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54話:もう一つの灯火

 

 一人の老人が人型の彫像の前で軽くため息をつく。


「ふむ……」


 老人は先ほどまで、王国の宰相と以前からの内々の約定を破棄された所だった。


 だが老人にとってはその様なことは大した問題ではない。


 元より気の進まない約定であり、むしろ向こうから破棄されたことで安心感すら得ていた。



 しかし、ため息の原因は、約定を破棄されたことではなく。


「客人とは言え、人の部屋に挨拶も無しに入られるのは、いささか礼を失するのではないかな……」



 老人が不快と感じるその言い方に応ずるかの様に、姿隠し(インビジリティ)の魔術で、姿を隠していた者が現れる。



 それは1人の感情を一切感じない少年であった。


 年の頃は10にも満たないか、それ以下とも思われる氷薄色(アイスブルー)の瞳が特徴的な美少年であった。


 だが老人が目線を合わせたのはその少年ではない。


 その少年の腕に抱かれている”女性の生首 ”であった。


 女性の生首の閉じていた瞳が開き、その唇が開き言葉を発する。


「その様子だと神子(みこ)の確保に失敗したようね。奸計(かんけい)に長けたナインライブス(九尾)も地に落ちたものだわ」



 その言葉に老人……《九尾》は笑みを浮かべる。


 だがその笑みは友好的な感情ではなく、不機嫌を表した笑みであった。



「今の我は九尾ではなくナインライブス(飼い猫)よ…… 九尾は精霊女王(アリアンロッド)に滅ぼされ彼女に降伏し、飼い猫として生きながらえた。それだけのことよ……」


 女性の生首は、自らを卑下するその卑屈な言葉が気に入ったのだろう、九尾に笑いかける。



「だから飼い猫(ナインライブス)と名乗るとは愉快なものね」


 九尾こと飼い猫(ナインライブス)の表情は先程と変わらない。


 精霊女王(アリアンロッド)に降伏したのは事実であり、飼い猫(ナインライブス)の今の生き方も、そこまで悪いものと思っていないからだ。


 この女の嫌味で一瞬不快な感情が湧いたが、その感情はすぐに精霊女王(アリアンロッド)に対する想いにより抑えられる。



「それよりも失敗を笑いに来たのかね…… それとも他に何か用があるのかな分身体殿」


 最後の”分身体殿 ”と言う時、少し(あざけ)る様に飼い猫(ナインライブス)は言う。


 降神と袂を分かった己と違い、この女は未だに降神の呪縛に囚われていた。


 それを気位が高いこの女が気にしていることを知っている為にだ。


 その言葉を聞いた、女性の表情は明らかに不機嫌な色に変わる。



「あまり調子に乗らないことをおすすめするわ飼い猫(ナインライブス)、今回は聞かなかったことにするけど、次はないわよ」


 生首の女性の眼光が冷たい輝きに充ちる。



 周囲の光景がこの女性が持つ《自己の世界(ファンタズマゴリア)》にうっすらと侵食される。



 ――――それは楽園


 楽園のごとき世界を統べる、理想郷とも言える光景が現れる。


(まったく気の短いことだ)


 まあ、かつての自分のことは言えないか……と、昔かつての己の享楽(きょうらく)を思いだし、心中で呆れ気味に笑う。



「分かった肝に銘じておこう」



 その飼い猫(ナインライブス)の張り合いのない言葉に溜飲が下がったのか周囲の《自己の世界(ファンタズマゴリア)》は消えていった。



「……用件は以前、お前が言ったことよ。 こちらとしても楽に神子が手に入るなら静観するつもりであったけど、お前が失敗した以上、私の流儀でやらせて頂く」



 その女性の言葉に飼い猫(ナインライブス)の表情は沈痛な様子に歪む。


 今まで水面下でアリア侍祭を確保しようとしていたのは、ことを平和裏に終わらせたい飼い猫(ナインライブス)の考えがあった。



(この女は危険だ)


 それが飼い猫(ナインライブス)の基本的な考えであった。


 何故そんな相手と手を組まなければならなくなったのか


 それは、かつての降神の呪いとも言われる呪縛にあった。



 精霊女王(アリアンロッド)に降り彼女の眷属となった際、降神の呪縛の大半は解けたのだが、僅かに残った呪縛をこの女は突いてきたのだ。


 それは本来であるなら、精霊女王の加護を上回るほどの力が必要であるのだが、この女の巧みな魔術の腕によってそれを回避して呪縛を強制してきたのだ。


(術の腕はあの忌々しい安倍の小倅に匹敵……いや、下手をすれば播磨守と同等か……)


 呪縛のこともあるが、飼い猫がこの女に素直に従うしかないのは、底知れぬ力を感じてのことでもあった。



「では、既に《陣》は完成したと言うことか……」



 この女は王国のある辺境地域に自己の世界(ファンタズマゴリア)を応用した《陣》を用意していたのだ。


 その目的はいくつかあった。


 1つは交渉にてアリアの確保に失敗した際の監禁場所として、そしてもう1つが、降神の分身体の敵対者となっている王都教団の聖騎士を《陣》におびき出し抹殺する為であった。


 ちなみにこの辺境地域に陣を張ったことによって、王国の公共工事に支障が出たのは余談である。



「かつての同胞(はらから)として一つ忠告しておこう。 聖騎士を甘く見ないことだ、特にメリアはお主と言えども手こずる相手であろうな」


 飼い猫(ナインライブス)はかつて公爵家で無双の活躍をしていた聖騎士の姿を思い出す。


 あの聖騎士の実力は飼い猫(ナインライブス)から見ても常軌を逸したものであった。


 だが、この女は勝利の為に入念な準備をしているはずだ。


 何か大きな要因でもないと、聖騎士達の勝利は難しいだろうとも考える。


「忠告どうも、では、私は《陣》に向かうとするわ。今まで世話になったわね飼い猫」


 話が終わると同時に少年は生首を抱えながら、飼い猫(ナインライブス)の執務室から退室する。


 あの女を養う為に色々と危ない橋や損失があったが、自身がこうして生き残ったことに安堵が胸に広がる。


「そうだ……生き残らなければならない……たとえどんなことをしても……私の望みの為に」


 その吐露された言葉に応える者は誰も居なかった。





 舗装された道を馬車が走る。


 馬車は質素な装飾ではあるが、手入れは行き届いたものであり道行く者たちはその馬車の行き先を注視していた。


 それはこの馬車に印された《教団》の紋章が現在の王都の話題に上がっていたからだろうと馬車の中の人物は呆れ気味にため息をつく。


 今日はとても良い天気であった。


 仕事がなければこのまま散策でも出かけたい気分であったが、生憎と忙しい身の上でその様な暇は当分取れそうもない。


 馬車の中には少女が1人

 名はソレイナ

 教団の若き司祭であった。



 次第に馬車は王都から離れ、郊外のある施設に向かっていた。


 その施設は教団の戒律を破った者や素行に問題があった者を収監する収容所である。


(……はぁ……何で(わたくし)がこの様な仕事を)


 気が進まない任務であり心中でため息をつくが、尊敬してやまない祖父からの頼みである為に断ることは出来ず、二つ返事で「おまかせください!」と言ってしまった自分を恨めしく思うソレイナであった。


 ソレイナは自分の肩掛けバッグから一冊の紙束を取り出す。


 それは祖父から託された物であり、今回の任務で必要なものだった。


 既に何回か中身は確認していたが、何気なしにもう一度確認する。


 アリア侍祭の減刑嘆願書の署名名簿と記載された書類で、一番最初に教団に提出されたものである。


 これ以降も主催者が違う者から次々と署名名簿が教団に寄せられて、それはかなりの量になり教団でも裁き切れなくなったので、現在は新規の提出は打ち切ったが提出された書類の整理にソレイナは満足に休めない日々が続いていた。



(しかし、あの女のおいたが過ぎただけでここまで反応があるとは…… まあ、それだけが理由ではないのでしょうが)


 ソレイナは今回の事件の背景を調べたが、その事情によりアリアの行いを責める気はなかった。


 あのスネイルと言う男は調べれば調べるほど、悪い意味での貴族の見本の様な男であり、ソレイナはあの男の愚行を知れば知るほどアリアに同情してしまった。


 むしろ良く顎を砕いただけで済ませたと感心するくらいだ。


(あの女に懸想していたとのことでしょうけど)


 自分にあの男がすり寄って来たら、やはり顎を砕くかなと思う。



 ソレイナの手にした署名には様々な名前が記されていた。



 アリア侍祭の減刑嘆願書の署名と名うっているが、本当に彼女を心配している人物達の名簿は今ソレイナが手にしているものだけだろうと思う。


 後の名簿にも居ない訳ではないだろうが、アリア侍祭を助ける名目で貴族に抗議したい人物と思われる者が、後に提出された名簿に多く存在した。


 かつての王の剣による粛清騒動で、王国の王室は崩壊寸前であった。


 地下に潜った抵抗者(レジスタンス)もかなりの数になり、教団もそれらを抑えることが限界に達した頃に王太姫のクーデターが起き、抵抗者(レジスタンス)の計画も有耶無耶になってしまったのだ。



 だが、王が追放され頭が変わったくらいで、不満が完全に解消された訳ではない。


 民衆の貴族に対する不満が、今回の騒動を介して示されている側面もソレイナは考えていた。


(それにしても……)


 ソレイナは手にしていた署名を最後まで流し見するが、この名簿は彼女に好感している者達が多いと思われるが、よくもここまで署名が集まっているものであった。



(っ……う、羨ましくなんて思っていませんわ!)



 しかしソレイナは分かっていた。


 本当の人徳とはその人物が窮地に陥った時にその真価が発揮されると言うことを……


 もし自分がアリアの様な立場になったとして、この名簿の様に助けが来るのか……



(やめ、やめ、そんなことを考えても不毛なだけですわ)



 ソレイナは今回の任務を思い出す。


 それはこの減刑嘆願書の署名名簿をアリアに渡せば任務完了であるが、伝え聞いた所ではアリアは体調を崩していると報告を受けているので、見舞いも兼ねた訪問にもなっていた。


(しかしそれもこれも……)


 今回自分が選ばれたのは、自分とアリアは友人同士と言うことになっていたからである。


 そしてそれには理由があった。



 かつての神託の儀式の後、活躍した彼女への褒美と言うことで何か望むことを聞いた際だ。


 実際、アリアが居なければ祖父は確実に命を落としていたので、ソレイナにとってはとても大きな借りをアリアに受けたことになった。


 その借りを返す為に、アリアから願いを聞き出来うる限り借りを返そうと思っていた。


 ソレイナは聖女の修行の為にアリアンロッドが座する聖域(サンクチュアリ)の紹介状を書けと言われれば書いたし、司祭への昇格を望むのであれば昇格を上と掛け合っただろう。 孤児院の予算が欲しいとなれば何とか有利な予算を組むつもりであった。


 だがそんなソレイナの予想を遥かに上回る回答をアリアはほざいたのだ。



『わ、私と友達になってください!!』



 と、ともだち……

 一瞬思考が停止し呆けた様になったが、直感が直ぐに警告を鳴らす。



(ハッ!! そう来ましたか……人畜無害そうな顔してこのカマトト女、やっぱり油断出来ませんわ)



 ソレイナの脳内の図式は


  友達=利用する


 と言う答えが導き出されていた。



(なんといやらしい(アマ)なんでしょう、借りを一回で返せばそれまでですが、友義と言う関係で(わたくし)からしゃぶり尽くすつもりですわね!!)


(しかも、こっちはこの(アマ)に借りがある立場ゆえに友人関係と言えど譲歩が必要となる…… ちっ!この策士が!!!)


 内心ではアリアに戦慄すら覚えるソレイナであったが、足下を掬われない様にいつも通りにこやかに対応する。



「友人関係ですか、(わたくし)の様な者がアリア侍祭の友人など……」


 遠慮がちに言っているが、内心では(お前とのトモダチゴッコなんて冗談ではありませんわ!)と叫びたい衝動に駆られてられていたが、ソレイナの脳内に天啓が閃く。


(いや……考えようによってはこれはチャンスでもありますわね)


 友人=利用し合う


 と言う図式が新たに出来上がっていた。



 勿論ソレイナはアリアに借りがあるのでその関係は不利ではあるが、不利な戦いだからと言って戦いを避けるのはまた違ったことであった。


(クックック……良いでしょう……貴方が(わたくし)をしゃぶり尽くそうとする前に、逆にしゃぶり尽くして差し上げますわ!)


「ですが、至らぬ我が身ではありますが、貴方の様な素敵な友を得られるのなら万感の思いです」



(……そうですね……(わたくし)達は()()()()ですわ)



 慈愛に満ちた表情の裏は見事なゲス顔の笑みに満ちていた。




(なのに……どうしてこうなった!!)



 ソレイナがアリアを利用する前に、当の本人は問題行動を起こし、その尻拭いにソレイナは奔走することになった。


 そしてソレイナがアリアの友人になったことを、クラリオスはとても喜んでおり、今回の任務も『落ち込んでいる友人を励ましてあげなさい』と言った主旨で頼まれたものであった。


(ううっ……お祖父様には申し訳ないですけど、適当に済ませて帰るとしますか)



 ほどなくして王都郊外の石造りの砦の様な場所にたどり着く。


 ここは教団の問題行動を行った者の懺悔を行わせる収容施設であり、通常の監獄とは違い、あくまで教団の戒律を諌める施設であるので、砦の様にそこまで厳重な警護がなされているのではなかった。


 馬車は大門を通過し中庭にたどり着き、ソレイナは停車した馬車から降り立つ。



(さてお仕事、お仕事)




 案内役の老人のランタンの灯りを頼りに、ソレイナは廊下を歩いていた。


 石造りの建物の為か、足音が良く響く。


「それでアリア侍祭の体調が芳しくないとの報告は受けておりましたけど、何処が悪いのでしょうか」


 届いた報告はつい先日で、その内容も体調不良としか報告がなかった為だ。


「はい、実は……」


 案内役の老人、神官コルグは沈痛な面持ちで説明する。


 その内容によると、病気による容態の不覚ではないようだ。


 この収容所に収容されてから、食事を絶ち、水だけしか口にせず、更にはずっと地面に座り込み一日中俯いているとのことだ。


 何か病気なのかと、通いの医師が診察を行ったのだが栄養失調による衰弱だと診察された。


「ただ、医者が言うには何か心の病に掛かったのではないかと……恐らく余程ショックなことがあったのでしょう……」


 最後は老人の感想ではあるが、恐らくそうだろうとソレイナは思う。


 アリアはまあ……真面目な部類の人間だ。


 スネイルと言う貴族の顎を砕いたことを、今になって後悔しているとかそんなところだろう。


 まあ、そのスネイルの王都での評判は地に落ちており実家のナインラヴス家に強制送還されたそうだ。



(本当の所は逃げ帰ったのでしょうけど)



「こちらです。あと何かありましたら向こうの控えに待機しておりますので、お声掛けを……」


 案内役の神官コルグは自身の手にしていたランタンと扉の鍵をソレイナに手渡し、教団の儀礼印を切ったあと来る途中にあった控え室に戻って行った。


 歩きにくい薄暗い石畳の廊下であるが、灯りも無しに高齢のコルグは何の不自由もなく歩いて行く。


 長年この施設の管理をしているだけあって、目をつぶっても問題ないのだろうと推測する。


(経験と言うのは本当に偉大ですわね)


 ソレイナも天才だと持て囃されているが、やはり経験を積んだ者には敵わないことも多い。


『若い時は失敗も多い。問題はその失敗を経験と言う糧に出来るかどうかだ』


 祖父に魔術の手ほどきを受けた際、何度も聞かされた言葉だが、ソレイナの規範ともなっておりソレイナは成功の手順よりも、失敗の不手際を思い出すことのが多い。


 失敗の経験を成功に変える。


 故にソレイナは天才を演じていられるのだと考えていた。



(貴方はどうなのでしょうね……アリア侍祭)



 ――――扉の鍵が外れる金属音が石畳の廊下に響く


 そこは質素な部屋ではあるが、牢獄の様な悲惨さはなく家具も最低限揃えられ、一般的な住居の様な造りとなっていた。


 部屋には固定式の《持続光(コントラクトライト)》の照明が灯っており部屋を薄暗く照らしている。


 少し暗さを感じるが、目が慣れれば問題ないので、ソレイナは手にしていたランタンの灯を落とした。


 経費削減が染み付いた無意識な行動である。


 そして薄暗い中、部屋の隅の床に膝を抱え踞るアリアの姿がそこにあった。


「……御元気そうですわね」


 ソレイナは手にしたランタンを小型のテーブルの上に置こうとしたが、そのテーブルには先客が居た。


 それはアリアの朝食だろうが、一切手を付けた様子はなかった。


(まあ律儀に水は飲んでいる様ですわね)



 ソレイナの言葉にアリアの反応はない。


(ちっ!無視ですか、こっちは忙しい時間を縫って来てあげたのに……まあ、いいですわ。こちらはこちらの仕事をするだけです)


 この女の為に考えるだけ時間の無駄だと自身を納得させ、手早く終わらせ様と決める。


「今回の貴方が起こした騒動の結果は大きな波紋を呼んでおります。教団の指針としましては貴方の行いには問題もあったと思いますが、起因となったスネイル子爵子の蛮行に続き多くの余罪も発覚、それによりスネイル子爵子は王都から自主退去となり、内府からのお達しで国法においては不起訴処分と刑罰は猶予処分となりました」


 アリアからは何の質問も無さそうなので、ソレイナは言葉を続ける。


「そして次は教団からですが、今回の騒動により貴方の破門や辺境修道院への移送の話しもありましたが、それらの意見は極少数で、大勢の意見は侍祭への同情意見が中心であり、今回の教団からの処分としましては奉仕活動をもって罰といたします」


(まあ、この女は普段から奉仕活動には積極的でしたし罰にはならないでしょうけど……)



 アリアからは質疑応答が無さそうなので、最後の通告を行う。


「よって現状の確認を終了次第に、ここから解放となります。恐らく二日ほどで解放となりますので、それまでに……」



「…………い」



 アリアからとても小さな(かす)れた声がソレイナの耳に届く。


 何か質問かと思いソレイナは通告を止め、アリアの発言を確認することにした。


「何かご質問ですか」


 ソレイナはアリアの傍まで顔を近付け何を言っているか確認を行うが……



「………たくない」



 ソレイナの耳には

『ここから出たくない』と聞こえた。



 まだ反省が足りないからここに居たいと言うことなら理解できることではあるが、どうやらそう言った感じはない。



 ソレイナの脳裏に一つの過去の風景が一瞬蘇る。


 木の洞に膝を抱えて俯いた少年のことを


『帰りたくない。おかあさんなんて、おかあさんなんて、だいっきらい』


 そう言っていた男の子をソレイナの脳裏に過る。



「どんな考えがあってここに居たいのかは、貴方の問題であるので聞いたりはしません。 しかし、どんなに目を閉じようが耳を塞ごうが現実と言うものは待ってくれたりはしませんよ」


 その言葉にアリアはまるでイヤイヤをする子供の様に頭を横に振る。



(まるで子供ですわね)


 ソレイナはアリアのその姿に『こんな女に何を張り合っていたのか……』と呆れと胸が少し締められる感情が沸き起こる。


(ふう……何でしょうね……この感じは)


 ソレイナは何か胸に灯る違和感に僅かに戸惑う。


 適当に済ませるつもりであったが、ソレイナはつい口を出してしまう。


「貴方を待っている人達はどうするのですか…… 貴方のお母様を始め、友人達も貴方を深く心配していましたよ」


 ソレイナは聖歌隊のメンバー全員から、そしてアリアの同期である親友とも言うべき娘達からは、常にアリアの状況を訪ねられていた。


 そして聖騎士候のメリアだ。


 本来、彼女は自身の地位、名声を傘に来て特権を得る行為を嫌う武人気質な人ではあるのだが、今回は相当熟考したのだろう。


 今、ソレイナの肩に掛かっている、バッグの中に入っている減刑嘆願書を手に、祖父クラリオスに頭を下げてアリアの力になって欲しいと願い出たのだ。


 後で聞いた話だが『自分はどうするか悩んでいたのだけど、親とは何なのかと、ある坊主に説得されてね…』と語っていた。


 ソレイナにとって、メリアは多くの偉業をなし得た祖父に次ぎ尊敬をしている人物であった。


 そんな人物が一人の親として、娘のことにここまで心を砕いている姿にソレイナは羨ましさも感じていた。



 だが、その言葉はアリアには届かなかった様だった。


「……いや……いや!!! 待ってくれてなんて居ない!! 私は棄てられたんだ!!! どうして!どうして! 私が何をしたと言うの! 私は自分の大切な人を守ろうとしたのにどうして、どうしてあの人から棄てられなくてはいけないの!!!」


 ソレイナは、突然豹変し叫び始めるアリアに驚く。


 ソレイナの知っているアリアは穏やかな人間であり、この様に取り乱す人間ではなかったのだが……


(一体、彼女に何が)


 取り敢えずソレイナはアリアを落ち着けようとすることにした。


「落ちつきなさい!! 誰も貴方を棄てようなどと思ってはいませんわ!!!」


「忘れたのですか!!! 貴方が救った多くの人達を、(わたくし)の祖父も、あの儀式の場に居た人達も、皆……貴方を救おうと頑張っています!」



 それは本当のことであった。


 クラリオスはメリアに頼まれるまでもなく動いていており、教団内でも神託の儀式に参加にした者達は、特にアリアを救おうと懸命になって動いていたのだ。


(この女は、どうして皆がこれだけ頑張っているか分からないとは)


 アリアは聖歌呪法を開花させ、その高い才能を持って今まで多くの人を助けてきた。


 彼女の力は有限であり、助けられなかった者も多く居た。


 だが彼女に感謝する者は多く、今回の嘆願署名もこれだけの数が集まったのだろう。



「嘘よ!嘘よ! 私が苦しんでいた時誰も助けてくれなかったのに、彼だけだった!!! 彼だけだったのに、なのに何で、何で私を棄てるの!! なんで!!!」



 もう限界であった。


「そうですか……皆、貴方を助け様と必死で頑張っておりましたのに……」


 ソレイナの胸に引っ掛かった感情が何なのか彼女はようやく理解した。


 初めて会った時から気に入らない女だった。


 だが神託の儀式において皆を守る聖歌を奏でる彼女の姿に抱いてしまっていたのだ。



 ――憧れを…憧憬を……そして……


 ――希望を



(わたくし)もヤキが回ったものですわ)



 ソレイナの肩のバッグから重みを感じる。


(重いですわ……でも、この重みは……)


 この重みはこの女が得てしまったもの……


 他者の託された想いを理解しようともしない、この愚かな女が無意識に得てしまったもの……



 それは自分が得たくても、得られなかった他者からの絆……


 ――蔑まれる目


 ――何が天才だと陰口を叩かれ


 ――優等生の仮面を被り続けることでしか他者に尊敬されない自分



 ふざけるな……


 ふざけるな……




「ふざけるな!!!!このアマ!!!!!」



 ソレイナは拳を握り締め


 アリアの頬を全力で殴り倒す。



 まだ終わらない。



 ソレイナは倒れたアリアの襟首を片手で掴み上げ更に殴る。



「おまえは…… お前は他者からの想いを何だと思っているんだ!!!」



 殴る



「何でお前なんだ! 何で!!!」



 殴る



「無責任に人を助けて、その信頼を、期待を裏切る気分はどんなんだ…… お前みたいなのをタチの悪い善人って言うんだ!!!!」



 殴る



「私が欲しいものを何でお前は簡単に棄てれるんだ!!!!」



 ソレイナはアリアを掴んでいた手を離した。



 先程まで取り乱していたアリアは気を失ったのだろう静かになっていた。



 ソレイナはバッグから名簿を取り出すとアリアの側に投げ落とし


「好きになさい。ここに居たいのなら、ずっとここに居て頂いてかまいませんわ」



 ソレイナはそう突き放すと扉を開け



「さようなら」



 冷たくそう言い放つと扉を閉めた出て行った。





 あれから、どれくらい時が過ぎただろう。


 アリアは頬の痛みに意識を戻す。


(いたっ……)


 腫れ上がった頬を指で撫でると、痛みが強く走る。


 だが幸か不幸か、その痛みはアリアにこれ以上塞ぎ込むことを許さなかった。


 アリアは顔を洗おうと部屋に設置されている水瓶に向かい水面に映る自分の顔を見る。


 腫れ上がった頬、鼻血、切れた唇……


(初めて会った時のトーヤくんみたい)


 自分の想いを踏みにじった想い人の顔を思い出し暗い気持ちが湧き上がるが、アリアは自然と笑みを浮かべていた。


 ソレイナの言った通りだった。


 ここに籠もっていても現実からは逃れられないことを……




 アリアは顔を洗い、備え付けの医療品で簡単な処置を行ったあと、彼女が置いて言った紙束を調べていた。


 最初は何だろうと思ったが自分の減刑嘆願書と書かれており、中身を読んで驚く。


 それは人々の名前が書かれていた。


 そしてその多くの名前はアリアの記憶にある名前ばかりであった。



 ライクさん……

 13歳の時だ。


 奥さんを失ったばかりで、何も出来なかった自分をとても責めていた。


 そんな彼に自分は想い出と共に前に生きて行ける様に聖歌を歌った。


 今、彼は新しい恋人と共に新しい人生を歩んでいる。



 ノードさん……


 腕の良い職人さんでしたけど、作業で指を落としてしまいお酒に逃げる様になってしまった彼の指を治した時はとても感謝していました……


 今では定期的に孤児院の建物の整備をしてくれていた。



 グーナ……


 早産で産まれ、長くは生きられない子であったがこの子の未来を想った聖歌によって今でも元気に過ごしている。




『あの人の歌、俺大好きなんだよ。妻を失って悲しんでいた時に、あの人の歌は支えだったんだ』


『俺、以前指を無くして途方に暮れていたのだけど、あの人が治してくれて励ましてくれたんだ』


『ありあお姉ちゃんをつれていかないで!』



 あの時トーヤと初めて会った時のことを思い出し、彼らが言った言葉にアリアの瞳が緩む。


(あんなに泣いたのに……)


 それでも止められなかった。


 近所の親しい人達、教団の友人達の名前も多く書かれていた。


 そして孤児院の子供達の名も……


(リルは少し風邪気味だったけど体調は大丈夫かな、ベイツもマリのことを苛めてないかしら……)



(ユーノ……)


 この子は孤児院の中でも、深刻な問題を抱えた娘だった。

 この子自身はとてもいい子なのに……


 署名の端の方にメリアの署名を見つける。


 メリアの名前を見つけたアリアの心中は、酷い申し訳なさが満ちる。


 最後の方と言うことは、署名を行うか最後まで悩んだのだろう。


 だが、それはアリアを見棄てるとか疎ましく思っているとかではない。


 もしもの時はメリアは血路を切り開く覚悟をしていた。



 アリアの瞳から涙が溢れる。


 一生分泣いたと思っていた。


 自分はもう涙を流さない人間になったと思っていた。


 でも、瞳から流れ落ちる滴は、少女の頬を伝う。



 そしてメリアの隣に最後に書かれた名があった。


 ―――――― トーヤ&ティコ


 アリアの瞳から多くの涙が溢れる。


 アリアの脳裏に先ほどの痣になった自分の顔と、初めて会った時のボロボロになったトーヤの顔が甦る。



 ――希望の灯火


 ――彼は私の希望の灯火であった。


 ――でも、灯火は一つではなかった。


 アリアは涙で緩んだ瞳で見る。


 自分を助け様と集まった多くの名を……


 心に甦る、繋がりを…



 自分は何も気付いていなかったのだ、トーヤやメリアだけではなかった。


 アリアは自覚した。


 ”希望の灯火 ”となった()()が多くの人を裏切ってしまったことを……



『結果は棄てることになるだろうが!!!』


 トーヤの言葉がアリアの心に甦る。



(トーヤくんの言った通りだ……私は彼の思いを……皆の希望を捨てようと……)



「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」



 少女は自身を救おうとする人々の名簿にすがりながら、ひたすら赦しを請い続けた……



お待たせして申し訳ありません。


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