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第29話「カナス村②」〜目覚める少年〜


「大丈夫!?どこか痛むところはない……!?」


ハッと目覚めた少年は、まだ自分が捕虜として拘束されていると思ったのか、動物のように素早く四つ這いの体勢になってこちらを睨み付けた。


「う〜〜っ!!」

威嚇の様子も野生動物のようで、ピリピリとした殺気に、全身が痺れるような感覚が走った。


「私はあなたの敵ではないわ。あなたを連れてきた人はもういないから安心して」


「う〜〜!!!」


私の声が聞こえているのかいないのか、尚もその少年は声を張り上げた。


「お腹空いたでしょ?スープがあるけど食べる?」


私は彼がこれ以上怯えないよう、穏やかな笑みを浮かべてスープを持って近寄った。


「!!!」


彼は近付いてきた私に、より一層警戒を露わにしたので、立ち止まってスープの中身が見えるように器を差し出した。

次の瞬間、彼がその器を勢いよく跳ね除けたので、スープが宙を舞った。


「あぅ…っ!」


咄嗟に反応したものの、本当は飲みたかったのか、少年は声を漏らしながら地面に落ちた器を残念そうに見つめた。



「突然でびっくりしたわよね、驚かせちゃってごめんなさい。もう一回よそるわね」


彼からは不安と恐怖の気持ちが色濃く見え、それが全身にまとわりついて彼を苦しめているように見えた。


私は再びスープをよそうと、今度は彼から少し離れた所に器を置いた。


「お腹空いたでしょう?よかったら食べてね」

そう笑いかけると、その場から離れた。


少年がしばらくこちらを警戒していたようだったので、私はフェリシアの所へ戻り、彼に背を向けて腰掛けた。


彼が警戒しながらもジリジリとスープに近付く様子が気配で感じられた。




「……あの少年は私より先にあの馬車に乗せられていたんです。どこから来たかは分かりませんが、全身のあざを見るに、捕まる前からどこかで使役されていたのでしょうね……」

フェリシアが彼に聞こえないように声をひそめて話した。


「………」


異常なほど痩せ細った身体に多数の打撲跡がついていたのを思い出して胸が痛んだ……



「あの子に、今の私ができることは何かしら……」









「うぅ〜〜!」


しばらくして、再び少年の声がしたので振り返ると、器を持ったままこちらを向いて立っていた。

その視線は鍋に向いていた。

鍋の中身をすべて寄越せと言わんばかりに、低い声で威嚇しながら器を振り上げた。



「もっと食べたいの……?」


すぐさまスープを別の器によそって振り返ると、風のような速さで近付いてきた少年に腕から器を奪われた。


「痛っ!」

彼が器を奪う際に、思い切り手を引っかかれてしまった。


手首から指先にかけて赤い血がにじんだ。

「大丈夫ですか!クリスティア様!」

フェリシアが心配そうに、私の手に触れる。


「ええ、大丈夫よ。ありがとう」

私は手の甲を押さえながら微笑んだ。

手は痛いが、それよりも彼の人並外れた身体能力に感心してしまった。


(ちゃんとした訓練を受けられれば、きっと素晴らしい騎士になるに違いない……)

私は不意にアレクシオスの顔が思い浮かんだ。


(彼に教われば、騎士としての道が開けるんじゃないかしら……)

彼の軍事力への入れ込みようは相当なものだったから、実力や見込みがある者にはそれなりの待遇を用意してくれそうだ。


(……でも“残虐な王”なんて呼ばれる彼に対面させたら、あの子はもっと混乱してしまうわよね……)


私は一人苦笑した。

兎にも角にも、今は目の前の少年の心と身体を癒してあげることが先決だ。

私は目の前で夢中にスープをかき込む彼を見つめた。



「目覚めたら知らない場所に連れて来られていたんですもの……怖くて当然よね……」




少年は二杯目のスープをあっという間にたいらげると、再び鍋に視線を向けた。


どうやら相当お腹が空いているらしい。



「……分かったわ、もうこの鍋ごとあげる!」


本当は明日食べるために、倍の量を作っていたのだが……


「あぁ……」

フェリシアもまだ食べたかったのか、私が鍋を持ち上げる時に微かに残念そうな声を漏らした。


「フェリシアには,後でとっておきの干し肉を分けてあげるわね」


「え、干し肉ですか……!?」

穏やかそうな瞳の奥がきらめいた。


(干し肉…好きなのかしら……?)



我がルーマ国では、平民にとって干し肉はそれほど魅力的なものではない。

ほとんどが各領地で多発する害鳥駆除の目的を兼ねて作られているためだ。

その鳥は、あまり食用には適さず、独特の強い臭みがあった。


一方で、ワイルドボアや飼育された牛や鳥などから作られた干し肉は、主に旅人の携帯食として食されているが、高価なため一般的な平民がお目にかかる機会はそうない。

貴族の中では、領地が遠方にあり、長期間の移動が必要な者達が稀に食すくらいであった。


「ふふふ……!」


嬉しそうに口元に手を当てて微笑むフェリシアの所作は優雅で、平民のそれとは異なっていた。


おそらく彼女はどこかの令嬢だったのではないだろうか……?

だとすれば、今頃とても心配されているはずだ……




「はい、どうぞ」


少年の目の前に鍋を置くと、弾かれたように鍋に飛び付き、もの凄い勢いでスープを食べ始めた。



「ふふ…よかったわ」

私は安堵した後、フェリシアに干し肉を手渡して隣に座った。




「二人の怪我が治ったら、これからのことを相談しましょう」


「そうですね」



「……よかったら、あなたのことを少し教えてもらっても良いかしら?もちろん、話したくなければ話さなくていいけれど」


「私ですか……?」




フェリシアはしばらく焚き火を見つめてから答えた。


「……クリスティア様にはお話し致します。私の家はベルタ国との国境付近にありましたが、今回の戦争で両親や周りの者はすべて殺され、家も住んでいた所もすべて燃やされました。なので、もう帰る場所がないのです……」


「!!」


「……そうだったの……」


今どこかで投獄されている自分の両親が脳裏に浮かび、自分のことのように胸が締め付けられた。


今まで当たり前のようにあった存在が一瞬にしていなくなるなんて、どんなに辛い経験だったことだろう……

私はフェリシアの背中に手を回し、労うようになでた。


「それはさぞかし辛かったでしょうね……」


「……そんな…こと…………」


フェリシアは肩を震わせながらも必死に平静を保とうとしたので、私はそっと彼女を抱きしめた。


「……うっ……!」

彼女は強がる心が緩むように堪えきれず嗚咽した。


その声は次第に大きくなり、これまで抑えてきた感情を吐き出すかのように、私にしがみつき、最後には声を上げてわんわんと泣いた。

穏やかな笑顔の裏に隠していたフェリシアの本当の姿だった。


捕虜として捉えられた恐怖と両親を失った悲しみを同時に経験しなければならなかった彼女の心の痛みを思うと、私も自然と涙が溢れてきた……


私はしばらくフェリシアを抱きしめ、彼女が泣き止むまで背中をさすっていた。


その様子を少年が黙って見つめていた。





◇◇◇




「お見苦しいお姿をお見せしてすみませんでした……」

フェリシアは、ばつが悪そうに俯いた。


「そんなことないわ。泣くことで気持ちが楽になることもあるから」

私はウドゥフの森での自分を思い出しながら、フェリシアに笑いかけた。


「ありがとうございます……」

フェリシアも赤い目元をほころばせた。



カラン……


鍋を置く音に振り返ると、空になった鍋が目に入った。

なんと、少年は鍋のスープを全て食べ切ってしまったようだった。


大人四人前くらいはあったはずだが、それをすべて平らげるとは、なんて食欲だ……

当の本人はというと、とても苦しそうで今にも吐いてしまいそうだ。


毎日食事を与えられていなかったのか、まるでいま食べないと、次いつ食べられるか分からないとでも言いたげな様子に見えた。




「う…っ!!」


突然少年が唸りながらうずくまった。


「大丈夫…!?」

私の気配に反応して、咄嗟に飛び退いた彼は、その痛みに顔を歪めて膝をついた。


お腹が満たされて、怪我した箇所が痛み出してきたのだろうか……?


「どこか痛むのね……私のことが信用できないかもしれないけど、今日はあのテントで休んだ方がいいわ……」


そう声をかけてはみたものの、やはりそれはまだ難しいようで、少年は足を引きずりながら森の中へと消えて行った。



「あの少年を行かせてしまって良いのですか!?」


「ここで安心して眠れないのならしょうがないわ。あの怪我じゃそう遠くへは行けないでしょうし、ここには危険な動物もいないみたいだから、また明日の朝探しにいきましょう」


「……分かりました」

フェリシアは怪我をしている少年が心配ではあったが、ひとまずクリスティアの提案に従うことにした。

自分一人だったら慌てて探しに行って、余計状況が悪化していたかもしれないと思った。


しかしクリスティアは、自分が心配だからという理由で彼の行動を縛ることはせず、少年の意思を尊重し、彼の生命力を信頼した。


フェリシアは、自分とそれほど年も変わらなそうな彼女を見た。

異国の服を身にまとい、旅人のような暮らしをしているが、話し方や身のこなしは高位貴族そのものだった。

(このような生活をしているのには、何か事情があるのかしら……)



「……失礼ですが、クリスティア様は高貴なご身分のお方とお見受け致します。どのような経緯でこちらにいらっしゃったのでしょうか……?」

思わず尋ねてしまった。


「え、私……?」


クリスティアは目を見開き、やがて肩を落として表情を暗くした。



「私はね……この国の罪人なの……」




「え……っ!?」

フェリシアは言葉を詰まらせた。



「今まで黙っていてごめんなさい……」


驚きを隠せないフェリシアに、私はこれまでのいきさつを全て話した。


婚約者であったミハイル王子がイザベラと出会い、ある日突然婚約破棄をされたこと、両親が爵位を剥奪されて投獄されたこと、新聞であらぬ記事を書かれていること、両親を探し出そうとした罰として聖女の代わりに村を回ることになったことなど……





◇◇◇




「ーーそういうわけで、このソルタ領のカナス村が最後の巡回場所だったのだけれど、今回も住民の皆さんに話を聞いてもらうことは難しくて……」


「………」


「私は聖女どころか、あなた達の寝床すら満足に用意できない無能者なの……」


「私みたいな頼りない者に拾われてしまって迷惑だったわよね……ごめんなさい……」

クリスティアが項垂れるように頭を下げた。


「いいえ、クリスティア様は全く悪くないですわ。そんなの明らかにミハイル王子という馬鹿者のせいではないですか。イザベラとかいう平民の女を好きになったからクリスティア様が邪魔になってしまっただけでしょう?しかも何の罪もない相手の親を投獄して恋人の親に公爵領を譲るですって……!?ルーマ国王は何も仰らなかったのかしら!?だとしたらこの国の王族は揃いも揃ってみんな頭が悪いのですわね、ふふふ……」


「ちょ、ちょっとフェリシア……!」

穏やかな笑顔のまま、口からとんでもない言葉が流れ出てきたので、思わず心臓が凍りついた。



「分かってます。私も時と場所はわきまえてるつもりです。でも、私は彼らの仕打ちが許せません……」

フェリシアは自分のことのように悔しがってくれた。

それがすごく嬉しかった。


「私のために怒ってくれてありがとう、フェリシア……でも今のは私からの偏った話だから、是非いろいろな人の話を聞いた上で判断してちょうだいね」


(その時には、きっと今とは違う感想をもつかもしれないから……)

私は悲しく笑った。



「いいえ!私はいま目の前にいるクリスティア様を拝見した上で、あなたが信頼に値するお方だと確信しています!誰が何と言おうと、私にとってクリスティア様が本物の聖女様です!」


「ありがとう、フェリシア……」

クリスティアは何とも言えず、あいまいに笑うことしかできなかった。




◇◇◇




ーーーその頃、コンタンディオス大帝国にて。




コンコン


「………」


「失礼します、陛下」


無言は肯定の合図とばかりに、アレクシオスの許可なく執務室の扉を開けるローラン。


自分以外の時の来客には返事をしているので、どうやら自分の時はあえて返事を省略しているようだ。

ドアの外から相手を察知する能力はさすがである。



アレクシオスは相変わらず執務机の前で、手早く書類を処理している。もはやすっかり見慣れた光景となった。



「南東部も工事の着手が始まりました。冬前にはおおよそすべての整備が終わると思います」

そう言って彼の目の前に書類を置いた。


彼は気に留める様子もなく、尚も忙しなくペンを動かしていた。


「それからクリスティア様のことなのですが……」

その言葉に、アレクシオスの手がぴたりと止まるのが見えた。

そして美しいルビーレッドの瞳でこちらを睨み付けるように見上げた。



「先程届いた情報によれば、異国の平民の格好をしたクリスティア様が弓を担いで次の派遣先に移動したそうです」



「は……?」


アレクシオスは何の話だとばかりに、彫刻のように整った顔を僅かに顰めた。



「陛下が差し上げた赤色のドレスはイザベラ様に奪われてしまいましたし、さすがにメイドの服で巡回先を回る訳にはいかなかったのでしょう……」


「ふん……」

自分には関係ないとばかりに、再び書類に顔を落とすアレクシオス。


「これからの季節に向けて、袖付きのドレスやケープなどを贈られてはどうでしょうか?」


「……あいつはそんなもの望んでないだろう。自ら望んで平民になったのだからな」


「そうですか……」


「でしたら、私が個人的にクリスティア様に贈り物をすることをお許し頂けますでしょうか?」



「………」


アレクシオスが見上げると、護衛騎士のローランは朗らかな笑みを浮かべていた。



「……ちっ」


彼の思惑を察したアレクシオスは苦々しい顔で舌打ちをした。






◇◇◇




翌朝、フェリシアが目を覚ますと、隣で眠っていたはずのクリスティアがいなかった。


「痛…っ!」


いつものように身体を起こそうとして、腕に激痛が走った。


(そうだ……両腕が折れてしまったんだわ……)


こんな非常時に大怪我をするなんて、とんだ失態だ……


苦々しい気持ちで顔を歪めるも、次の瞬間、香ばしい肉の香りに思考を奪われる。


テントから出ると、焚き火の前でクリスティアが朝食を作っていた。

フライパンで干し肉ときのこが炒められ、隣の鍋ではこれまた大量のスープが煮込まれていた。

どちらも食欲を誘ういい匂いで、吸い寄せられるように近付いて行った。




「はい、フェリシア!」


「まぁ……!」


目の前に並べられた食事に、思わず感嘆の声が漏れる。

自分が今まで食べてきた食事とは比べ物にならないほど質素なものであったが、今までのどんなご馳走よりも心が跳ね踊り、身体中がそれを強烈に求めるのを感じた。


「パンは道中で食べてしまってないから、代わりにスープにたくさん野菜を入れたわ」


「ありがとうございます!とても嬉しいです……!」

フェリシアは気が急いで、いす代わりの太い木の幹を大股でまたいで腰かけた。


(こんなみっともない振る舞いを見たら、きっとお母様はまた発狂してしまうわね……)

亡き母の姿を思い出して苦笑する。


そして両親の最期の姿を思い出し、胸が苦しくなった。


(お父様、お母様……私はこれからどうすればいいのでしょうか……?)


涙を滲ませながら天を仰いだ。



「…………」

不意に彼女が私の背中に触れ、優しく撫でてくれた。


それはとても心地がよく、陽の光に包まれているかのように温かで、綺麗な清流のごとく私の心の不安を洗い流してくれた。


(本当に不思議なお力……やはりこのお方が、他国に存在しているという聖女様で間違いないわ……)


私の中で、推測が確信へと変わった瞬間だった。



◇◇◇




「少し冷ましておいたから、熱くはないと思うけど、どうかしら?」

私の心が落ち着いてきたのを見計らって、両腕が使えない私のために、彼女がスプーンを口に運んでくれた。



「美味しい……です……」

温かいスープが身体中を巡り、私の心までも優しく癒してくれた。


「昨日は少しも寝られたかしら?急いで手に入れたテントだから狭くて居心地は悪かったと思うけれど……」


「いいえ。あの馬車とは比べようもないくらい快適でよく眠れましたわ」

私は微笑んで返した。


「そう、それならよかったわ」

彼女は美しいサファイアブルーの瞳を細めて微笑んだ。


実は昨日、夜中に一度だけ飛び起きたフェリシアだったが、目の前で安らかに眠るクリスティアの姿を見ただけで、なぜだかとても心が安らぎ、その後は深い眠りにつくことができたのだった。




心もお腹も満たされた頃、彼女は不意に立ち上がり、スープをよそったお椀を持って森の茂みにお椀を置いた。



「あの子もそろそろ我慢の限界みたいだからね」


その言葉とほぼ同時に、茂みでスープを一気に飲み込む音が聞こえた。


「ほら」

彼女はクスリと笑った。


金髪からベビーピンクにグラデーションした美しい髪を風になびかせた彼女は、まるで天から舞い降りた女神のようだった。

フェリシアは一瞬その姿に見惚れて言葉を失った。






しばらくして空になった器を持った少年が茂みから姿を現すと、クリスティアはすぐに別の器にスープをよそって差し出した。


「まだまだ沢山あるから、ゆっくり食べるといいわ」



「うぅっ!!!」


少年はクリスティアに走り寄り、昨日同様、持っている器を奪い取り、茂みへ走り去った。


「ちょっとあなた……!」


いろいろと気にかけて世話を焼いてくれる彼女に対して、恩を仇で返すような無礼ぶりに、同郷ながら思わず腹が立ってしまう。


しかし、クリスティアは彼の所業を咎めるばかりか、優しさに満ち溢れた表情でその少年の背中を見守っていたので、私はそれ以上何も言えなかった……




◇◇◇



それから三日後。


私達は尚も同じ場所で野宿を続けていた。


私の腕の治療のため、彼女が私だけを先に通りすがりの馬車で領主館まで送ってくれようとしたが、私はそれを頑なに断った。


実を言うと、私には少しばかり医学的な知識があり、自分の骨折についてもある程度適切に治療できたつもりなので、今更医者に行く必要もないと考えていた。

何より、彼女の近くにいた方が怪我の経過も良いように感じている……


何より、今はあの少年の怪我を治療することの方が先決だ。

彼女もそのために、辛抱強く時間をかけて彼の信頼を得ようとしているのだろう。


あれからあの少年も、彼女に敵意はないと判断したのか、この頃は食事の時間になると自分から姿を現わし、少し離れたところで出来上がるのを待つようになった。


「今日はさっき狩ってきたワイルドボアの肉を入れたのよ、いつもより出汁がきいていて美味しいと思うわ!」


先程彼女が華奢な腕でワイルドボアを引きずって帰ってきた時には、腰を抜かすほど驚いた……


私だって狩りの経験がないわけではないが、せいぜい兎くらいだ。

自分の膝くらいまで大きな動物は仕留めたことはない。

ましてやそれを捌くなんて……


本当に彼女は何者なのだろうか……


驚きを通り越して放心してしまった。





少年は相変わらずクリスティアの問いかけには答えず、満腹になったらさっさと茂みの奥へと姿を消していった。


いくらそれまでの背景があるとはいえ、これほどまでクリスティア様の献身的な優しさを無碍にするなんて、今日こそ首根っこを捕まえて説教してやりたい気持ちになるが、グッと堪える。

彼女が、少年が心を開くのを待っているのなら、自分がそれを邪魔するわけにはいかない……




◇◇◇




五日目、その日は夕方から雨が降ってきた。

クリスティアが狩った動物達の毛皮でテントの脇に屋根(タープ)を付け、その下で火を起こして夕飯を作った。


「毛皮を乾かしたら煙で燻そうと思ってたから一石二鳥だわ」

どうやらこの皮で、あの少年のテントを作ろうとしていたらしい。

可憐に笑う逞しいクリスティア様のお言葉に、今日も惚れ惚れとしながら頷く。


「あの子、ちゃんと雨宿りできる場所で休んでいるかしら……」


十月に入り、さすがに夜は冷えるようになってきた。

雨に濡れながら一晩過ごしたら、最悪死んでしまう可能性もある。

いつも穏やかな彼女が今日はいつになく不安気な表情を見せていた。



「うぅ……」


しばらくして姿を現した少年は見事にずぶ濡れで、細い身体を大きく震わせていた。


「!!」


「大丈夫!?早くこっちにおいで!」


クリスティアがすぐに彼の手を掴んでタープの下まで引っ張ってくると、すぐに清潔なタオルで彼の身体を拭き始めた。


少年はクリスティアが近付いてくると思わなかったのか、一瞬驚いた様子だったが、彼女の勢いに圧倒されて、されるがままになっていた。


いつも威勢のいい彼が、今日はタイミングを見失ったのか、借りてきた猫のように身体を棒立ちのまま膠着させていたので、その様子が可笑しかったが、私は必死で笑うのを堪えて彼女を手伝った。


ずっと身体を洗っていなかったようで、タオルはあっという間に真っ黒になってしまった。


それを見た彼が怯えた顔をした。


「ごめ…なさい……」


彼が初めて発した言葉に、私とクリスティアは思わず目を合わせた。


「ごめんな…さい……くさい…きたない……ダメ……」


タオルを汚したことで、怒られたことがあるのだろうか……

隣で聞いていた私まで胸が痛くなった。


彼女はそんな彼に優しく微笑んだ。


「あなたは汚くないし、何も悪いことをしていないわ、だから謝らなくていいのよ」

そう言って土で汚れた頬をタオルで優しく拭ってあげた。


「ほら、タオルで拭いたら、きれいなあなたの顔から汚れがとれたわ」

クリスティアがにっこり笑うと、彼は目を丸くして彼女を見た。


「ごめ……」


「“ごめんなさい”って言葉もいいけど、“ありがとう”って言う言葉の方が、私はもっと嬉しいわ」


「ありが……とう……?」



「あり…が……とう……」



彼の周りで耳にしたことのない言葉だったのだろうか。しばらく彼は“ありがとう”という言葉を自分の中で噛み砕くように繰り返した。



「ありが…とう……ありが…とう……」



「ありがとう……」



言葉を繰り返すほどに表情が明るくなっていき、最後には顔を上げてクリスティアを見ながらはっきりと“ありがとう”と言った。



「どういたしまして」

クリスティアは、彼の言葉に嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう……!」

彼は尚も嬉しそうに繰り返した。


「うふふ、その言葉は魔法の言葉なのよ。たくさん使えば使うほど、あなたに幸せをたくさん運んでくれるわ」


「………」


理解できているのかいないのか、彼はクリスティアの話を静かに聞いていた。





「ねぇ、あなたにこれを作って見たんだけど、よかったら着てみてくれない?」


クリスティアが見せたのは、白い大きな布から切り出して作った少年の服だった。



「………」


少年は呆気に取られた様子で服に釘付けになっていた。

今まで着ていた服はとっくにサイズオーバーし、あちこちほつれ、元の色が分からないほど真っ黒でボロボロだった。

新しい服を与えられるなど、しばらくなかったのかもしれない。



「おいで。サイズが合うといいんだけど……」


彼女に手を引かれるまま、その少年は泥まみれの服を脱ぎ捨て、清潔なタオルで全身を綺麗に拭いてもらった後、真っ白な衣服を着せてもらった。



「よかった、ぴったりだわ!後で靴も作ってあげないとね、いつまでも裸足では辛いだろうから」


少年の足は、子どものそれとは思えないほど黒く固く、傷だらけだった。


「………」

少年は真っ白な新しい服を見つめ、大事そうにそっと撫でた。




「ありが……とう……」

俯きながら彼は小さく呟いた。



「ふふ、どういたしまして。さあ、夕食にしましょうか!」





「……おれ……ルイスって、言う……」



「!!」



「……そう。あなたはルイスっていうの、教えてくれてありがとう、私はクリスティアよ」



「クリスたぁ…?クリス………」



「クリスでいいわ」


「クリス……クリス……!」



そう言って、ルイスという少年は初めて少しだけ表情を緩めて笑った。

目を覆うほどの長い茶色い前髪から灰色の目を覗かせて、ややいびつに笑った。




◇◇◇



「今日は一緒にここで寝ない?」


食事の後、クリスティアが切り出した。


「外は雨だし、今夜は冷えるわ。ここなら火もあるし、せっかくの新しい服も汚れないわ」


「………」


ルイスは新しい服を見つめて再び大事そうに撫でると、静かに頷いた。



数日前からは想像できないほど大人しくなった彼を見て、フェリシアは驚いた。


(なんというお力なのかしら……)



ポツポツと雨音が響く中、その夜はルイスを間に挟んで、一つの布をかけ合って三人で寝た。



(やはりこのお方こそが、本物の聖女様なんだわ……)

フェリシアは確信を更に深めながら眠りに入った。





◇◇◇





翌朝も雨が降っていたので、三人は狭いテントとタープの中で過ごした。


昨夜のルイスは、寝返りをする度に苦しそうな唸り声を上げていた。

やはりどこか痛めているようだったので、やや医学の知識があるというフェリシアに身体を見てもらったところ、アバラが一本折れているとのことだった。


しばらくは無理に身体を動かさないようにと、テントの中で寝かせ、クリスティアは有り合わせの物でコルセットを作った。


大人しく横になっているところを見ると、本当に痛いようだ。おそらく一人でいる時も食事以外はこうやって身体を休めていたのだろう。


ルイスが横になっている脇でクリスティアがいろいろな話をするのを、理解できているのかいないのか、彼は静かに黙って聞いていた。




その日の夜は雨が止んだ。

しかしーーー


「まだ地面がぬかるんでるし、今日もここに泊まっていくといいわ」


「……はい、わかりました」


「私に丁寧な言葉を使う必要はないわ。返事をする時は“うん”でいいのよ」


「……うん」


「よかったら明日からもずっとここにいてくれると、私は嬉しいんだけど……」


「…………うん………」



ルイスは器を持ったまま、俯いて顔を赤くしながら答えた。


食事ももうがっついて口にかき込むこともなくなり、自分に必要な量だけを食べるようになった。


ルイスの心が次第に穏やかになっていくのを感じて、クリスティアは内心嬉しく思った。





ーーーそれからあっという間に約束の十日が過ぎ、いよいよ王宮へ戻る時がやってきた。








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