。
全く馬鹿にできないもんだとマリィオは思う。ただ、一つ。新たな『愛』がこの世に生を受け、それなりの年頃になった時にきちんと教え込まなければいけない。
「何事も、順番は守れ」と。
アラン男爵に殴られた頬を撫でてマリィオは笑った。