第2話「彼との出会い」
「俺の…愛人に…してやる……?」
ミハイル王子の言葉を噛み砕きながら、痛くなってきた頭で必死に理解を試みた。
……だが、分からなかった。
この人は、一体何を言っているの……?
しかも恋人であろう聖女イザベラの前で……
イザベラを見やると、事前に知らされていたのか、彼女は彼の言葉に動揺する様子もなく、相変わらず目をうるうるとさせたままミハイルの腕にしがみついている。
イザベラの反応を見るに、彼は私を本当の意味で愛人にするつもりはないようだ。
準男爵は男爵とは違い、爵位ではなくただの称号だ、つまりただの平民なのだ。識字率の低いこの国では、平民であったイザベラが十分に文字の読み書きができているかはかなり怪しいところだ。
ましてや数ヶ月前にミハイル王子と偶然出会った彼女がそれに見合った淑女教育や未来の王妃になるための教育を受けてきたとは思えない。
つまり……
「今後は愛人という立場で、聖女であるイザベラ様の教育係をしろと……?」
私は痛むこめかみを押さえながら尋ねた。
「はぁ!?何を言っている!!聖女の教育係など、偽物を騙ったお前が名乗り出るのもおこがましい話だ!!」
いや、名乗り出たのではなく、ただ可能性の一つとして尋ねただけなのだけど……
「お前には、イザベラが慣れるまでこの宮廷での仕事を手伝わせてやると言ってるんだ!ありがたく思え!」
……ああ、なるほど。
今までもミハイル殿下が任されていた国王陛下代理のお仕事はすべて私にお任せになっていましたが、それを今後も私にやらせるおつもりなのですね……
「お断りします」
「!!」
「殿下の婚約破棄の要望については甘んじて受け入れます。ですが、私は婚約破棄された相手の愛人になる気など毛頭ありません。私が行ってきた仕事の引き継ぎは行いますので、イザベラ様にはしかるべき教育係をつけ、今後は2人で政務にあたられればよろしいかと」
「えっ!?」
素っ頓狂な声を上げたのは、聖女のイザベラだった。
話が違うとばかりに焦った顔で、ミハイル王子の裾を引っ張って顔を見上げた。
私の言葉を聞いたミハイル王子も顔を真っ赤にして怒りをあらわにした。
ミハイル王子とは別に、イザベラを守るようにして両側に立つ取り巻きの男性二人もこちらを睨んでいた。
この者達が発するオーラがドス黒くて不快で、私は見る見るうちに気分が悪くなっていった。
「貴様…っ!誰に向かってそんな口を聞いている!?たかが公爵令嬢の分際で!!」
そう叫んだミハイル王子が感情のままに、私を思い切り突き飛ばした。
油断していた私は1メートルほど後ろに倒れ、左肘と腰を強打した。
彼の予想外な行為に、私は顔面蒼白になった。
まさか彼が人前でこんなことをするなんて……
そんな私を見て周囲からクスクスという笑い声も聞こえてきた。
なぜ……!?
私が何をしたというの……!?
打ちつけた左肘がジンジンと痛み、悲しくて今にも涙が溢れてしまいそうだった。
……でも今は泣いている場合じゃない、なんとかこの場を収めなくては……!
そう思って涙を堪えて立ちあがろうとしたところを、後ろから何者かに腕を捻られて取り押さえられた。
「……っ!」
あまりの痛みに、思わず声を張り上げそうになるのをぐっと堪えた。
振り返ると、冷たい表情の騎士団長の息子ザックが私の身体を押さえつけていた。
イザベラの取り巻きの一人だ。
更に近付いてきて私の顎を掬い、握り潰さんばかりに両頬を力強く掴んできたのは、宰相の息子であるクレオ・ラリスだった。
彼ももちろんイザベラの取り巻きの一人である。
「あの虫も殺せないほど愛らしくて可憐なイザベラが震えているではないか!イザベラにこのような不快な思いをさせた上に、まだ読み書きもおぼつかない彼女に仕事まで押し付けるとは……どこまで冷たい女なんだ、貴様は!!」
クレオが怒りをあらわにして声を荒げる。
……私に対する不快な思いは、誰も気にかけてはくれないのだろうか……
長年連れ添った婚約者に突然婚約破棄を言い渡され、あまつさえ、その相手に愛人になれと集塵の前で言い渡されたのだ。
それを断った結果がこれだ……
それはそんなにおかしなことなのだろうか……?
ミハイル王子は、イザベラに仕事を押し付けるなと言ったが、彼女が彼と結婚すれば、王妃として果たさなくてはならない責務が数え切れないほどある。私に丸投げするのではなく、現王妃が存命のうちに仕事を覚えていった方が後々良いと思うのだが……
……まさかとは思うが、私を愛人にして、二人共々一生王族としての責務を放棄し続けるつもりなのだろうか……?
自分達は王族の甘い蜜を吸いながら自由だけを謳歌して……?
「はっ……」
そう考えたら、思わず笑みが漏れた。
「何がおかしいっ!!」
その瞬間、顔を掴んでいたクレオに頬をビンタをされた。
「……っ!」
あまりの衝撃で一瞬意識が遠のきそうになった。
クラクラしながら顔を上げると、目の前で私を見下ろすミハイル王子が言葉を続けた。
「お前は可愛げのない女だったが、仕事だけはできたから温情をかけてそばに置いてやろうとしたのに、俺達の思いを無下にする気か!?お前にはイザベラのような素直さや従順さは微塵もないのか!?」
「ミハイル様ったら!それはいくらなんでも私のことを買い被りすぎですわ!」
イザベラが頬を赤らめて、嬉しそうに話に割って入ってきた。
「いや、そんなことはない。私はそなたがどんなに魅力的な人間かを知っている」
「うふふ、まあ、ミハイル様ったら!」
「…………」
私は二人の会話を信じられないものを見るような目で呆然と見つめた。
これが未来の国王と王妃だなんて……
再びミハイル王子がこちらを振り返って睨みつける。
「それに比べて貴様は!!俺を敬う言葉も知らないようなガサツで無神経で頭でっかちで、女としての魅力などカケラもないつまらん女だった!飽きもせず勉強ばかりしているから、人の気持ちも分からんような非情な人間になるのだ!!」
「…………」
私はもはや返す言葉もなく、黙り込んだ。
彼の言うこともあながち間違いではなかった。
私はこれまで彼を助けるため、国のため、できる力を振り絞り、懸命に取り組んできたつもりだったが、そこに比重を置き過ぎて、イザベラのような魅力的な女性になる努力を怠ってきてしまった。
またもやミハイル王子の言葉が深く深く胸に突き刺さった。
「………」
(ほう…あの女、頭は優秀なのか。使えるな……)
遠目でこの茶番劇を見ていたある男が、人知れず口の端を上げた。
「とにかく、聖女などと嘘偽りで人々を欺いた罪人のお前がこの俺の愛人にしてもらえるだけでもありがたいと思え!貴様のせいで、せっかくの新聖女のお披露目の場が台無しだ!見てるのも胸糞悪い。とっととこの場から失せろ!!」
ミハイル王子の合図で、騎士団長の息子ザックに髪を鷲掴みにされて引きずられ、愛人の件について何も言及できないまま強引に会場の外に投げ飛ばされた。
「いたっ…!!」
バタン!と追い打ちをかけるように大きな音を立てて閉まる扉。
クリスティアは痛みとショックで立ち上がることが出来なかった。
どうしてこんな酷い目に遭わされなくてはならないの……!?
私が何をしたと言うの……!?
たまらず涙が込み上げてきた。
……いけない……
こんなところで泣いてはいけない……
誰かに見られたら、今度はどんな理不尽なことを言われるか分かったものじゃない……
私は会場の外れまで挫いた足を引きずり、誰もいない暗い柱の影に座り込んで、声を殺して一人泣いた。
生まれた時から次期聖女、次期王妃になることを期待され、寝る間も惜しんで様々な教育を受けてきた。
でもそれは私の意思ではなかった。
ただ、そうしなければならなかったから、そうしていただけだ。
やりたいことがあっても、自由にさせてもらえなかった。
それをあんな風に言われるなんて……
ミハイル王子に可愛げがないと言われた言葉が胸に刺さる。
どうせ私は可愛くない女ですよ……
婚約者に浮気されるほど魅力がないですよ……
私の今までの辛かった日々が、急に無意味なものになってしまった気がして、とても悲しい気持ちになった。
ここに両親がいなくて本当によかった……
ミハイル王子が今回の公爵家の参加は私だけを指定していたのはそのためだったのかと、今さらながら気付いた。
しばらく一人で涙を流していて、ふと気配を感じて顔を上げると、いつの間にか目の前に一人の男性が立っていた。
「!!」
「お前、どうして泣いているんだ……?」
クリスティアは思わずビクリと肩を震わせた。
だけれど、次の瞬間、彼の美しさに目を奪われた。
艶やかな紺色の髪に長いまつ毛、透き通るような美しいルビーレッドの瞳。
(きれい……)
思わず見惚れて、目が離せなくなってしまった。
年は同じくらいか、やや年上だろうか…?
月明かりを背にしているため胸の紋章がよく見えなかったが、他国の要人のようだった。
(いけない……!)
我に返り、急いで立ち上がってカーテシーをしようとするも、先程突き飛ばされた時に挫いた足が痛んで、再び体勢を崩し、膝をついてしまった。
彼はそんな私の前に静かに跪くと、私の顔を真っ直ぐに見つめた。
「………」
そして次の瞬間、思い切り私の頬を叩いたのだった。