40話︰学園編 堕ちし希望
それは雪の降る季節のお話し
王都の、ある孤児院兼礼拝堂に二人の人物が話しをしていた。
1人は少女 ― 名はアリア、教団の若き侍祭である。
もう1人は狐の様な容姿をした男性、名をスネイルと言った。
「……そ、それは本当のことなんですか」
メリアが留守の時に礼拝堂に祈りを捧げたいと訪ねて来たスネイルにアリアが応対することになったのだ。
そしてスネイルはアリアに一礼をし、アリアが知らない自身の素性を語った。
「はい、貴女はジーク・ヴァル公爵とヒルダ妃の間に産まれた旧聖王家の最後の血筋です。 本来であればもっと早くに迎えに来るべきでしたが、我等も旧公爵家の領土の建て直しを進めていたこともあり迎えが遅れたことを御詫び致します」
メリアからはアリアの素性は親類の孤児を養女に引き取ったと聞いていたが、スネイルがアリアに話した内容が事実だとしたら、あの時のメリアの態度……傅ずいたことについて説明がつく。
普段ならばアリアはこんな突拍子のない話しを信じなかっただろう。
だが、最近あった大司教からの聖人の話しがアリアにその話しを信じさせた。
表面上は冷静に取り繕っても不安を払拭出来ないのは仕方なかったのだ。
そしてアリアは求めた。
自分のルーツを……過去を
最終的にはそれは驚く様な内容であったが、アリアは”ある人物”の助けによって希望を見出だすことになった。
だが、その希望は……いま
周囲に紙幣が舞い上がる。
そしてその麓に1人の少年が奈落へと落ちる様に倒れる。
アリアはその姿を脳が認識出来ないでいた。
体が震える。
何故震えるのかアリアにはよく分からなかった。
それは恐怖……
置いて行かれる子供が抱く様な恐怖が、彼女の心中を支配した。
「スネイル子爵子! 何故彼を!!」
クロスティルはスネイルに怒りの表情で詰め寄る。
スネイルがトーヤに何かしらの魔術を使ったのは分かった。
クロスティルは騎士侯の子であり一通りの戦闘技術を学んでいたので、スネイルが何かしらの魔術を使用しトーヤを攻撃したのが分かったのだ。
「フン!!これは無礼討ちだ。我の施しに、こともあろうことか足りぬと難癖を付けてきた上、訳の分からぬ言を歌った下郎を成敗したまでだ」
スネイルはクロスティルに鋭い視線を向ける。
それは『俺の言が正しいよな』認めよと言う無言の圧力だ。
クロスティルはその内容を理解していた。
この国の貴族の身分である『子爵』と『騎士侯』では身分の違いに大きな隔たりがあった。
スネイルの言を認めなければ家に家族に迷惑が掛かるだろう。
だが……
「彼が言ったことは極論だ。貴方の……貴族の名誉を酷く傷つけたことも理解できます。 しかし!これはやりすぎだ! 王太姫殿下から貴族による勝手な粛清は厳禁であると御触れが出ているのはご存知のはずだ…… なのに貴方と言う方は!!」
クロスティルはスネイルに厳しい表情で詰問を行う。
トーヤの発言は確かに極論であり言いがかりに近いものではあったが、その本質はクロスティルには理解できた。
『自分は何の上に立っているのか』
トーヤが言いたかったのはそうだった様にクロスティルは感じたのだ。
その言葉の意味はクロスティルの意思に強い影響を与えていた。
「貴様……、そこまで言うからには覚悟は出来ているのだろうな」
スネイルのその言葉の返答をするかの様に、クロスティルはトーヤの容態を確認を始めた。
呼び掛け、脈拍、呼吸の有無、心臓の鼓動……
(これはまずいな)
クロスティルの家は王都の近衛騎士の家系であり、父は怪我で職を辞しているが今は姉が代わりに近衛の務めを果たしている。
そしてその務めを受け継ぐ為にクロスティルは多くの努力をしており、簡単な施術くらいの医学を修めていた。
だから理解したのだ。
今のトーヤはかなり危険な状態だと
「アリア様!!」
アリアの聖歌呪法なら助けられるかと、クロスティルはアリアに向き声を掛けたが
返事はなかった。
アリアは放心した様な表情で震えていた。
クロスティルはその表情から悟る。
それは何か大切なモノを失った人間の表情だった。
(そんなにトーヤのことが……)
アリアの心がどれだけトーヤに傾倒していたのか理解したクロスティルは、彼女を慰めてあげたかった。
だが、クロスティルにはアリアに気遣う余裕はなかった。
急ぎアリアに近寄ると
「御免!!」
響き渡る高い音
クロスティルはアリアの頬を叩いたのだ。
「申し訳ありません!!この償いは如何様にも受けます。ですが今は……彼を……トーヤを助けることだけをお考えください!! どうか私に彼に謝る機会を…今彼を助けられるのは貴女だけなんです!!」
アリアは頬に受けた痛みとクロスティルからの”トーヤを助ける”と言う言葉から意識を戻す。
(私は何を呆けたことを!!)
アリアは自分に言い聞かす。
自分は何だ……トーヤを助ける力を持っているのに、自分は今まで何の為に力を研いていたのだ。
それは今この瞬間……
大切な人を失わない為ではないはずなのに!!
アリアの空気が変わる。
その表情は必ず助けると言う覚悟に満ちていた。
そのアリアの表情にクロスティルは希望を見出だした。
それは噂だけの話しではない、彼女の聖歌呪法を側で見たからの確信だ。
多くの医者、魔術師、神官達が妹の病に敵わなかった。
だが自分と同じ年齢の少女の奏でる聖歌によって病が癒えたのだ。
最初は半信半疑だった。
歌で人を救うなどと馬鹿にしていた。
しかし、その奏でられた聖歌を見聞きしたクロスティルは、その奇跡の様な光景に
―――女神とはこの様な人のことを言うのか
と悟ったのだ。
アリアはトーヤの容態を診る。
その状態にアリアは涙が出そうになる。
その涙は、哀しみか、怒りか、それとも……
(意識はない、呼吸は……止まっている、心臓の動きは……まだ微かにある!)
アリアは一時瞳を閉じ、一節の唄を奏でる。
「ッ……」
瞳を開いたアリアの瞳に写ったトーヤの姿に息が詰まりそうになる。
それは”華”だ。
どこから現れた華の弦の様なものが、トーヤの全身を飲み込もうとしていた。
そのあまりのおぞましい光景にアリアは唄の力を一時遮断し、深呼吸を行う。
(……死の定めがトーヤさんを)
――死の定め
アリアは聖歌呪法を使い、多くの人を治療する過程で見つけ名付けた現象である。
本来は死したる者を世界の円環に返す《葬送の華》と呼ばれるものであると教団の書物に記載があった。
アリアがそれを見つけたのは偶然だった。
未熟な頃、治療による聖歌呪法の節を間違えた際にアリアは見えてしまったのだ。
教団の資料では本来なら死人にしか飲み込まないはずの華が、生者を飲み込む現象を……
そしてその華の死からはどんなに健常者であっても逃れられないことを……
(まだ生きているのに、どうしてトーヤくんに死の定めが!)
以前の自己の世界での治療の際は、死の定めがトーヤを侵すことはなかった。
なのに今回に限ってどうして!とアリアに疑問が生まれるが
(いえ、今はそんなことを考えている時間はない!!)
一刻も争う事態にアリアは考えを切り替える。
(呼吸の停止も、鼓動の弱さも致命的だけど、一番危険なのは……)
トーヤの命を飲み込こもうとする《葬送の華》だろう。
たとえアリアが聖歌呪法でトーヤを治療しても、《葬送の華》をこのまま放置すれば確実にトーヤの命は失われる。
だが《葬送の華》を何とかしても、呼吸も停止し心臓も止まりそうなこの状態を放置してもトーヤは死んでしまう。
そして、アリア1人では治療と華の除去のどちらかしか出来ない。
その選択の前にアリアに迷いが生じる。
(どうすれば!どうすれば!)
このまま時間が過ぎればトーヤの鼓動も止まり息絶える。
たとえ命を助けることが出来ても呼吸の停止による障害が残って意識が戻らないとなると……
アリアの脳内に様々が考えが回るように巡る。
「アリア様!」
そのアリアの迷いを断ち切るかの様に、クロスティルはアリアに強く声を掛ける。
アリアは思考の海から意識を戻した。
「えっと、あの……」
アリアは目の前の青年の名前を言おうとしたが、名前が出てこない。
(……な、何てお名前だったかな?)
アリアが言葉に詰まるのを見たクロスティルは苦笑いを浮かべて名前を告げる。
「クロスティルと言います、以前貴女に家族を助けて頂いた者ですよ」
その言葉にアリアは自分が恥ずかしくなった。
「アリア様。私は何をすればよろしいですか」
クロスティルのその言葉はアリアが欲しかった言葉だ。
「簡潔に説明します。今、トーヤくんの呼吸は止まり、心臓もかなり弱々しい状態です。 クロスティルさんにはトーヤくんの心肺の応急措置をお願いします」
クロスティルの出で立ちと体型から、騎士の家柄だと判断したアリアはクロスティルに心肺蘇生の応急措置を願う。
戦いを生業とする騎士には、教団から最低でも簡易的な応急手当の講習があったことを覚えていたアリアはクロスティルなら出来ると思ったのだ。
「承知しましたが、アリア様はどうなさるので」
クロスティルに脳裏に過ったのは聖歌呪法で蘇生するのが確実だと言う疑問が出る。
彼女のことだろうから何か理由があるのだろうが……
「私は聖歌でトーヤくんの葬送の華を除去します」
その言葉の意味の不明点にクロスティルの疑問は更に深まるが、彼女の判断だ何か重要なことだと思い、疑問はまた後で聞くことすることにした。
こうしてトーヤの蘇生は始まった。
アリアから見てもクロスティルの措置は完璧なものだったが、それでもトーヤが助かるかどうかはかなりの賭けだ。
アリアは聖歌を奏でトーヤを飲み込もうとした葬送の華を除去して行く。
アリアの聖歌に華や弦はその存在が最初から存在しないかの様に消滅していく。
今回の様な事例は初めてではない、以前にもこうして聖歌によって華を消滅してきたアリアにとって上手く進んでいる感触を得る。
(これなら考えていたより早く終わりそう。早く終わらせてトーヤくんの本格的な治療をしないと)
アリアの心中にまだ短いがとても大切なトーヤとの想い出が甦る。
その想い出は、想いを力とする聖歌呪法に更なる力を発現させトーヤの《葬送の華》を完全に消滅させることが出来るはずだ。
本来であれば……
そこは白い世界
アリアが聖歌呪法を発現する際、心に投影する心中の想像の世界である。
聖歌の集中力の為に白一辺倒の澄んだその世界に一つの異物が産まれた。
それは小さな”赤黒いシミ”であった。
今まで無かった者の誕生にアリアは狼狽した。
如何に切迫した時でも、どんな想いを抱いた時でも自身の聖歌の根幹を支える、この心の世界に異物が産まれることはなかった為にだ。
血の様なそのシミは少しずつ拡がり、アリアの白い世界を侵そうとしてくる。
自分の聖歌に乱れが生じて来ているのが分かる。
現にトーヤの《葬送の華》の勢いが僅に増して来ていた。
このままでは葬送の華の除去に時が掛かり、トーヤの症状の治療が遅れればそれでもトーヤが死ぬ。
アリアは心を落ち着け様とし、再びトーヤとの想い出を心に甦らせる。
―――「頼りにしているぞ」
その言葉と差し出された手がどれだけ温かく嬉しい言葉だったか、最初に強い感謝があった、その強い心に尊敬の念があった、遠い存在かと思われた人から必要とされる……
それはアリアに芽生えたとても大切な想いであった。
その想いはアリアの聖歌の力を更に磨き上げる。
だが、その想いに抗するかの様に赤黒い存在は人の形を取り、そして言葉を発した。
『……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ゼッタイニユルサナイ』
その言葉は呪いの様にアリアの白い世界の半分を赤黒く……血の世界の様に染め上げる。
人の姿を取ったその存在にアリアにはとても見覚えがある人物だった。
それは鏡でいつも見ている
――自分と同じ顔の人物だった。
『そんなに想っているのに……何より大切な人なのにお前は……お前は!許せるのか!!』
赤いアリアの怒号が響き渡った。
その怒りは白い世界を維持してきたアリアの心を抉る。
『私の希望を大切な灯火を……あの男は、あの男はゴミの様に踏みにじったのだぞ!!』
『お前は悲しくないのか!!憎くないのか!! 赦せるのか!! 何時だってそうだ!お前は怒りや哀しみを仮面で誤魔化して明るく優しいアリアを演じて来た。今回も貴族達の為に良い子ちゃんを演じるつもりか!!!!』
『お前は私だから分かる…… あの人が私達にとってどれだけ大切なのか、あの手の温もりも私を必要としてくれた言葉も……お前はまたお得意の仮面被りで誤魔化すつもりか!!』
『黙って…黙って!!!!!』
赤いアリアの強い怒りに白いアリアも我慢出来ずに大声を発する。
『今は協力して、トーヤくんを助けたいの、貴女もトーヤくんを失いたくないでしょう…… お願い今は静かにして……』
アリアのその意志により赤黒い存在は静かになる。
そして少女は聖歌を奏でる。
大切な人を救う為に
だが、普段は澄んだその心中はいつもと違う想いが渦巻いていた。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。私は偽善者だ……救うなど何て傲慢な…トーヤくんをこんなにしたのは……)
(私だ)
(私がもっと強ければ、トーヤくんにこんなことで頼る様な弱い人間でなければ、彼をこんな目に、こんな状態に)
(ごめんなさい、ごめんなさい)
少女は歌を奏でる。
弱い自分を責める己の心と共に……
治療は終わった。
アリアはトーヤを飲み込もうとしていた葬送の華を完全に除去し、その間トーヤが死ぬことが無い様にクロスティルが必死に心肺蘇生を行ってくれた為に治療も間に合った。
しかし……
「目を覚ましませんね」
眠っているかの様だが、この状態は意識を失っている状態だ。
アリアの表情は暗い。
その表情にクロスティルは嫌な予感が過った。
「歌による治療は上手く行ったのですよね」
クロスティルは恐る恐るアリアに聞きにくいことを聞く。
だが、その回答は
「治療は施しました。喫緊の命の危機はないです…… でも、でも……」
アリアの瞳から涙が溢れる。
哀しみに染まった涙が……
「グズッ……覚醒の聖歌も施しました。でもトーヤくんは目を覚まさない……」
アリアの知識は理解してしまったのだ。
恐らく脳に致命的なダメージを受けて意識が戻らなくなったのだろう……
言葉にしてアリアはようやく理解したことがあった。
全ては失われたのだ。
あの温かい手も、厳しくも優しい言葉も、自身の夢も、そして
―――希望も
『ああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!』
心中の赤いアリアが雄叫びの様な泣き声を発する。
他人事の悲しみではない、その泣き声は自分の心の慟哭だ。
「トーヤくんごめんなさい、私が力不足だから弱かったから貴方を……」
アリアの瞳から涙が溢れる。
(トーヤ、君はこんなにも彼女の心を掴んでいるのに、もう目覚めないつもりなのか)
クロスティルは悲しみに染まるアリアを見ていられなかった。
今だからこそ分かる。
彼女の笑顔は大切な者が居たからこそ輝いた笑顔だったことを……
瞳を赤く泣き腫らしたアリアはクロスティルに声を掛ける。
「クロスティル様ありがとうございました。お礼ついでに申し訳ありませんが」
「トーヤくんのことをお願いします」
そう言ったアリアの雰囲気は先ほどまでの悲しんでいた少女とは全く違う様相を呈していた。
「まっ……」
その変化した空気に嫌な予感がしたクロスティルはアリアを止めようとしたが、アリアはその声に構わず立ち上がり歩んで行く。
スネイルの許に……
アリアの心中に居た赤いアリアは怒りにその姿を焦がさんとし、自分の理性に怒りと憎しみをぶつけて来る。
アリアは自分のその感情に冷や水の様な冷静な意志をぶつけた。
『止めなさい。貴女がどんなに喚こうが、その姿を焦がそうが、それは意味のないことだわ』
『私は絶対にユルサナイ、お前の弱さもあの男も、希望が失われたのもお前が……お前が弱かったからだ!!!』
自分の怒りがぶつけて来る感情はアリアを深く傷付けていく。
―――弱かったから
そう、自分は弱かった。
他人の目ばかり気にし、自分の何の意味もない過去にこだわり、そしてその弱さがスネイルの様な男に付け込まれ夢を失った。
『貴女の言う通りよ』
少女は再び仮面を被る。
『私が弱かったから、トーヤくんがあんなことに』
その仮面は少女の今までの人生で存在しなかった、それは……
『私も同じ気持ちだよ……』
アリアは自身の怒りと憎しみに手を差し出す……
周囲に響き渡る癇に障る笑い声。
愚かしい喜劇でも観て笑っているスネイルをアリアは観る。
その傲慢な姿にアリアの心が一つの意志となった。
(……赦さない……この男だけは……この男だけは……絶対に赦さない!!!!)
アリアの心中は冷たかった。
だが、その怒りの熱は全身に行き渡ろうとしていた。
怒りの炎で鍛え上げ、氷の様な冷たき心で鍛え上げられたその仮面は
少女が初めて心に被った仮面……
殺意と呼ばれる感情となった。




