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少女の泣かない逃避行

作者: イズシロ



 私は家を飛び出すように小さな逃避行を敢行した。

 中学生になって少ししてからのことだった。私には小学生の頃からずっと想いを寄せていた男の子がいた。

 好きだと思ったのは彼がクラスで一番足が速いからでもなく、サッカーが上手いからでもない。もちろん、ずば抜けて顔が良いわけでもなかった。優しそうな雰囲気があり、小学生の間中、彼は一度も友達と喧嘩しているところを見たことがなかった。ただそれだけだった。取り立てて突出した特技がなく、周囲に溶け込むように馴染む彼のことをいつしか目で追いかけていたのだ。


 誰かと仲が悪いという噂も聞かなかったので、勝手に誠実で分け隔てなく優しい人なのだと思った。


 理由なんて特にない。小学一年生から六年生になるまでの間に気づいたら好きになっていた。

 中学生になってもこれから三年間は一緒なのだと思っていた。淡い恋心を胸に灯して、ふとしたきっかけで幸せに感じられる。曖昧な気持ちでい続けるのが、一番の平穏だと気づいたのだ。


 中学生になって一ヶ月くらいして、ひょんなことから彼が好きな女の子の名前を聞いてしまったのだ。私の平穏が、均衡が崩れた。

 もちろん、彼の好きな相手は私じゃなかった。勝手に絶望した。


 その日は授業が終わって急いで家に帰った。引き戸の玄関ドアはその時ばかりはスムーズに開いてくれなかった。

 縁側ではおばあちゃんが座ってお茶を飲んでいたが、「ただいま」も言わずに家の中に駆け込んだ。


 片想いをして勝手に振られた。これはこれでショックが大きかった。

 だって中学生らしく一人くらい好きな人がいて、進展はないけど三年間はドキドキしながら学校に通えたのだから。

 自分から何か行動を起こしたわけでもないし、起こしたいわけでもなかった。好きだけど、それ以上を私は望んでいなかったのだ。ただ普通に話をして、たまに笑って……それだけの関係が自分らしいことを知っていた。


 それでもきっと初恋だったのだろう。

 しかし、誰にも知られずに初恋は敗れた。問題は「敗れた」ことで私の中の平穏が瓦解したことだった。彼が誰かを好きだという事実は、私から淡い色の感情を捨てさせるのに十分な衝撃だったのだ。


 私は次の日、また学校にいくのがとにかく嫌になった。傷心の癒し方なんて知らない。床屋さんで変な髪型にされたくらいには行きたくなかった。


 だからなのか、私は家に帰ったらすぐにリュックにいろんなものを詰め込んだ。着替えや、貯金箱、台所にあるお菓子をとりあえず押し込んだ。

 シールがいっぱい貼ってある親戚のお下がりの机。その引き出しから私は今一番気に入っている財布をズボンの後ろポケットに差し込んだ。

 女の子っぽくないナイロン地のジャケットを着てリュックを背負う。


 そして何も言わずに家を出た。

 どこかに行きたかった。知らないところに行きたかったのだと思う。



 私はその足で駅に向かった。切符を買って、丁度到着した一時間に一本の電車に乗り込んだ。

 中には誰も乗っていなかった。

 この電車は後二駅も過ぎれば終着ということもあるのだろう。それにここから先はどんどん田舎臭くなるばかりで、老人ばかりのつまらない町しかない。いや、町といってもほとんど人とはすれ違わないくらい閑散としているのだ。そんなところにある駅なんて、誰が利用するのだろうかと疑問に思ったが、今まさに利用している自分を振り返ってみれば、三駅分でもあることに有り難みを覚えた。


 みんな駅の周りには住んでいなくて、車かバイクで駅まで行かなければならない距離に住んでいる。


 そして気づいた時には電車は終着駅で、お菓子のオマケについているネジ巻き人形みたいにぎこちなく扉が開いた。何かの不具合で急に閉まるような気がして、跳ぶように降りた。

 慌てて降りると予想していた通り、人がいない。行きは駅員さんが絶対に一人いるのに、ここには誰もいなかった。


 改札口には駅員さんのいる囲があったので、仕方なくそこに切符を置いてその上に飛ばないよう石を乗せておいた。



 改札口を出ると、完全に知らない土地だった。たった三駅分なのに、ここを私は知らなかった。

 少し茜色を帯び始めてきた時間、その見知らぬ土地から伸びる三つある道の真ん中を歩いていくことにした。

 右の道は来た道を戻るようで嫌だけど、かといって左で電車さえも行き止まりの先を行く勇気まではなかった。


 誰に出くわすこともなく、何度か交差路に出会い、その度に左か真っ直ぐかを決めた。とにかく戻りたくはなかった。


 いつの間にか遠足気分ではないけど、なんだかちょっと大人になったような気がしてくる。

 一人でなんでもできる。一人で遠くに行ける。そう思うだけで少しは心も晴れた。

 砂利道を歩き続けて、一時間は経っただろうか。途中見かけたのは、灯くのかも怪しい街灯が等間隔に五本だけ設置してあった。電線は五本を繋いできっちり切れている。見ずともこの街頭はもう点灯することは一生ないのだろう。

 道の反対側には壊れて打ち捨てられた自販機があった。


 サンプルにあるジュースのデザインを私は他で見たことがなかった。しかもジュースの種類も七種しかなかった。

 コンクリートの土台から転げ落ちた自販機をなんとなく気にしながら、通り過ぎていく。

  

  気の向くままに歩く心地良さとは裏腹に、赤く染まり出した空にそわそわしだした。

 思えば学校が終わってから出掛けているので、夕方くらいの時刻になっていてもおかしくはない。


 茜色を目指して歩いていくと、しばらく分かれ道とは出くわさなかった。

 それどころか、この一本道はずっと先まで続いているようだ。

 まるで一本道の迷路のように緩やかに曲がったりしていて、変な道だと思う前に私は楽しくなっていた。クネクネ曲がってアトラクションのようだ。


 しかし、空の色が途端に暗くなって、自分の影がはっきりしなくなるとまた気分が沈んでいく。嫌なことから逃げてきても、嫌な気持ちの整理まではつかなかった。


 ふと、目の前が暗くなって、足を止める。

 目の前には大きな山があった。標高とかそんなレベルの山ではなくて、十分やそこらで登れてしまいそうな高さだ。裏山程度の小さな山が通せんぼするように立ち塞がっていた。


 道の先は山に向かっていて、ここからでも山を回り込むように斜面に沿って続いているのが見えた。手すりもあって柵もあって、ちゃんと誰もが通れる遊歩道。

 私は圧倒されながら、どこかその山が夕陽を隠して、代わりに一早い夜を作ろうとしているように見えた。


 歩く速度を落として、周囲に目を向けてみる。

 すると視線の先に、小さな神社があるのが見えた。お世辞にも綺麗とは言えないし、ちょっとした地震で倒壊してしまいそうに古い。


 それから左右を見ると、庭園なのかひらけた空間がある。

 右側は枯れた雑草の腐葉土みたいな臭いが漂っていた。

 左側には小学校のプールみたいな長方形の池があった。汚い濃い緑色の水が張ってあり、所々に水草のようなものも見えた。


(——わっ!! びっくりした!?)


 プールの端におばあさんがしゃがんでいたのだ。誰かがいるなんて思わなかったので、見つけた時は心臓が大きく跳ねた。

 おばあさんは帽子を被って、毛糸のニットにその上からブランケットを羽織っていた。

 タッパーウェアを膝の上に乗せて、そこから何かをプールに撒いていた。トプントプンと水に沈み込むような音が鳴った。どんな生き物に餌をあげているのか、気になったがおばあさんの横顔を見て、声をかける気にはなれなかった。


 まるで怒っているようだったのだ。じっと水面に穴が開くほど睨み付けていた。


 パンくずなのか投げ入れた水面を横目に見ていたが、何かが食べにくる気配はなかった。

 おばあさんはしゃがんだまま腕だけが機械仕掛けのように、決まった動きをしているのだ。


 怖くなって足早にそこを通り過ぎた。

 なんだか怖い場所に来てしまったが、もう引き返すことはできなかった。随分と長いこと歩いてきたし、それにこの山を回り込んだ先にも興味があった。


 小さな山の麓に到着して改めて道の行き先を見ると、やっぱり変な形をしている。意味もなく曲がったりしていて、歩きにくそうだと思った。


 

 側にある、鳥居もない神社は、拝殿だけが打ち捨てられたかのように建っている。

 道はこの神社を迂回するように回り込むのだ。

 そしてこれから坂道を登っていこうと一度、見える範囲を見回している最中、何かが胸の下付近にぶつかったのがわかった。

 小さな衝撃だったが、気の所為では済まない程度の勢いだ。昆虫が自分の身体に突撃したのだと、すぐに想像できた。


 脇を閉めて、身体が硬直したのがわかった。虫は嫌いだ。

 耳元で羽音でも鳴らされた日には、叫びながら逃げ回るほどに。見るのも怖かったが、それが身体に付いたままの方がもっと恐ろしい。虫と一緒にこの坂を踏破できるはずがないし、タダ乗りを許すわけにもいかない。


 完全に停止して、ゆっくりと視線を下げていく。

 するとそれはジャンパーにしっかりとしがみついて、こちらを見ていた。


 手のひらに収まるサイズの蛙だった——丁度握れるくらいの大きさである。

 黒色に黄色の模様が入った毒々しい色をしていた。ここまで毒持ちを主張されては共存できない。

 総毛立つと何も考えられず、素手であることなんかお構いなしに反射的に手で払った。そういう時、自分がどんな行動を取ったのか、逐一覚えていないものだ。


 きっと、奇妙な踊りをこの夕闇の中、神社だかで披露していたのだろう。

 気づいた頃には蛙の姿はなかった。手で触れた感触があったかも覚えていないほどに必死だった。もしかしたら毒で死んでいたかもしれないのだから。

 

 冷や汗を掻きながら、大きく深呼吸。とにもかくにも蛙はすっかり消えていた。

 息を整えて顔を上げると、これから行く山を見てげんなりしてきた。

 蛇行する一本道の先は、小高い山を蛇のように塒を巻きながら伸びている。なんでこんな周りくどい道ができているのかは、きっと斜面の側に神社があるからだろうと思った。

 神社を左から回り込みながら登ると、すぐに半円を描くように曲がるのだ。急カーブを描いて、角度のキツい坂が続く。



 私は蛙のことを忘れようとリュックの肩紐を強く握って、一歩一歩を急いだ。

 しかし、一瞬でも見てしまったあの蛙が後ろからまだ追ってきるようで、何となく心配して立ち止まってから掌で確かめるようにして体を触ってみる。


 街灯もない、暗がりに自分が侵入しているのだとその視界の利かなさから気付かされた。

 だって、あの黒い蛙は自分の体を見下ろしてみても気づけないくらいの黒さだから。暗闇に溶け込むようにして、くっついていてもわからないかもしれないのだ。


 首下から始まり手を体に這わせていく。ジャンパーの擦れるシャカシャカした音が安心させてくれる気がした。

 大丈夫だ。あの蛙はもういない。


 そしてズボンの後ろポケットを触ってみた。そこにはお財布が入れてあるのだ、大人の男の人がそうしているのを見てから、何となくカッコ良くて後ろポケットに入れている。

 しっかりとポケットから財布の一部が見えるように、短財布と長財布の中間くらいのものを入学祝いに買ってもらったのだ。もちろん、いっぱいお金が入っているとかではなくて、見栄えだけで、本来入れられる適切な量のカードも、お札も小銭も、何もかもが足らない薄い財布だった。


 だからポケットに財布がちゃんとあるのかを確認するために、癖で触るのだ。

 だが今回は掌にムニュッと変な感触が伝わってきて、右手の平から始まって、鳥肌が全身を電気のように駆け巡った。


「やああああぁぁぁ!! やめてっ!?」


 ブルブル震えながら、財布を取り出すとやはりあの蛙が財布にしがみついていた。無闇に触るときっと毒で死んでしまうような色合いだ。図鑑でもテレビでも取り上げるような、危険生物みたいな奴だった。

 よく考えもせずに手で払いのけると、あっさりとその蛙はどこかに大きく跳んでいった。目を瞑りながら払ったので手の感触からどこかに行ったことだけはわかった。


 でも。


「もうなんで私だけ…………ヒクッ」


 涙が出てくる。だってあの蛙は財布に泥のような糞をつけていったのだ。

 手にも付いた。暗くて色はわからないが、とにかく指触りが泥みたいだったのだ。臭いとかはなかったが、拭くものなんて持っていない。


 大切な財布をジャンパーで擦り取って、指も仕方なく服で拭いた。


 不幸は一つをきっかけに追い討ちをかけるように続いていくのかもしれない。悪いことは悪いことを呼び込んで、バトンタッチするのだ。わざわざ一人のために不幸同士が手を取り合わなくてもいいのに、なんてことを考えた。


 現実逃避してきた流浪初心者への洗礼なのだろうか。


 涙を拭って一歩一歩、道の先を目指す歩みを再開した。

 少し登った程度だが、来た道は茜色からどんどんと暗い陰を落としていっていた。思えばこの裏山は夕陽を遮るように立っているせいで、巨大な陰が出きて少し早い夜を作っているのだ。


 目線を上げて先を見ると、向かい側から突然現れたかのように、一組のカップルが来ていた。

 黒い地面を見ていたせいか、気付くのに遅れた。


 不思議なことにこんな片田舎の普通誰も来なさそうな場所なのに……。奇妙なことにそのカップルの男性の方はタキシードを着ていた。手品師のような帽子を被って、女性に腕を組まれている。

 空いた腕にはステッキが掛かっていた。


 そして女性の方はというと、こちらもおかしい。

 夜の女性みたいに薄着で、長いキャミソールみたいなものを着ていた。

 よくわからないけど、ブラジャーのようなものさえつけていないのではないだろうか。女の子が年上のお姉さんに少なからず憧れに似た感情を抱くが、その女性は大人は大人でも熟れた大人だった。


 絶対に歩き難い、高そうな赤いヒール靴で、男に体を押し付けながら向かってきた。

 歩く度に女性の巻いた髪が風船のようにフワフワと弾む。

 なんだかすごく変な二人だった。男は薄い笑みを浮かべて、女性は眠たそうな目で男に枝垂れる。


 どうしてこんな山の奥から出てきたのだろうか。考えてもまるっきりわからなかった。

 そしてこの先には一体何があるのだろうか。


 カップルが近づいてくると視線を下げて軽く会釈してやり過ごした。

 気になっても相手の顔をジロジロ見ることはできなかった。でも、なんだか通り過ぎた時に、なんか古い家の匂いが鼻をついた。

 おばあちゃんの家の臭いだったり、何年も使っていない物置の臭いだったり——。


「おや、これは珍しい」


 擦れ違って足音が何度かした後、男性の低い声が聞こえてきた。

 ビクッと私の歩調が緩くなる。

 男のその言葉は〝私〟に対してのもの。思い込みかもしれないが、手品師風の男が振り返ってこちらに発したように聞こえた。

 後に続いて粘りつくような女の声もした。


「いいじゃないのさ。そういうこともあるのさぁ。珍しくても不思議じゃないのさ。そんなことより早く行こうじゃないか」


 女は強引に男を引っ張って下りを急がせた。

 やはりよく分からないやり取りだった。このカップルの成り立ちも想像できなければ、何を喋っているのかも理解できなかった。

 でも、それは大人だからで、自分が子供だから。その違いだけで少女は納得してしまった。

 丁度一年前におじいちゃんのお葬式をした時も、周囲の大人達の会話は本当によく分からなかった。お坊さんのお経もよく分からなかった。


 覚えているのは記憶より少し若いおじいちゃんの写真がずっと笑いかけてくれていたことだけだった。


 少し歩いて振り返ると、そこにさっきのカップルはもういなかった。ずっと一本道で、後は神社に向かう道しかないのに。

 その神社もここから見ると丁度背中を見下ろせる位置だった。どこにでもあるような神社で、賽銭箱とでっかい鈴がついた汚い縄がぶら下がっているだけ。


 誰も管理していないように思えた。そう思えても、賽銭箱があるのだから金にがめつい誰かが、管理しているのかもしれない。


 ともかくカップルの姿はずっと先まで目で追っても、後ろ姿すら見つけることができなかった。


 あの池でパン屑か何かを投げ入れていたおばあちゃんもすっかりいなくなっていた。あれが池だったのか生け簀だったものなのか分からないけれど、ここから見えるのは真っ黒な油で満ちたような一角だけだった。


 私は途端に寂しさを覚えた。

 不気味であっても誰かが居ることの安堵感は確かにあったのだ。しかし、それさえもなくなってしまうと、残されたのは小山をも飲み込もうとする夜だけとなった。


 先は辛うじて見えるが、黒い霧に包まれたように小山を回り込む道の先に期待するものはないのだと思われた。

 というより、もうそんなことさえもどうでもよかった。

 毒を含んだ蛙がいようと、私は数歩後ずさった後、身を翻して下り坂に追い立てられるかの如く足を翻したのだ。


 行きは勇んでリュックの肩紐を掴んでいたが、帰りはバランスを取るよう手を下げ、回りくどい下り坂を慎重に歩いた。

 逃避行は敗れ去った。恐怖に屈したのだ。

 何かを得られることもなく、ただただ幼さだけが残る。


 下り坂を終え、神社を通り過ぎる。当然のことながら表に回ってもそこに先程のカップルもおばあさんもいなかった。

 きっと夜になったから帰ったのだろう。夜とはそういうものだった。

 子供でもわかる、大人にも門限があって、それは人それぞれなのだということが。


 であるならば彼、彼女らは一体どこへ帰ったのだろうか。当然、家なのかもしれないし、あのカップルはこれからおしゃれな飲み屋に行くのかもしれない。ドラマで出てくるような、薄暗くて口数の少ない雰囲気を楽しむような、あのわからない飲み屋だ。

 一体あれの何が楽しいのかさっぱりわからなかった。お酒をチビチビ飲んでいるのもわからない。少しずつしか飲めないのなら最初から飲まなければいいのだ。それともお酒とはそういうものなのだろうか。

 お父さんはビール缶を開けるとすぐにそれを流し込んでしまう。お酒とビールは別物なのだろうか、何もかもがわからなかった。


 ともかく気を紛らわせるためにそんなこと考えていると、おばあさんがいた池の側まで来ていた。

 やはり横目でそれを確認すると、緑っぽい池の水は黒に変わっていて、波紋一つ広げず綺麗にラップされたみたいに平らになっていた。

 見ているだけでそこから何かが出てきそうだった。


 足早で池を通り過ぎると、またも後ろの方で水の跳ねる音が聞こえてきた。人を恐怖に陥れるのに、視覚外の、それも背後というのはあまりにも定石すぎる上、定石通りに恐怖心が私の心臓を鷲掴みにする。

 私は人が作り上げた恐怖は大丈夫だと思っている質だが、想像できない恐怖はとことん妄想を膨らませてしまうのだ学んだ。


 つまり必要以上に恐怖心が掻き立てられてしまうのだ。

 振り返らずに早歩きで、先を急いでいると、すぐ背後で奇妙な足音が並んだ。ペチペチと濡れた足で歩いているようだった。いや、そうとしか思えなかった。


 近づく足音は軽い。

 それが極限まで近づくと居ても立っても居られなくなった。リュックを投げ捨て、身軽になって走り出したかった。

 きっとクラスの誰よりも速いタイムを叩き出すことができるだろう。


 しっかりと靴裏が地面を踏み締める感覚に神経を傾けていると、ついにそれは私のジャケットを突いてきた。

 引っ張られるのではなく、何かで押されたような感触だった。

 二度三度、それは私の斜め後ろにピタリと張り付いて突いてきたのだ。

 恐る恐る振り返ると、そこには大きなアヒルがいた。


 白い身体にはあの黒い水の水滴なのか、黒い斑点が浮かんでいる。

 そのアヒルは黄色い嘴で私のジャケットの裾を摘んで引っ張っていたのだ。それか、摘み損ねて腰を突く形になったのだろうと思われた。

 同時に、過去一番の安堵が私を襲った。ホッとしたのではなくて、安堵さえも疲労に変わったようだった。


 そしてまたおかしなことになったと私は早歩きをやめた。

 ここに来てから奇妙なことばかりが続く。順応しないまでも、流石に三度目ともなると——他にもあったかもしれないが記憶に残っているのはこれぐらい——私も考えざるを得ない。


 なんで今日はこんなおかしなことばかりが続くのか。そしてそれはいくら考えようとも解決しない悩みであった。

 私はアヒルが鬱陶しくなったが、付いてきては湾曲した嘴で突いてくるのだ。アヒルの頭はちょうど私の腰くらいの位置にあった。


 どこまで付いてくるつもりなのかわからないが、その嘴は変わらず私のある一部分だけを突いていた。

 何度振り払ってもやめないのだから余程のことなのだろう。


 あのおばあさんが池に餌をやっていたから、人間が皆、餌を持っていると勘違いしているのかもしれない。

 実際私が何か餌を持っているということも考えられたので、一先ずポケットを漁ってみた。


 すると——ポケットには包装紙に包まれた古いガムが入っていた。

 ガムで風船を作るのに向かないタイプのガムだった。駄菓子屋のガムでもない。大人が眠気覚ましに食べるようなスッとするガムだった。


 私は好きではないのでなんで入っているのかは覚えていなかった。ガムを入れたまま洗濯してしまったのか、包装紙はボロボロだった。


 しかし、アヒルの目は指先で摘むように持ったガムから離れなかった。


 「これが欲しいの?」と馬鹿なことを承知で聞いてみる。

 その頃には恐怖などどこへやら。私は足を止めてアヒルに向き合っていた。


 するとアヒルが嘴を伸ばしてきて、ガムを取ろうとしたので咄嗟に私は手を引っ込めた。あの嘴に挟まれても怪我はしないだろうが、汚いはずである。

 アヒルにガムなんてあげれば死んでしまうかもしれない。そんなことはやってはいけないことだとわかっていた。

 野良猫にチョコレートをあげてはいけないし、玉ねぎ入りもダメなのと同じである。


 でも、このアヒルは普通のアヒルではないのだろう。よくよく見ると黒い斑点は水滴ではなく、模様だった。 

 可愛いとはとても言えないし、触りたいとも思えなかった。


「イタッ!!」痺れを切らしたのか、嘴で手を突かれた。


 仕方なくガムの包装紙を取ってから放ると、器用にキャッチして口の中へと入れてしまった。

 本当に大丈夫なのだろうかと思ったが、満足したのか魚を飲み込むようにして首を立てて飲み込む。


 すると喉が変な動きをして、えずきだした。

 やっぱりあげてはいけなかったのだ。私は怖くなり、数歩後ずさった。


 アヒルは胃を逆流させたような音を発すると口からヘドロのようなものを吐き出した。

 真っ黒なそれはよく見えなかったが、いくつも金属のようなものが混じっていた。地面に金属質な音がする。

 とにかく様々な金属だった。

 安全ピンや画鋲、クリップに小銭なんてものまでどこにそんなに入っていたのかというほどに入り込んでいた。


 そして私があげたっガムのような塊も一緒に出てきた。


 吐き出した後、アヒルは首を左右に振って、あの池を目指してペチペチと音を立てて帰っていった。

 今日はよくわからない日だ。

 何度でも言おう、今日はよくわからない日だし、説明もできない一日だった。そして今日以上におかしな一日は今後ないと確信できる。


 アヒルが池まで到達したかも確認せずに、私は帰路に向かう。とにかくアヒルが死ななくてよかった。

 悪いことが続いていたが、それでも最後にアヒルが死ななくてよかったとは言える。

 あれだけの金属を体に入れて、さぞ苦しかっただろう。吐き出したかったから、私のガムを欲したのだろうか。


 それともたんに何でも口にするアヒルなのだろうか。

 食べ物であろうと、そうでなかろうと関係なく口に入れてしまうのだろうか。そうであるならば困ったアヒルだ。

 だが、実際は違うだろうことも私には何となくわかっていた。


 あれは何だったのだろうか。

 そして何のために私はこんなところに迷い込んでしまったのか。出くわしてしまったのか。


 小さな逃避行はそれ以上に不可解な現象によって打ち消された。

 非日常に出くわすと日常が恋しくなる。

 私は明日、また学校に行こうと思った。普通通りに何の変哲もない、日常に戻ろう。日常を取り戻さないと、また今日みたいなおかしなことに出くわすことになるのだ。


 逃避行中、リュックから何一つとして取り出さずに、私の小旅行は終わりを告げたのだった。

 



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