教師シルヴァリタの場合
「アメリアーナ・アルテルノ、お前との婚約を破棄する!」
「は?何を言ってるんですか???」
王子の声高らかな宣言を聞いて、シルヴァリタ・エッダ・メフィオライトは声を震わせた。
まだ幼さの残る目を見開き、壇上でのやり取りをどこか絵空事のように眺めて、彼女はもう一度呟く。
「何言ってるんですか…」
静まりかえっているはずのダンスホール、掠れた彼女の言葉が耳に入った者はいなかったようだ。
シルヴァリタ・エッダ・メフィオライトはメフィオライト侯爵家の四女だ。
三人の姉の他、兄が四人、弟が一人と大兄弟の下から二番目。高位騎士や運動競技の選手を多く輩出するメフィオライト家の中では珍しい、小柄で勉強好きで気弱な娘。家族とは全く違う毛色でありながら、その頭の良さと根気強い性格と優しい面立ちから学生時代より高位貴族の子女向けに家庭教師を務めていた。
シルヴァリタが二十一歳、貴族学校を卒業して一年後、たまたま過去に家庭教師を務めた子女たちが大変優秀な成績を収めたため、二十二歳にして貴族学校の教師の地位を得た。得てしまったのだ。望んでもいないのに。
もともと得意としていたのは一対一、もしくは兄弟などの少人数をまとめて見る家庭教師であり、何十人もいる学校教師など目指してはいなかった。しかし王家からの指名となれば断ることはできない。手探りで補佐官を一年、副担任を一年勤め上げ、クラスの担任教師となったのが今年の事。
初めて担任として受け持つ生徒たちに必死で立ち回り、ついに本日は学年最後の大イベント「進級前パーティー」だった。
そんな晴れの日、教え子の一人であり、この国の第一王子がやらかしたのだ。
婚約破棄を突きつけられたアルテルノ嬢、原因となったメルリ嬢も、シルヴァリタの受け持ちクラスの生徒である。
混乱の渦の中、シルヴァリタは遠い目をする。
今は大変だ。明日は、事情説明や何やらでもっと大変だ。
「でも……」
赤い紅を引いた唇が力なく動く。
ーーその後に、もっともっと、めんどくさい事になりそうだわ。
婚約破棄事件から一月が過ぎた日。
「メフィオライト先生!先生はいますか!!」
扉を激しく叩く音と、叫びに近い呼び声に、学年最後の終業日の職員室は騒然となった。
返事を待たず飛び込んできたのは、声の通り、マストーネ王国第一王子、エドワルド・ヴィラ・セーヌ・マストーネだった。
他の職員や生徒たちの視線も気にせず、机に向かうシルヴァリタへと大股歩きで進み、手に持っていた紙を叩きつけた。
「これはどういう事ですか、先生!」
なるべく感情を抑えながらシルヴァリタはチラと視線を落とす。そこに書かれたのはエドワルド王子のこの1年間の成績だ。
貴族学校では、前期と後期のそれぞれ一度ずつ、必修基礎教養と基礎体育、選択科目数種類、同好会や学校内組合での活動、大会などの行事貢献度、生活態度、校外活動や社会貢献をそれぞれ評価し、学年最後にはその総合点数が書かれる形式となっている。
そしてエドワルド王子の結果は前期は五十点中、四十九点だったものが、後期はたったの十点しか加算されていなかった。
「どうしてですか!確かに私はこの前のパーティーでトラブルを起こしましたが日頃の授業はきちんと出ていたはずです」
「そうですね。ですが、これが担任としての評価です」
「何を…まさか、アメリか!?あいつが先生に何か指示を…」
「アルテルノ嬢は関係ありませんよ、マストーネ様」
シルヴァリタはわざと「様」を強調して告げる。
「聞きたいのであればご説明しましょう。今期、あなたの点数内訳がこちらにあります」
そう言って机の中から成績の詳細が書かれた紙の束を取り出して並べる。
本来であれば生徒には公開ないものだが、今見せずしてどうするのかとシルヴァリタは考えた。
必修基礎教養、基礎体育、選択科目数の項目は前期と後期ともに優秀だった。
しかし、学校内組合での活動評価は後期で半分ほどに、行事貢献度と生活態度はゼロの横に赤字が入っている。
社会貢献は前期後期ともにゼロだった。
眉間に皺をよせるエドワルド王子に、シルヴァリタは一つ一つ説明をする。
「教養、体育、選択科目は説明不用ですね」
「ああ」
「組合に関しまして、マストーネ様はこの夏から生徒会の活動が滞っており、代わりにアルテルノ嬢が書類整理や生徒への聞き取りを行なっていたので、半減しました。また行事と生活態度も、理由はお分かりですね?」
「うっ……」
わかっていても言葉にはできないだろう。メルリ男爵令嬢にうつつを抜かしていたのは教師陣もみんな把握済みだ。
「し、しかし!勉強の項目の評価が十しかないのはおかしいだろ!」
「行事と生活の横の赤字は読めますか?」
「……二十と書いてあるが」
「マイナス二十、の意味です。こちらをご覧なさい」
評価書類の裏側、さらに文字が続く。そこには、テスト、授業態度、取り組み意欲などさらに細かい評価ポイントとその結果が示されていた。
行事欄と生活欄に書かれた物は
【パートナーエスコート -5】
【対人対応 -5】
【貴族間交友 -5】
【風紀 -5】
「本当はもっとマイナスにしたかったのですよ?」
ここにきてシルヴァリタは表情を崩す。感情を表にださない貴族女性の顔から、呆れと侮蔑を孕んだ一人の人間の顔へ。
「マストーネ様。学校のパートナーエスコートのルールをご存知ですよね?」
「……」
「予め書類にパートナーの名前を記し提出をする。緊急時以外は必ずその相手をエスコートする、される状態で行事に挑む。この意味が分かりますか?」
「婚約者だからだろう……だが、私は彼女より愛する者を…」
「違います。あなたがアルテルノ嬢を放置して、その間に彼女が誘拐をされたり、他人に害されたら?その責任はあなたに降りかかるのですよ」
「っ!?」
実際にあった話だ。
とある伯爵令息が、突然エスコート予定の子爵令嬢を放置して別の女性を連れて会場入りをした。待ち合わせに来ない令息を待ち続けた子爵令嬢は人攫いに捕まってしまう。
子爵家は娘は伯爵令息といるだろうと探さず、伯爵令息は令嬢は帰ったのだろうと無視をして事件の発覚が遅れてしまった。
子爵家と伯爵家による責任追求と苛烈な諍いは、領地同士の戦争となり他の貴族家だけでなく他国も巻き込んだ大騒動となった。
そんな事がないように、心変わりが激しい学生時代こそきちんと「感情論でなく、予め決めた者と行事をこなす」事を勉強の一環にしている。そう説明をしたはずだった。
「授業を聞いてなかったんですね」
「……」
「マストーネ様、あれは……あのパーティーは学校の行事なんです。あなた専用のお誕生日会でも、婚約パーティーでもなく、みんなのお祝いの席なのです。あなたは自分の欲望のためにアルテルノ嬢を危険に晒し、みんなの行事を壊したのですよ」
だから、対人も交友も風紀もマイナスになったのだ。
もっとも風紀は、日頃学校の中で人目も憚らず婚約者ですらない男爵令嬢とイチャイチャしていた時点でゼロは確定だったが。
ちなみに社会貢献は、実家の領地経営や卒業後の仕事の準備をしている生徒で、同好会か学校内組合活動ができない者のための項目なので、生徒会に所属している王子には基本無関係だ。
ーー私は、家庭教師の仕事をしていたからこの項目が一番高かったっけ……。
そんな事をしんみりと思い出しながらシルヴァリタは少し懐かしい気持ちになった。
「マストーネ様」
シルヴァリタはもう一度、様を強調しながらエドワルド王子を呼ぶ。
この学校内では貴族の爵位は関係なく、男は「様」、女は「嬢」か「様」のどちらかで呼ばれる事になっている。しかし、エドワルド王子のみは普段、生徒や教師から「王子」と呼ばれて過ごしていた。
それは、特別扱いだ。
シルヴァリタはなるべく感情を抑えて胸の中で反芻する。
ーー私は、私たちは、平等などと言いながらこの人を特別扱いしてしまった。だからあんな事になったのだろう。手遅れになる前に向き合わねばならない。
「私は、教師としてあなたの指導を間違えました」
「な、何を」
「たとえ他の教師たちや周りがあなたを王子だと讃えようとも、この学校にいるうちは私はそうはしません。不敬と言われてもです」
だって、私は「先生」だから。
しばらく無言で睨み合った後、エドワルド王子のは静かに頭を下げた。
「メフィオライト先生、この度の無礼な訪問をお詫びします。少し、頭を冷やしてきます」
そう言って静かに職員室から出て行った。
エドワルド王子が退室した後、職員室内は大いに沸いた。
家庭教師上がりで勤続二年の小娘、脳筋貴族の毛色違い、影でそんな評価をされていたシルヴァリタはこの日以降他の職員だけでなく、生徒、果てはその保護者から熱い熱い信頼を寄せられる事になる。
「もしあなたが不敬なんて言われたなら、私たち全員、マストーネ様に同じ態度をとりましょう。そして不敬罪にしてもらって貴族学校の先生ゼロにすればいい」
そんな笑えない冗談まで校長から飛び出す始末だった。
その後、兄に代わり第二王子が即位をして、アメリアーナ・アルテルノを王妃に迎えるのが数年後。
そのアメリアーナの子供たちの専属教師にシルヴァリタを指名するのは、さらに十数年後のお話。