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6 ソロモンの悪夢

 両軍の巡洋艦部隊同士の砲戦は、互いに決定打を出せぬまま続いていた。


「……」


 主砲発射の轟音が響く中、早川艦長はちらりと第八艦隊司令部の表情を窺った。発砲炎に一瞬照らされた彼らの顔は、一様に渋かった。しかし、三川長官は艦隊運動に関して何ら命令を出さず、大西参謀長以下の参謀連中も、何ら意見具申を行う様子はない。

 現在、両艦隊の距離は一万二〇〇〇メートル程度になっていたが、米巡洋艦部隊はまったく変針する様子はない。

 三川長官が距離一万二〇〇〇で魚雷発射始めの命令を下したため、鳥海以下五隻はその距離まで敵艦隊に接近したが、以後、こちらも針路を変えていない。

 つまり、夜間であるにも関わらず両艦隊は一万メートルを越えた距離で延々と射撃を続けていることになる。

 突撃命令をいつ出すつもりなのだ、と早川は司令部批判に等しいその進言を喉まで出しかける。だが、言えばまた参謀連中と口論になるだろう。艦長として艦の指揮をしなければならない砲戦の最中に、それは拙いと判断した。

 不満はあるが、今は艦の指揮に集中しなければならない。

 鳥海が九度目の交互射撃をした直後、船体に衝撃が走った。それと共に、爆音が艦橋に届く。


「被害知らせ!」


 敵弾の方が、先にこちらを捉えたのだ。

 当然か、と早川は冷静に思う。こちらが九度の射撃を行う間、相手はその倍以上の砲弾を放ってきたのだ。必然的に、命中弾を出すのも早いだろう。


「飛行甲板に直撃弾! 右舷カタパルト全壊!」


 搭載していた水偵は全機、発進させてある。燃料などが誘爆を起こす可能性はなかった。

 さらに、鳥海が十度目の射撃を行うのと入れ替わりでクリーブランドの六インチ砲弾が船体を直撃する。

 今度は、前部錨鎖庫付近に被弾。多量の浸水が生じ、速力を三十ノットから二十五ノットに落とさざるを得なくなった。

 待ち望んだ命中弾が出たのは、十一度目の射撃だった。


「敵艦後部に命中一を確認!」


「次より斉射に移行!」


 ようやくその命令が出せたことに、早川は安堵と興奮を覚える。

 鳥海のこれまでの鬱憤を晴らすかのように、十門の主砲が一斉に火を噴く。戦艦ほどではないが、頼もしい衝撃が船体を揺さぶる。

 だが、敵巡洋艦の発射速度は異常に早かった。鳥海が二度目の斉射を放つ前に、新たな直撃弾が生じたのだ。

 艦橋直前の第三砲塔から、爆炎が上がる。


「っ……!」それを見た早川は、被害報告がもたらされるよりも早く命令を下していた。「第三砲塔弾薬庫に注水! 急げ!」


 この時、クリーブランドの放った六インチ砲弾の一発が、鳥海の第三砲塔を直撃していた。

 高雄型(正確には日本の重巡)の主砲塔の装甲は二十五ミリしかない。クリーブランドの六インチ砲弾は砲塔前楯を貫き、砲塔そのものを破壊していた。


「消火、急げ!」


 そしてその第三砲塔周辺では、砲塔内の装薬が誘爆したことによる火災が発生した。


「弾着観測機より入電! 敵駆逐隊が本艦に接近中! さらに敵巡洋部隊は煙幕の展開を開始した模様!」


「砲術長、目標を接近中の敵駆逐艦に変更せよ!」


 砲戦を有利に展開しつつある敵が煙幕を張った意図は不明だが、敵駆逐隊の意図は明らかだ。

 雷撃を受けることだけは、何としても阻止しなければならない。


「艦隊、取り舵に転舵」それまで黙っていた三川長官が、突然の命令を発した。「敵艦隊との距離を取れ」


 一瞬、早川艦長は三川長官の意図を察しかねた。取り舵に転舵するということは、事実上、この海域から離脱することになる。


「長官、敵艦隊の撃滅は確認されておりません」


 流石に我慢のならなかった早川は、強い口調で主張した。


「敵は煙幕を展開している。遁走を図ったものと見てよかろう」


 一方、三川長官は早川と目を合わせることなく、そう返した。

 あまりに状況判断が甘すぎる。思わず、早川はそう怒鳴りかけた。だが、敵駆逐隊が接近している状況で、口論に意識を向けるわけにもいかない。

 あるいは、三川長官はこちらが反論するだけの状況的余裕がないことを見越して、事実上の離脱命令を下しているのではなかろうか。

 今まで溜まっていた不満から、思わず早川の脳裏にはそのような邪推めいた思考が浮かんでしまう。


「……航海長、取り舵だ。砲術長、目標は変わらず敵駆逐艦」


 ささくれ立った口調のまま、早川は部下に命じた。

 旗艦である鳥海が取り舵に転舵したことを受けて、後続の第五戦隊、第六戦隊もそれに続いていく。






 一方で、それを良しとしない艦長も存在していた。

 霧島艦長、岩淵三次大佐である。

 彼は鳥海を先頭とする巡洋艦部隊の最後尾にあるという位置的状況、そして水偵と電探からもたらされる断片的状況から、煙幕の中に隠れた米巡洋艦部隊の意図を察していた。

 電探の情報によると、どうも敵巡洋艦部隊は南方に進みつつあるらしい。

 つまり、敵巡洋艦部隊は煙幕を展開した直後、一斉回頭を行った可能性があるのだ。


「旗艦に信号。我、三水戦ヲ援護ス」


 敵が南方に向かう理由は、一つしかない。ガ島の島影に隠れ、機を見て突撃しようとしている三水戦を撃破するためだ。

 本来、鳥海以下、自分の霧島を含めた五隻は敵巡洋艦の砲火を引きつけて水雷戦隊の突撃を援護するためではなかったのか。

 だとすれば、第八艦隊司令部の命じた戦術行動は、いたずらに三水戦を危険に晒すだけである。

 岩淵が鳥海に従わず、独断での行動を決意したのはそうした理由からであった。水雷戦隊の援護という名目ならば、当初の作戦行動を考える限りでは、明確に命令違反と言い難い面があったことも、彼の決断を後押ししていた。


「上空の水偵に伝達しろ。煙幕の切れ目でも何でも構わん。敵艦を視認したならばその位置を逐次報告するように。それと電探室。大雑把にしか判らんだろうが、敵巡洋艦部隊との距離を測定しろ。砲術長は水偵と電探室からもたらされる数値を元に、射撃を行え」


 本来は対空用である二一号電探を対水上電探として電探射撃を試みた事例は、すでに戦艦武蔵で(訓練射撃とはいえ)存在している。武蔵の通信長が作成した電探解説書は各所に配布され、電探を装備することになった霧島艦長の岩淵も読んでおり、だからこその命令であるともいえた。

 この直後、霧島は日本海軍において初めてとなる実戦での電探射撃を行うことになる。


  ◇◇◇


 一方、第八艦隊に対してレーダーを用いて先制することに成功したメリル少将であったが、内心では欠片も余裕などなかった。

 巡洋艦部隊を護衛すべき駆逐艦の数が、極端に少ないことが原因であった。

 後衛駆逐隊は、輸送隊の襲撃を企図していたと思われるジャップの別働隊と混戦状態に陥ってしまったため、まるであてに出来なくなってしまっている。

 敵水雷戦隊を阻止すべき駆逐艦兵力が、第六十八任務部隊では決定的に不足しているのだ。

 レーダーによってガ島側に確認されたジャップの水雷戦隊と思しき反応を探知すると、メリルは敵巡洋艦部隊との砲戦を即座に切り上げる決断を下した。

 この時、時刻は二三五六時。

 砲戦の開始から、十分も経っていなかった。

 敵巡洋艦部隊には牽制のために前衛駆逐隊を突撃させることで対処し、直接率いているクリーブランド以下軽巡四隻で敵水雷戦隊の撃退にあたることとする。

 煙幕を展開し、その中で巡洋艦戦隊に一斉回頭を命じた。

 クリーブランド、コロンビア、モントピリア、ヘレナの順で進んでいた戦隊が一斉に一八〇度旋回し、艦の順序が逆になる。

 また、この一斉回頭の副産物で、巡洋艦戦隊は鳥海以下の放った魚雷から逃れることになった。


「こちらレーダー室。敵水雷戦隊と思しき反応、二手に分かれました。我が戦隊を左右から挟み撃ちにしようとしている模様!」


「判った。ヘレナ、モントピリアは右砲戦開始。コロンビア、クリーブランドは左砲戦開始」


「アイ・サー」


 合衆国巡洋艦戦隊は射撃諸元の再調整のため、しばし沈黙した。






「第八艦隊司令部は何を考えていやがる……」


 不満も露わに、川内艦橋で第三水雷戦隊司令官・橋本信太郎少将は呟く。

 川内の見張り員は、鳥海を始めとした重巡が退避行動と思しき戦術行動を取っているのを確認していた。鳥海は艦前部で火災が発生しているようなので、よりはっきりとその行動が見えた。

 この時、橋本司令官は隊列を二つに分けていた。

 一つは、旗艦川内を先頭に第十一駆逐隊の吹雪、白雪、初雪、叢雲と続く隊列。もう一つは、第二十駆逐隊旗艦朝霧を先頭に、夕霧、天霧、白雲、第十九駆逐隊の磯波、浦波、敷波が続く隊列である(第二十駆逐隊司令の山田雄二大佐の方が、第十九駆逐隊司令の大江覧治大佐よりも一期先任)。


挿絵(By みてみん)


 これによって敵の砲火を分散させると共に、敵巡洋艦部隊を挟撃することを意図していた。

 これら二本の隊列が、敵艦隊左舷後方(この時点で、三水戦司令部は敵艦隊が第八艦隊に同航戦を挑み、北上していると見ていた)から接近していたのである。

 だが、その想定は一本の通信によって覆された。


「失礼いたします! 霧島より、平文の通信です!」


「平文だと!?」


 橋本は一瞬だけ、目を見開く。暗号電を組む間もないほどの緊急ということか。


「読め」


「はっ! 煙幕中の敵巡洋艦部隊、貴方に向け反転した模様。以上です!」


「……拙いですな」


 川内艦長・森下信衛大佐が固い声で言った。


「第八艦隊が退避行動を取ったのを見て、こちらに目標を移したのでしょう」


 本来、三水戦は第一艦隊所属なので、森下は鳥海以下の重巡群を「第八艦隊」と呼んだ。どこか突き放した感じの声音であった。


「重巡部隊はあてにならん。我々のみ敵艦隊を撃滅するつもりで突っ込むぞ」


「望むところです」


 にやりと森下は豪胆さを湛えた笑みを浮かべる。


「よろしい」橋本司令官も応ずるように笑み見せた。「三水戦各艦に通達。最大戦速、目標、敵巡洋艦部隊。全艦突撃せよ!」


 川内隊は東側、朝霧隊は西側に回り込むように、突撃を開始した。艦首波が一気に大きくなり、切り裂かれた海面から白いしぶきが上がる。

 不意に、川内の周辺に弾着を示す水柱が次々と立ち上る。

 それとほぼ同時に、煙幕の中から敵巡洋艦部隊が姿を現す。いかに米軍が優れた電探を持つとはいえ、煙幕の中ではまともな弾着観測が出来ないのだろう。


「左砲雷戦用意! 目標、敵巡洋艦部隊!」


 橋本司令官が鋭く命令を飛ばす。


「先頭の敵はブルックリン級、後続の三隻は敵新鋭重巡と認む!」


 見張り員の報告に、森下は片頬を持ち上げる笑みを作った。

 相手にとって不足なし、といったところ。ルンガ沖海戦では二水戦が米重巡部隊を壊滅させたというが、同じだけの兵力を持つ自分たち三水戦が出来ないはずがない。

 それに、自分の川内は第三次ソロモン海戦で米新鋭戦艦サウスダコタ撃沈の立役者でもある。この艦の戦果に、新たに米新鋭重巡が加わるのも悪くないと思っている。


「戦隊、取り舵に転舵!」


「宜候。とぉーりかぁーじ!」


 米巡洋艦部隊の進行方向に対して、川内隊はちょうど片仮名の「イ」の字を逆にしたような形で接近していた。これでは敵艦を縦に見ることになるので、魚雷を発射しても意味がない。そのため、橋本司令官は敵艦隊と反航戦になるように転舵を命じたのである。


「敵一番艦周辺に弾着あり! 霧島からの射撃の模様!」


「……岩淵先輩」


 兵学校の二年先輩である霧島艦長に、森下は一瞬だけ黙礼した。恐らく、敵巡洋艦の砲火を引きつけようとしてくれているのだろう。

 ならば、こちらはその献身を無駄にするわけにはいかない。


「左砲雷戦、反航! 目標、敵一番艦、撃ち方始め!」


 森下の号令一下、敵艦隊と相対する針路に入った川内の十四センチ砲が射撃を開始した。

 川内は三十五ノットの高速で鉄底海峡を疾走する。その周囲に、弾着を示す水柱が林立した。


「ただ今の敵弾による被害なし!」


 そうは言っても、撃ちまくられている今の状況は拙いと森下は判断していた。敵の射撃速度は速い。水柱を見る限り、砲門数も多いだろう。これでは遠からず、直撃弾が出る。下手をすれば、第三次ソロモン海戦での長良の二の舞である。


「司令、このままでは直撃されます。回避行動を取っても?」


「構わん。川内の指揮は君に任せる」


「了解!」


 信頼を込めた橋本司令官の応諾に、森下は快活な返事をした。


「航海長、ジグザグ航行だ! 取り舵二〇度!」


「宜候。取り舵二〇度!」


 森下の命令が舵輪を通じて川内に伝えられる。彼は操艦の名手として乗員たちから信頼を集めている男であった。だからこそ、橋本司令官も川内の操艦について一切口出しせず、森下にやりたいようにさせたのである。


「第十一駆逐隊に信号! 距離五〇にて雷撃開始!」


 敵の砲火が川内に集中しているのを悟った橋本司令官が、後続の四隻の駆逐艦に命令を下す。万が一、川内が撃破されても、雷撃だけは敢行しなければならない。

 この時、メリル少将麾下の四隻の巡洋艦の艦長は、それぞれレーダーによって捕捉した最も目立つ艦、あるいは最も近い艦に射撃を集中していた。これは後々、ニミッツ長官からも批判される米艦艇がレーダー射撃において行う悪癖の一つであった。

 そのため、左砲戦を命ぜられたクリーブランドとコロンビアは川内を、右砲戦を命ぜられたモントピリアとヘレナは朝霧を、それぞれ目標に射撃を続けていたのだ。

 任務部隊司令であるメリル少将も、こうした射撃方法にさして疑問を覚えていない。

 二隻のクリーブランド級軽巡、合計二十四門の六インチ砲に狙われていながら、川内は巧みな回避運動で被弾を回避していた。まるで水柱の合間を縫うようにして、クリーブランド以下四隻に接近を続けている。


「面舵十五度! 十五秒後に取り舵三十度だ!」


 敵艦を見据える森下は、右足で調子(リズム)を刻んでいた。敵艦新鋭巡洋艦の発射間隔、それと弾着までの時間を直感的に計算し、川内を小刻みに、そして不規則にジグザグに転舵させている。艦齢二十年近い彼女は、機関の轟音を響かせながら森下の意思に的確に応じていた。


「敵艦との距離、六〇!」


 森下は敵艦隊に接近する取り舵の角度を面舵よりも大きくしている。だから、徐々に敵艦との距離を詰めていた(これには、あえて大きく舵を切ることで敵艦に被弾面積の大きい横腹を晒さないという意図もある)。

 敵弾が川内の手前に着弾し、左舷側に盛大な水柱を吹き上げさせる。


「敵新鋭艦の射撃速度は伊達ではないな」


 感嘆と危機感のない交ぜとなった声で、橋本司令官はそう評した。


「ええ、こいつは回避運動を止めた途端、お陀仏になりそうですな」


 そうは言いつつもどこか楽しげに航海長に命令を下す森下を、橋本は頼もしく思う。


「君はそのまま、川内の操艦に集中していてくれ」


「はっ!」


「通信! 第十一駆逐隊に信号! 貴隊ハ我ヲ省ミズ突撃シ、雷撃ヲ敢行スベシ!」


 川内が敵の砲撃を引きつけている内に、後続の駆逐隊に雷撃を敢行させようというのである。

 すぐに吹雪から信号了解の返答があった。三十五ノットであれば、一〇〇〇メートルの距離を詰めるのに一分とかからない。


「取り舵二十度! 急げ!」


 だから、川内はあと一分間、敵の砲火を引きつけていればいいのだ。

 川内の周囲に何本目となるか判らない水柱が生じるのと、森下が弾着の轟音に負けじと怒鳴るのは同時であった。


  ◇◇◇


 煙幕から巡洋艦戦隊が出るか出ないかといった刹那に、ヘレナを先頭とする隊列に唐突に巨大な水柱が立ち上った。

 明らかに、戦艦クラスの巨弾によるものである。


「何事だ!?」


 即座に、メリルは状況報告を求める。


「こちら見張所。右舷に敵コンゴウ・クラスらしき艦影を確認!」


「……」


 メリル少将の瞼が痙攣した。敵の巡洋艦戦隊の旗艦に打撃を与え、退避させたと判断していたのだが、大物が一隻、残っていたらしい。

 だが、今更どうすることも出来ない。すでに彼は四隻の軽巡に目標を伝えてしまっている。今更、敵コンゴウ・クラス……暗号解読によると、ソロモンにただ一隻存在するコンゴウ・クラスの艦名はキリシマらしい……に目標を変更しては要らぬ混乱を生む恐れがあり、また照準を再調整するための時間も浪費する。

 このまま、当初の指示通りに射撃を開始するしかなかった。


「コンゴウ・クラスに構うな。今はジャップの水雷戦隊を撃退することを優先せよ!」


 メリル少将は動揺を感じさせない声で、四隻の軽巡に告げる。

 それに、脅威度でいえばジャップの水雷戦隊の方が大きい。敵戦艦の射撃に幻惑される必要はないだろう。

 そう、メリルは判断していた。

 これは、霧島からの射撃がどの艦を狙ったのか判らないほど照準が甘かったことも、その判断を下す要因となっていた。

 日本海軍初の実戦での電探射撃は、ヘレナを目標とした岩淵の意思に反して、まるで見当違いの海面に着弾していたのである。


「ファイア!」


 メリル少将の命令を忠実に守った各艦は、それぞれの目標に向けて射撃を開始する。

 降り注ぐ巨弾を無視するようにして(射撃速度の差と彼我の砲門数を考えれば、十分に無視出来た)、四隻の軽巡は十秒に一度の射撃を放つ。

 爆炎は、隊列の右舷側に発生した。


「敵駆逐艦一隻に火災発生! 行き足、止まります!」


 クリーブランドに見張り員の報告が寄せられる。ヘレナかモントピリアの砲弾が、右舷側から迫る敵水雷戦隊の先頭艦を撃破したらしい。


「こちらはまだ直撃弾を得られんのか?」


 だが、クリーブランドとコロンビアは射撃を繰り返しながら、未だ直撃弾を得ていない。メリル少将は焦れたように尋ねた。


「申し訳ございません。敵の回避行動が巧みなようです」


 クリーブランド艦長エドムンド・W・バーロウ大佐が唇を噛みしめながら返答した。

 その直後、先頭を進むヘレナの艦上に爆炎が上がった。


「ヘレナ被弾、速力低下します!」


 見れば、ヘレナは火災を発生させつつ、よろめくように速力を低下させていく。機関部と操舵装置に損傷を負ったようだ。

 この時、霧島は距離七〇〇〇メートルにて射撃を行っていた。戦艦にとっては超至近距離ともいうべき距離であり、四発の三十六センチ砲弾の内、二発がヘレナへの直撃弾となった。九一式徹甲弾は軽巡の装甲を紙のように突き破り、艦内深部で信管を作動させていたのである。


「モントピリア、取り舵に転舵!」


「隊列を乱すな!」


 見張り員の報告に、メリル少将は間髪を容れず指令を飛ばす。各艦がヘレナを避けようと思い思いの方向に舵を切れば、混乱が生じてしまう。


「……」


 メリル少将は緊張感に顔を強ばらせた。変針により、射撃を一時中止しなければならない。自艦の位置が変わったので、射撃諸元を最初から求め直さなくてはならないのだ。

 そして、射撃を停止している隙を、ジャップの水雷戦隊が見逃してくれるとは思えない。


「まもなく、ジャップの水雷戦隊とすれ違います! 残りおよそ十秒!」


 レーダー室からの報告に、メリル少将は緊張で乾いた唇を舐めた。

 相対速度は七〇ノット近い。十秒でおよそ四〇〇ヤード(約三六〇メートル)の距離が詰まることになる。

 沈黙する三隻の軽巡。金剛型から降り注ぐ巨弾。そして断末魔のヘレナ。

 海上はジャップの水偵による吊光弾と合衆国艦艇の打ち上げた星弾とで、不気味な明るさを湛えている。


「まもなく十秒! 三、二、一……。敵水雷戦隊、後方に抜けました!」


「全艦、一斉回頭!」


「アイ・サー!」


 クリーブランドの舵輪が回され、彼女たちは二度目の一八〇度回頭を始める。

 この一斉回頭でジャップの魚雷を躱せるかどうか。

 全乗員たちにとって緊迫の時間が始まった。


  ◇◇◇


「吹雪より信号! 『我、魚雷発射完了』!」


「第十一駆逐隊に信号。十秒後に面舵に転舵。離脱の後、魚雷の再装填を行う」


 右へ左へと高速で転舵を繰り返す川内の艦橋で、橋本少将は命じた。

 十秒間、第十一駆逐隊に直進を指示したのは、米軍にどの瞬間に魚雷を発射したのかを悟らせないための偽装であった。

 現在、米巡洋艦部隊は炎上した先頭艦を避けるために転舵しており、射撃を一時停止しているため、第十一駆逐隊は落ち着いて照準を定めることが出来ただろう。


「艦長、よくやってくれた。本艦も一時離脱だ」


「はっ!」


 川内は結局、魚雷を発射することは出来なかった。あまりに急激な転舵を繰り返していたため、照準を定めることが不可能だったのである。

 だが、そのために至近弾による若干の浸水が生じた以外は、まったくの無傷であった。

 第十一駆逐隊の発射した魚雷は、雷速四十八ノットに設定してある。五〇〇〇メートルの距離を、約二分で走破する。


「全艦、面舵一杯! 敵艦隊との距離を取る!」


「宜候。おもーかぁーじ一杯!」


「こちら見張所! 敵艦隊、一斉回頭を開始した模様!」


 その報告に、橋本司令と森下艦長は互いに顔を見合わせた。


「アメ公、一斉回頭でこちらの雷撃を躱すつもりのようですな」


「うむ。敵も馬鹿ではあるまいからな」


 森下も橋本も、特に動揺を見せずに言った。すでに魚雷は発射され、戦隊は退避行動に移っている。今更何を言っても仕方がないという冷静な諦観が働いている。

 やがて、緊張の二分が経過した。


「じかーん!」


 ストップウォッチで時間を計測していた乗員の声が、艦橋に響く。


「炎上中の敵巡洋艦に命中三、敵巡洋艦一に命中二を確認! 速力を低下させつつある模様!」


 少しの間をおいて、くぐもった爆発音が川内まで届く。


「命中は二隻だけか」


 落胆というよりは、事実確認に近い淡々とした口調で橋本司令官は呟いた。


「やむを得ん。各艦は魚雷の再装填急げ。再装填の後、残った敵巡洋艦を撃滅する」


 川内以下五隻は、一時、シーラーク水道を東に抜けるような形で退避行動を開始した。

 しかしこの戦術運動は、メリル少将に深刻な危機感をもたらすことになったのである。






「ヘレナの傾斜、深まります! コロンビアには魚雷二本命中! 隊列より落後します!」


 悲痛な報告が、クリーブランド艦橋に届けられる。

 操舵装置を破壊されたヘレナは敵の雷撃を回避することが出来ず、被雷は三本を数えた。金剛型からの命中弾による被害も合わせれば、沈没は免れないだろう。

 一方のコロンビアは被雷により艦首を切断され、前のめりになりつつ海上に停止しつつあった。


「モントピリアは本艦に後続せよ!」


 これで、四隻いた重武装の軽巡は今やクリーブランドとモントピリアのみとなってしまった。


「前衛駆逐隊にヘレナとコロンビアの救援を命じろ! 本艦とモントピリアは輸送隊への襲撃を企図していると思われる敵水雷戦隊を追撃する!」


 この時、メリル少将は東方へ魚雷再装填のために川内隊が取っている退避行動を、輸送隊への襲撃運動であると誤認していた。

 しかし、それ故に彼の危機感は深刻であった。

 輸送隊を失えば、ガ島の合衆国将兵を救う手立てはなくなってしまう。だからこそ、メリル少将は川内以下五隻の艦艇への追撃を決意したのであった。

 時刻は、二月十四日〇〇一二時。

 最初の戦闘からすでに三十分近くが経過していた。

 速やかにジャップの艦隊を鉄底海峡から撃退し、夜明け前までに撤収作業を完了させなければならないことを考えると、時間的余裕はほとんどなかった。


  ◇◇◇


 この時、鉄底海峡ではいくつかのことが同時に発生していた。

 まず、川内隊が戦場海域東方への退避を図るのと同時に、雷撃を終えた第二十駆逐隊、第十九駆逐隊も退避行動を取っていた(旗艦朝霧が被弾・炎上し航行不能となっている)。

 また、第六十八任務部隊の前衛駆逐隊は、鳥海以下重巡部隊に退避行動を取らせることに成功した反面、駆逐艦ド・ヘイヴンを失っていた。その後、メリル少将からの救援命令を受け、ヘレナ、コロンビアが航行不能となっている海面へと急行するが、その途上で戦艦霧島に捕捉された。

 そのため、三隻となった前衛駆逐隊は、まずはこの強敵を撃退する必要に迫られたのである。すでに三隻は鳥海以下の重巡部隊に魚雷を消費しており、次発装填装置を持たないアメリカ駆逐艦には霧島を撃退するだけの決定打に欠けていた。

 しかし、二隻の軽巡を救援しなければならないため、前衛駆逐隊は霧島に対して魚雷を発射すると見せかける襲撃運動を繰り返すことで、この金剛型戦艦をヘレナとコロンビアから遠ざけようとしていた。

 一方、第二駆逐隊の三隻と後衛駆逐隊は隊列の乱れたまま混戦に突入しており、最中に米駆逐艦コンウェイとブキャナンが衝突事故を起こしている。

 そして川内隊は、川内が回避運動を繰り返していたために直進を続けていた第十一駆逐隊との間に距離を生じており、追撃を始めたクリーブランド、モントピリアに対して実質的な殿を務めることになっていた。


挿絵(By みてみん)






「左舷二〇度に敵新鋭巡洋艦二を確認! 距離七〇〇〇! さらに右舷三〇度に川内を確認!」


 夕立の艦橋に、見張り員の声が響く。


「よし、ついに見つけたぞ」


 吉川中佐は手の平に拳を打ち付けた。


「航海長、取り舵だ。右砲雷戦用意! 目標、敵巡洋艦!」


「宜候。とぉーりかぁーじ!」


 第二駆逐隊は敵後衛駆逐隊との戦闘の結果、隊列を大きく崩している。そのため、何の因果か、夕立は第三次ソロモン海戦に引き続き、単独行動を取ることになったのであった。

 機関の轟音を高らかに響かせながら、夕立は鉄底海峡を疾駆する。

 この呪われた海が艦艇にとっての冥府だとすれば、幾多の連合軍艦艇を屠ってきた彼女は、まさしく冥府への導き手といえた。


「川内、敵巡洋艦からの砲撃を受けている模様!」


 心なしか、見張り員の声には悲壮感が漂っていた。次々と立ち上る水柱の中に消えてゆく川内の運命を案じているのだろう。

 友軍が撃ちまくられているという状況は、艦橋に詰める乗員たちの心にも重くのし掛かっていた。


「案ずるな」


 だが、吉川はどこか余裕を感じさせる声で彼らに語りかけた。


「川内艦長の森下大佐は操艦の名手だ。そう簡単にやられはせんよ」


 実際、見張り員からは未だ川内が被弾・炎上したというような報告がない。同じ水雷屋として、その操艦技術の卓越さに吉川は舌を巻く思いだった。


「こっちはこっちでやるぞ! 砲術長、目標、敵巡洋艦一番艦、撃ち方始め!」


「宜候! 目標、敵巡洋艦一番艦、撃ち方始め!」


 椛島砲術長の溌剌とした声と共に、夕立の十二・七センチ砲が射撃を開始する。


 すでに彼我の距離は六〇〇〇メートルを切っていた。二基四門の主砲が交互射撃を繰り返す。


「水雷長、魚雷発射用意! 距離二五にて魚雷発射始めだ!」


「宜候! 距離二五にて魚雷発射始め!」


 中村悌次水雷長の若々しい快活さに溢れた声が返ってくる。


「目標が戦艦でないことに文句を言わんでくれよ。文句は戦艦を出してこなかったアメ公に言ってくれ」


「了解です。魚雷にそう書いてやつらに送りつけてやります」


 伝声管を通じた諧謔に満ちた応酬に、乗員たちの緊張がわずかに和らいだ。

 夕立は、最大戦速で海を切り裂いて進んでいく。






 一方、クリーブランド、モントピリアは川内に向けて射撃を続けていた。

 主砲の交互射撃を行い、両用砲による星弾射撃でジャップの四本煙突の巡洋艦を照らし出している。

 だが、未だ彼女を仕留めるには至っていない。


「ジャップの艦長は魔法でも使っているのか?」


 思わずそうした呟きがメリル少将の口から出てしまうほど、二隻の砲撃は延々と空振りを繰り返している。

 敵艦はまばらに応射してくるのみで、どうやら回避運動に徹しているらしい。だが、最大戦速とはいえ敵艦は右へ左への転舵を繰り返しており、直線的に追撃しているクリーブランドらは徐々に距離を詰めつつあった。

 ただし、問題がないわけではない。

 最初のジャップの重巡部隊に対する砲撃から始まり、今に至るまでクリーブランドとモントピリアは射撃を繰り返している。Mk.16主砲の速射性はジャップに対して優位に立てる点でもあったが、それだけに弾薬の消耗は早い。

 すでに両艦は八〇〇発以上の六インチ砲弾を消費していた。それでいて、撃沈した敵艦は皆無である。


「レーダー室より報告、右舷三〇度方向より接近する艦影あり」


「……」


 メリルは一瞬、判断に迷った。レーダーに映った艦影が、敵か味方か判然としないのだ。


「恐らく、後衛駆逐隊の一艦でしょう」


 幕僚の一人が断定口調で言った。


「小官も、そのように判断いたします」


 バーロウ艦長も、幕僚の意見に同意する。


「……」


 だが、メリル少将は一抹の不安を拭い去ることは出来なかった。彼は直感的に、この艦影がジャップであると感じていたのである。


「両用砲、対艦射撃用意。目標、接近中の艦影」


「提督!」


 どこか咎めるような声が幕僚たちの間から上がる。


「責任はすべて私が取る!」だが、メリルは譲らなかった。「艦長、ただちに両用砲指揮官に射撃命令を発したまえ!」


「ア、アイ・サー!」


 戸惑いを多分に含んだ声で応じたバーロウ大佐は、急いで両用砲指揮官に射撃目標の伝達および射撃開始命令を下した。後部檣楼に備えられていたSCレーダーは鳥海からの被弾によって破損していたため、対空射撃方位盤を用いた光学照準となる。

 だが、彼らの逡巡は戦場という場所においてはいささか長すぎたといえるかもしれない。

 対空射撃方位盤が夕立への射撃諸元を求め終わる前に、彼女の射弾がクリーブランドに降り注いだのである。






「だんちゃーく!」


「弾着近、近! 苗頭増せ三! てぇー!」


 敵艦の周囲に立ち上る水柱を観測して椛島砲術長はただちに射撃諸元を修正、次なる射撃を指示する。

 白波を蹴立てて進む夕立は、敵新鋭巡洋艦二隻との距離を急速に縮めつつあった。吉川が射点とした距離二五〇〇メートルの地点まで、三十四ノットならば三分弱で到達出来てしまう。

 それだけ、戦場の動きというのは急速であった。


「だんちゃーく!」


「命中一を確認!」


 ストップウォッチを持つ計測員と見張り員の声が重なる。


「砲術長、次より斉射だ! どんどん撃て! 何なら撃ち尽くしても構わんぞ!」


「宜候! どんどん撃ちます!」


 次の瞬間、夕立の四門の十二・七センチ砲が斉射を開始した。

 砲口から砲煙をたなびかせて、夕立はなおも突撃を続けていた。






「ファイア!」


 クリーブランドに備えられた三基の五インチ両用砲が射撃を開始する。

 クリーブランド級には連装六基計十二門の両用砲を備えているが、内四基は両舷にそれぞれ二基ずつ配置されており、残りの二基は中心線上に配置されていた。このため、片舷に向けられる砲門は八門だけであり、さらに夕立に対しては射界の関係から後部の一基が使用出来なかった。

 クリーブランドが両用砲射撃を開始してしばらく、後続するモントピリアからTBS(艦隊内電話)がかかってきた。


『後衛駆逐隊との同士討ちの可能性があります! 射撃を中止すべきです!』


 モントピリア艦長ウッド大佐からのものだ。


「我々は今まさに撃たれているのだ!」だが、電話を受け取ったメリルはにべもなかった。「あんな間抜けな味方がいるものか! 奴はジャップだ!」


 そう言ったきり、彼は電話を切った。

 モントピリア艦長は同士討ちを恐れているらしい。これでは、まともな支援は期待出来ないだろう。

 レーダーがあったとしても、夜戦における敵味方の識別の難しさをメリル少将は痛感していた。

 不意に、艦橋が目もくらむような光に包まれた。同時に襲ってくる爆発音。


「前部両用砲に被弾した模様! 弾薬の誘爆により、火災が発生しています!」


「消火急げ!」


 艦橋が騒然となる間にも、二種類の砲による射撃は継続している。

 休むことなく砲撃を続けるクリーブランドは、さながら小さな火山のようでもあった。だが、その射撃も敵に打撃を与えなければ、砲弾も単なる金属と火薬の塊である。

 クリーブランドが川内との距離を詰める一方、夕立も確実に彼女との距離を縮めていた。






「敵一番艦前部で火災発生の模様!」


「よくやった、砲術長!」


 吉川は夕立艦橋で快哉を叫んだ。

 いかに戦場上空に吊光弾や星弾の光があるとはいえ、昼間に比べれば視界は限定的である。敵艦に火災を発生させられたのは大きい。

 敵巡洋艦の重厚な艦影が、鉄底海峡に浮かび上がる。


「まるで戦艦だな……」


 双眼鏡で敵艦影を確認した吉川が、感嘆の息を漏らす。艦の前後に背負い式に配置された四基の主砲塔。それは、第三次ソロモン海戦で遭遇した米新鋭戦艦を彷彿とさせるものであった。

 夕立の周囲にも着弾がある。水柱の大きさから見て、敵の高角砲による射撃だろう。どうやら、敵巡洋艦は主砲を川内に向け、高角砲をこちらに向けているらしい。

 敵艦は川内を左舷側に見ているはずであり、その反対方向にいる夕立に主砲の照準を修正するのは時間がかかると判断したからだろう。

 もう少し耐えていて下さいよ、森下艦長。

 吉川は内心でそう念じる。川内も二隻の巡洋艦から集中砲火を受けて危機的状況だろうが、夕立の雷撃が成功するまでは何としても持ち堪えておいて欲しい。

 操艦の名手とまで言われる水雷屋の先輩を囮とするようで申し訳ないが、その分の借りは敵艦を撃沈することで返したいと思う。


「敵艦との距離三五! 射点まであと六〇秒!」


 航海長の声が艦橋に響く。


「水雷長、いいか!?」


「発射方位盤への諸元入力完了! いつでもいけます!」


「よろしい!」


 主砲射撃と弾着の轟音の中で、吉川は怒鳴るように応じた。


「航海長、舵中央で固定! こっからは雷撃開始まで一切変針なしだ! 突っ込め!」


「宜候! 舵中央!」


 主砲も魚雷発射管も右舷に指向している夕立。

 敵艦との距離・方位が算定された以上、魚雷の発射が完了するまで夕立は一切の変針・速度の増減は出来ない。

 駆逐艦乗りとしての度胸の見せ所だった。

 夕立の周囲に着弾する敵の高角砲弾。それが立てる水柱をものともせず、白露型四番艦は突進していく。

 前部の主砲が射撃を繰り返し、敵艦を牽制する。夕立の主砲は、およそ六秒に一度、斉射を繰り返している。初速九一〇メートルの高初速弾は、この距離であれば四秒で敵に到達する。

 すでに敵艦の各所で火災が発生しており、敵の射弾に目に見えて精密さがなくなってきた。恐らく、電探か射撃管制装置に打撃を与えたのだろう。

 だが、流石に夕立も無傷とはいかなかった。

 衝撃と共に、艦後部から爆発音が響く。


「被害知らせ!」


 艦が即座に爆沈しなかったことから、少なくとも魚雷発射管には命中しなかったようだ。

 そのことに安堵しつつ、吉川は伝声管に怒鳴る。


「後部機銃甲板に被弾! 三連装機銃破損の模様!」


「機関は無事か!?」


「こちら機関長! 機関、全力発揮可能!」


「よし! そのまま今の速力を出していてくれよ!」


「宜候!」


「艦長、まもなく射点に付きます!」被害報告に割り込むように、航海長が怒鳴った。「距離二七……二六……二五!」


「魚雷発射始め!」


「宜候! 魚雷発射始め!」


 圧搾空気の独特な音と共に、八本の九三式魚雷が海へと飛び出していく。

 雷速は最大の四十八ノット。二五〇〇メートルの距離を、一〇〇秒程度で駛走する。

 吉川は興奮と緊張が入り交じった表情で、クリーブランドを見ていた。






「敵駆逐艦後部に命中弾あり!」


 興奮した見張り員の報告を受けても、クリーブランド艦橋は緊迫感に包まれていた。

 すでに彼女は十発近い小口径砲弾を被弾し、両用砲や機銃座、そして対空射撃方位盤を破壊されていたのだ。

 さらに艦橋前部の両用砲が誘爆したことによって発生した火災により、艦橋の電路の一部が焼き切られモントピリアとのTBS通信が不可能になるなど、クリーブランドの指揮系統に深刻な打撃を与えていた。


「敵駆逐艦、本艦後方に抜けていきます!」


「……っ。艦長、面舵一杯だ!」


「アイ・サー! 面舵一杯(フルスターボート)!」


 メリルは唇を噛んだ。恐らく、ジャップはすれ違いざまに魚雷を発射しただろう。彼は相手の艦長の度胸と戦術眼に歯がみする思いだった。

 左に舵を切れば、追撃中の巡洋艦に横腹を晒すことになり、敵巡洋艦に雷撃の機会を与えてしまう。

 逆に右に舵を切れば、敵巡洋艦を取り逃がすことになる。

 どちらにしても、ジャップの思うつぼだった。

 メリルとしては、被雷の危険性を最小限に留めることが出来る面舵を選ばざるを得なかった。


「輸送隊に緊急通信! 敵水雷戦隊に厳重警戒せよ、以上だ!」


「アイ・サー!」


 TBSが使えないため、いちいち通信に頼らなければならない。

 やがて、クリーブランドの艦首が右に振られ始める。


「……」


「……」


 この戦闘で、二度目のジャップからの雷撃であった。ごくりと、誰もが唾を飲み込む。

 だが次の瞬間、床が跳ねるような衝撃が彼らを襲った。クリーブランドの舷側に、高々と水柱が立ち上る。

 メリル少将を含めた艦橋にいた人間たちが軒並み引き倒され、海図台や計器板に体をぶつけた者たちの呻きが響く。


「機関停止! ダメージリポート!」


 バーロウ大佐が即座に艦内電話に飛びつき、ダメージコントロール班を指揮する副長に報告を求める。


「右舷前部二発、後部に一発被雷! 右舷機関室に浸水が発生しています!」


 この時、夕立の放った八本の九三式魚雷は、一本が駛走途中で動作不良を起こしたものの、三本がクリーブランドの船体を捉えることに成功したのである。

 魚雷は二五〇〇メートルという至近距離から最大速度で放たれたため、クリーブランドには十分に回避行動を取るだけの時間的余裕がなかった。

 クリーブランドは破孔からの急激な浸水によって、右舷に大きく傾く形で洋上に停止していた。

 後続のモントピリアは彼女との衝突を避けるため、取り舵に大きく転舵せざるを得なくなった。そのため、川内への射撃も一時停止することになった。これまで主砲を左舷側に向けていたのだが、転舵によって川内を右舷に見ることになったからである。






「敵一番艦に命中三を確認!」


 二隻の米巡洋艦の脇をすり抜けた夕立の羅針艦橋に、歓声が沸く。


「取り舵一杯。一度連中と距離を取って魚雷の再装填を行う」


 吉川艦長も喜色を隠さない口調で、新たな命令を発する。敵巡洋艦はあと一隻残っている。まだまだやってやるさ、と彼の闘魂は未だ衰えない。

 と、その時見張り員が怪訝そうな口調で報告を寄越した。


「ガ島海岸に何か見えます」


「ガ島海岸だと?」


 流石の夜間見張り員も、島影と重なってしまったために、自身の発見したものが何であるのかを理解出来ないようだった。そもそも、多数の照明弾や発砲炎の影響で、暗闇に慣らした彼らの目もだいぶ元に戻ってしまっているはずだ。


「岩礁の可能性もあります。不用意に近づくのは危険と思われますが」


 航海長がそう進言する。


「うぅむ……」


 吉川も怪訝そうな顔を隠さない。すでに彼の心からは魚雷命中の興奮は消え、正体不明の影への警戒心に満ちていた。戦場での甘い判断は、そのまま自らの死、部下たちの死に繋がる。


「第八艦隊司令部、三水戦司令部、四水戦司令部宛に、片っ端から報告を入れろ。ガ島海岸に識別不明の艦影を認む、と」


「『艦影』としてしまってよろしいのですか?」


 信号長が戸惑いがちに言った。


「構わん。もしかしたら米軍の隠密輸送部隊かもしれんからな」


 ガ島攻防戦の間、何度かそうした敵と遭遇していた吉川はそう判断していた。


「了解です。ただちに第八艦隊司令部、三水戦司令部、四水戦司令部相手に電文を組みます」


「おう、頼んだぞ」


 そのまま夕立は、敵巡洋艦からもガ島沖の影からも離れるような針路を取り、魚雷の再装填作業を行った。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 フレッチャー艦長は、レーダー室からもたらされた報告に心臓が飛び出るような思いであった。

 ジャップの駆逐艦とおぼしき艦影がこちらに接近してきたというのだ。クリーブランドからは敵水雷戦隊がこちらへの襲撃を企てている可能性があるという。思わず、艦長は天を仰いだ。

 しかし幸い、その敵影は何をするでもなく遠ざかっていたが、今後もそうした幸運が続くとは思えなかった。

 現在、フレッチャーを旗艦とする輸送隊は、主隊がジャップの艦隊を引きつけている隙を突いて、ガ島海岸での撤収作業を行っていた。

 とはいえ、その作業はこれまでと同様に緊張感の伴うものであった。いや、敵艦隊の襲撃を警戒しなければならない分、今まで以上かもしれなかった。

 すでに上陸用舟艇や折りたたみ式浮舟による撤収作業を始めて四十分近くが経っていたが、高速輸送艦や駆逐艦に収容出来た人数は二〇〇〇名程度であった。ガ島にはまだ一万人以上の将兵が取り残されていることを考えると、全員を収容するのには三時間以上の時間が必要となる。


「全駆逐艦に、戦闘用意を下令しろ」


 敵艦隊による襲撃の危険性が高まったと見て、輸送隊の指揮を委ねられたフレッチャー艦長はそう命じた。


「主よ、どうか我ら合衆国に加護を」


 彼に今出来ることは、その程度しかなかった。






「何故、再突入をしないのですか!?」


 戦場海面からいささか離れた位置にまで退避する羽目になった鳥海では、早川艦長が怒りも露わに第八艦隊司令部に詰め寄っていた。


「敵の巡洋艦部隊は、三水戦によって撃退されている。これ以上、戦闘を継続する理由はないだろう」


 三川長官の言葉に、三水戦に撃退してもらった、だろうにと早川は罵倒に近い思いを抱く。

 重巡という比較的強力な艦を預かっておきながら、この海戦でほとんど何の役にも立てていないことに、早川としては恥ずかしいやら情けないやら複雑な心境だった。

 ところが、第八艦隊司令部はそうでもないらしい。


「各艦がどの場所にいるのかも十分に把握出来ておらん。敵味方の識別が十分出来ない状況で、再突入は出来ん」


「夕立の電文から、状況は明らかです! ガ島海岸では、米高速輸送艦による撤収作業が今まさに行われているのです!」


 だが、早川としては一歩も譲ることは出来ない。このままでは、ガ島の米軍を取り逃がしてしまう。そうなれば、後々大きな禍根を残すだろう。


「失礼いたします! 三水戦橋本司令より入電。『ガ島海岸ニテ米軍撤収作業実施中ノ可能性大。魚雷再装填ノ後、突入ス』。続いて霧島からも入電。『我、ガ島海岸ヘノ艦砲射撃ヲ敢行ス』。以上です!」


 夜戦艦橋の雰囲気の悪さにも関わらず、電文を読み上げた通信兵は見事だったろう。

 早川は内心で通信兵を賞賛した。やはり、他の指揮官たちも自分と同じことを思っているらしい。事実上、独断で行動すると言っているようなものだった。

 三川長官以下、司令部の人間たちの表情が明らかにばつの悪そうなものになった。

 もはや構うものか、というどこか投げやりな思いが早川の心を占めた。恐らく、司令部批判を繰り返している自分は次の人事異動で泣きを見ることになるだろう。

 だったら今更、独断行動の一つや二つ、構うまい。


「本艦水偵に、ガ島海岸の捜索および三水戦、霧島の弾着観測援護を命じます」


 本心では鳥海の再突入を宣言してしまいたかったが、流石に旗艦艦長がそのようなことをすれば反乱同然であり、後々海軍に悪い影響を及ぼすと考えたのだ。


「……やむを得んな」


 早川の剣幕に気圧されたのか、三川長官が不承不承と言った声で言った。


「全艦、面舵一杯。鳥海に続け。目標、ガ島海岸」


「宜候! おもーかーじいっぱい!」


 ようやく望んでいた命令を三川長官が発したことに、早川は特に喜びを覚えなかった。それは、出されていて然るべき命令だったからだ。

 ただ、これで自分の望むとおりの戦いは出来る。

 不愉快な連中のことは忘れて、今は戦闘指揮に集中しようと彼は思った。

 こうして、海戦の最終段階になって鳥海以下四隻の重巡はようやく戦場へと戻ってきたのである。






 後世、第四次ソロモン海戦(アメリカ側呼称、第二次ガダルカナル沖海戦)は、ほとんど第三水雷戦隊と第六十八任務部隊の戦闘だったと評されることになる。

 実際、連合艦隊参謀長であった宇垣纏は、日記にそうした旨の記述をしている。

 海戦終結の後、その消極性が目に余った第八艦隊司令部は軒並み更迭され、鮫島具重中将が後任に就くことになった。また、何かと艦隊司令部と衝突することの多かった早川幹夫大佐も、“喧嘩両成敗”とばかりに、老朽化が著しい戦艦山城艦長に()()することになる。

 ただ、早川艦長に関していえば、着任した直後の山城がインド洋作戦に投入されることになったため、完全な左遷とは言い難い面もあった。彼はその後、戦艦長門艦長を務めるなど、順調に出世していくことになる。

 第四次ソロモン海戦は、ソロモン戦線における最後の大規模海戦となった。

 以後、戦力を消耗し尽くした合衆国側は限定的な攻勢に出ることすら出来なくなり、日本側も潜水艦と航空兵力による通商破壊作戦に終始したためである。

 そして日本はその後、絶対国防圏を設定し、ラバウルを含めたソロモン・ニューギニア戦線全域からの撤退を決断することになる。

 日本海軍は最後まで夜戦における精強さを示し続けたのであった。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 ホワイトハウスの大統領執務室は、重苦しい雰囲気に満ちていた。


「これが、ガダルカナル撤収作戦“クリーンスレート作戦”の結果かね」


 老眼鏡をかけたルーズベルト大統領が、海軍作戦本部から届けられた報告書を示した。


「はい、その通りです」


 キング作戦部長は不本意ながらも頷かざるを得なかった。

 報告書に記載された結果は、第一次ガダルカナル沖海戦(第三次ソロモン海戦)と同程度か、それ以上に深刻であった。

 沈没艦は、戦艦がコロラド、メリーランド、ミシシッピーの三隻、護衛空母はシェナンゴ、軽巡はボイシ、クリーブランド、コロンビア、ヘレナの四隻、駆逐艦はストロング、オバノン、ラドフォード、ウッドワース、ド・ヘイヴン、ニコラス、コニー、フレッチャー、テイラーの九隻、さらに高速輸送艦もストリンガム、デント、ウォーターズ、ブルックスの四隻を失っていた。

 第二次ガダルカナル沖海戦の終盤、撤収作業中であった海岸にジャップの水雷戦隊が襲撃をかけたため、離脱を果たせずに沈没した駆逐艦や高速輸送艦も多いのだ。

 フレッチャーに関してはガ島海岸に擱座・放棄されたのだが、ガ島がジャップの占領下にある以上、浮揚修理の見込みは立っていない。それどころか、フレッチャーに搭載していた最新の電子装備がジャップに鹵獲されている恐れもあった。

 さらに第二次撤収作戦の最中、敵機の機銃掃射によってエインズワース少将が戦死している。

 そして何にも増して深刻なのが、海兵第一師団と陸軍アメリカル師団の損害であった。

 第三次撤収作戦では収容作業中に日本艦隊の襲撃を受けたため、収容出来た将兵は三五〇〇名に過ぎない。

 輸送隊離脱後、ジャップの艦隊はガ島に徹底した艦砲射撃を行ったという。

 その結果、ジャップの陸軍による掃討作戦も相俟って、ガ島に取り残された将兵は殲滅され、ヴァンデクリフト、パッチ両師団長も行方不明となっている。恐らく、敵の艦砲射撃によって戦死したのだろう。ガ島には身を守るべきトーチカなどないのだ。

 これにより、陸上で失われた将兵は累計で二万名に上り、しかもその半数以上が敵の攻撃ではなく飢餓や傷病によって命を失ったという惨憺たる結果に終わった。

 貴重な艦艇と航空機、そしてよく訓練された乗員・搭乗員たちもを失ったことを考えれば、フィリピン戦で失われた八万の将兵を上回る大損害であった。

 ソロモンの海は、合衆国にとってまさしく悪夢に等しいものとなったのだ。


「太平洋方面での攻勢は、いささか性急に過ぎたのかもしれんな」


 溜息をつくように、ルーズベルトは呟いた。

 その呟きに、太平洋戦線を重視するキングは不機嫌そうな表情を隠そうともしない。とはいえ、元々そうした直情傾向のある人間なので、ルーズベルトもさして気にしない。戦争に勝利するためには、能力が第一なのだ。だからこそ、大統領は彼を統合作戦本部の一員に任命したともいえる。


「今後の対枢軸国戦略については、チャーチル首相と会談の場を設けて再検討しなければなるまい」


 本来、米英の首脳会談はトーチ作戦後に行われる予定であったのだが、トーチ作戦そのものが延期となり、さらにアメリカは南太平洋戦線が、イギリスは北アフリカ・地中海戦線が逼迫する状況に陥ったので、未だ実現していないのだ。

 その時、執務室の扉が開かれ、焦燥感に駆られた様子の補佐官が飛び込んできた。


「お話中のところ、失礼いたします! イギリス政府から緊急の情報です!」


「何かね? まさかドイツ軍が英本土に上陸したというわけではあるまい?」


 補佐官を落ち着かせる意味も込めて、ルーズベルトは冗談じみた口調で尋ねる。

 だが、補佐官の切迫した様子は変わらなかった。


「二月十六日、輸送船団を伴ったイタリア艦隊がスエズ運河を突破。ヴィシー・フランス政権支配下のジブチに入港、ドイツ軍を上陸させたとのことです! 現在、ジブチは完全に枢軸軍の支配下にあり、対岸の英領アデンはイタリア艦隊からの艦砲射撃を受け壊滅した模様です!」


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


「今をときめく連合艦隊司令長官殿が、憲兵隊に目を付けられている一介の老人にわざわざ面会を求めてくるなど、世の中には奇妙なことがあるものですなぁ」


 永田町の邸宅を訪れた山本五十六を、邸宅の主は開口一番、皮肉で迎え入れた。

 どういう人物かは事前に情報を得ていたが、さすがにこれは山本としても苦笑せざるを得なかった。

 吉田茂。

 駐英大使などを務めたことのある、六十三歳の元外交官。現在は永田町の自宅と大磯の別邸とを行き来する、一人の隠居老人に過ぎない立場にある。

 だが、そんな一人の隠居老人に過ぎない吉田は、山本にとって何としても人脈を作っておきたい人物であった。


「まったく、海軍は迷惑なことをしてくれたものですな」


 客間に通されても、吉田の皮肉は終わらなかった。


「昨年十一月に引き続き、また南太平洋で勝ったそうではないですか。ミッドウェーのごとく大敗していてくれれば、もっと話は早かったでしょうに」


「……」


 その言葉に、山本は一瞬だけ目を見開く。ミッドウェーで空母三隻を失ったことは、限られたごく一部の人間しか知らない。天皇は知っているが、首相である東条英機はまったく知らないという、国家としての戦争指導を考えるとまったく愚行としかいえないほどの情報統制を敷いているのだ。

 当然、吉田がそれを知っているはずはない。それなのに、それを知っていることを山本に仄めかしたということは、自分はそれだけの情報網を持っているということを示すためだろう。

 この老人は、元内相で今も天皇からの信任の厚い牧野伸顕の女婿なのだ。宮中に確固たる人脈を持っており、恐らくはそこからミッドウェー海戦の話が漏れたのかもしれないと山本は考えた。

 実際には、吉田は外務省が傍受したアメリカの放送からミッドウェー敗戦の真実を知っていたのだが、山本は知るよしもない。


「あなたが最近、裏でなにやら動いていることは私の“友人”たちからも聞いております。正気ですかな?」


 睨むような視線で、吉田は山本を見つめる。どことなく非難がましい視線であるように感じるは、山本が真珠湾攻撃を推進することで間接的に日米開戦を後押ししてしまったからだろう。


「もちろん、正気です」


「ほう」吉田の態度はどこかふてぶてしい。「しかし、あなたは連合艦隊司令長官であり、政治に関わる立場にはない。正直、あてになりませんな」


「海軍内部で、嶋田海相に対する不信感が強まっています」


「ふむ、それが何か?」


 人を試すような口調で、吉田は続きを促す。


「小官が海相に就任する。そうなれば、貴殿は内閣と海軍への繋がりを確保することが出来る。違いますかな?」


 山本は吉田の行っている和平工作の弱点を見抜いていた。彼らは、現在の東条英機内閣に直接の影響力を及ぼせる立場にはない。牧野伸顕、近衛文麿、宇垣一成、岡田啓介といった大物はいるものの、東条内閣への影響力は皆無に等しい。唯一、木戸幸一内大臣だけが若干の影響力を行使出来るだろうが、彼はあくまで、天皇の意思を間接的に内閣に伝える立場に過ぎない。

 また、吉田本人は軍部との繋がりをほとんど持たない。

 そのため、彼としても山本五十六という人脈を確保することには大きな意義があるはずであった。


「貴殿の“友人”からすでに聞き及んでいるかもしれませんが、海軍内部にも和平派は存在します。私が海相に就任することで、彼らの旗頭となりましょう」


 この時、海軍内部の和平派の中心人物は軍令部員の高松宮宣仁王であり、彼の私設秘書である細川護貞は近衛文麿の女婿でもあった。吉田や山本のいう“友人”とは、主として細川のことである。

 この他、海軍内部の和平派の代表的人物として、舞鶴鎮守府参謀長である高木惣吉少将などもいた。


「その先は、どうするつもりですかな?」


 未だ納得していないような口調で、吉田は山本に言葉を促す。


「現内閣で和平が達成出来るならばそれも良し、そうでなければ終戦内閣の出現を企図します」


 実際、一部の重臣たちの間で東条内閣倒閣の動きがあることを、山本は掴んでいる。東条内閣では和平工作は無理だろうと見られていたのだ。

 すでに戦争終結の意思を天皇は周囲に漏らしているが、東条はそれを具体的に実行していない。天皇から講和に関する腹案はどうなっているのかと下問されても、一九四二年三月七日大本営政府連絡会議決定の「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」に沿った内容を繰り返すだけであるという。

 和平工作を推進したい重臣たちの間では、すでに東条内閣を見限る方向に舵を切っていたのだ。

 だからこそ、山本はこの元外交官と自分の利害は一致していると考えていた。


「……やはり軍人は視野が狭いですな」


 だが、失望を表すように、吉田は溜息をついた。


「和平の条件は? 交渉のための外交ルートは? 終戦内閣を作るとして、首班は? 大臣は? そこまで考えられて初めて、“正気”です。あなたの言は、ただ自分は和平工作に従事したという自己満足を得るためのものでしかない」


「厳しいお言葉ですな」


 吉田がどこまで本心を表しているのか、山本には掴みかねた。あるいはこちらを挑発することで、本心を引き出そうとしているのか。


「私は、貴殿の言うように軍人です。外交に口出しをする立場にはありません。どのような和平条件ならば英米が呑むか、それは本職の外交官にお任せしますよ。軍はそれに従うのみです」


「……なかなかどうして、あなたも捻くれた人間のようですな」


 にやり、と吉田の口が皮肉の笑みを作った。


「外交に口出しをしない。まったく、軍人はそうであってくれなければ困ります。正直、私は陸軍の連中にも辟易しているが、あなた方海軍にも思うところがないわけではない」


 吉田はロンドン海軍軍縮条約締結当時の外務次官であり、統帥権干犯問題に直面した経験がある。さらにその後、広田弘毅内閣では外相就任を軍部によって妨害され、代わりに駐英大使に任命されたと思えば海軍から色々と注文を付けられている。

 吉田の軍部に対する印象というのは、総じて悪いのだ。

 それを踏まえた上で、山本は吉田たち外交官に任せると言ったのである。


「和平の条件については外交官に任せるといった今の言葉、確かに記憶しましたぞ」


「ええ、男に二言はありませんよ」


 終始、自分はこの男に試されているのだと、山本は感じていた。


「まあ、和平の条件は相当厳しいものになるだろうことは覚悟しておいて下さい。下手をすればポーツマス条約以上の厳しいものになるでしょう。海軍が重視している内南洋も、放棄する必要があるかもしれません。あなた、同じ海軍から相当恨まれますよ?」


「すでに私は英米人から騙し討ちの張本人として蛇蝎の如く嫌われております。今更、そうした人間が増えたところで気にすることはないでしょう」


 ようやくこの男に皮肉を返すことが出来て、山本は一矢報いた気分になる。とはいえ、皮肉の応酬をするために、わざわざやって来たわけでもない。

 山本は表情を引き締める。


「海軍としては、貴殿が画策しておられるスイス・ルートでの和平工作のために、飛行機を手配する用意があります」


「ほう、あなたも中々良い耳をお持ちのようだ」


 感嘆とも皮肉とも取れぬ口調で、吉田は山本の提案に応じた。というよりも、この老人は皮肉を言わないと死ぬ病気にでもかかっているのかと、山本は思う。

 吉田の画策しているスイス経由での和平工作とは、彼がミッドウェー海戦敗戦の真実を知った直後から国内の根回しを始めていたものである。

 近衛文麿を代表とする外交団をスイスに送り込み、英米と講和についての交渉を行うことを吉田は計画していたのだが、天皇への根回しを担当するはずの木戸幸一が逡巡しており、未だ天皇を動かすには至っていない。


「それでは、()()()の働きに期待させてもらいましょう」


 吉田は海軍ではなく、山本五十六に期待していると言っているのだ。


「真の英雄とは、国を救う者です。ただ戦闘に勝つだけの人間は英雄とは言えない。山本提督、それをお忘れなきように」


 国民から英雄として扱われている山本に釘を刺したところで、初めてとなる山本・吉田会談は終わった。

 この会談がこの戦争の行く末にどのような影響を与えるのか、出会ったばかりの二人とも未だ確信を持つことは出来なかった。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 一九四三年三月十三日。

 リンガ泊地に、艦隊の入港を知らせるラッパの音が鳴り響いた。

 対岸のシンガポールに通ずるズリアン海峡から、一隻の巨艦を中心とした艦隊が泊地へと入港する。


「……ほう、随分と様変わりしたものだな」


 泊地で航空機の発着訓練を行っていた空母飛龍の艦橋で、山口多聞第二航空戦隊司令官はその巨艦の姿に目を見張った。

 戦艦武蔵。

 第三次ソロモン海戦で米新鋭戦艦との死闘を繰り広げた大和の姉妹艦である。

 だが、その姿はかつて山口がトラック泊地で見た大和とは大きく違っていた。

 三基の四十六センチ主砲塔は変わらないが、艦の中心部はだいぶ変わっていた。

 両舷に備えられていた三連装副砲は撤去され、新たに高角砲甲板を設けて片舷三基の十二・七センチ連装高角砲を増設している。また、周辺の甲板にも二十五ミリ三連装機銃が並べられ、対空兵装を大幅に強化したことが見て取れた。

 さらに艦橋最上の十五メートル測距儀上には二一号電探が搭載され、帝国海軍最新鋭戦艦として恥じぬ姿になっている。

 後ろに続く長門も、どうやら電探や対空兵装を増設する改装を受けているらしい。


「随分とこの泊地も賑やかになるな」


 猛々しさを感じさせる笑みで、山口は新たに加わった武蔵以下の艦艇を眺めていた。

 この日、改装工事を終えた戦艦武蔵、第三次ソロモン海戦での損傷を修理した長門と、護衛の空母冲鷹、第六駆逐隊の計六隻がリンガ泊地に入港した。

 もちろん、次期インド洋作戦に参加するためである。

 すでに空母部隊である第三艦隊は四三年の一月以降、リンガ泊地に集結して航空部隊の練成に努めていた。付近に油田があることから、トラック泊地と違って燃料の心配なく訓練を行うことが出来た。

 そのため山口は開戦前と同じく、猛訓練により搭乗員たちから「人殺し多聞丸」との渾名を再び奉られることになった。

 それは、彼にとっては複雑な気分であった。部下たちが恐れと親しみを持ってそう呼んでくることは、指揮官として素直に嬉しい。しかし、かつて自分をそう呼んでいた者の多くは、太平洋に散ってしまったのだ。

 それでも、自分たちは戦わなければならない。戦って勝利しなければならない。

 戦争とは、そういうものなのだ。



 やがて帝国最強の戦艦の片割れは、リンガ泊地へと投錨した。

 その存在と共に、将兵たちに次なる戦いの到来を告げるがごとくに。

 これにて、「蒼海決戦シリーズ」第二部「南溟の晩鐘」は完結となります。

 皆さま、今までのお付き合い、どうもありがとうございました。

 後学のためにも、ご感想やご意見等をお寄せ頂けると幸いです。


 さて、第三部はいよいよ何度か作中でも言及していたセイロン島攻略作戦です。こちらはすでに「インド洋決戦1943」と名付けて執筆を開始しております。近日中には第一話を公開出来るかと思います。

 また、その他の拙作「東京テンペスト」や「王女殿下の死神」もよろしくお願いいたします。


 今回の第四次ソロモン海戦のモデルは、コロンバンガラ島沖海戦とブーゲンビル島沖海戦となります。

 重巡部隊の迷走ぶりはブーゲンビル島沖海戦でも実際にありましたし、水雷戦隊が米巡洋艦部隊に勝利を収めるのはコロンバンガラ島沖海戦でも見られた通りです。

 今回は「ソロモンの悪夢」VS「クリーブ兄貴」がコンセプトだったはずなのですが、いつの間にか「夜戦バカ」も大立ち回りを演じる羽目になっていました。ブーゲンビル島沖海戦では不本意な最期を遂げた彼女ですが、せめて拙作では森下艦長の下で活躍させてあげたかったのです。

 そして、終戦に向けた工作を始めた山本五十六は吉田茂との会談を行いますが、当然、二人は史実では面識はなかったはずです。

 ちなみに、吉田茂の邸宅といえば広大な敷地を持つ大磯のものが有名ですが、作中の時期だとまだそちらを本邸とはしていません。ただ、この時期の本邸の位置が資料や著作によって若干のズレがありましたので、拙作では永田町にあるということにしてあります。

 また、今回は海戦における艦艇の配置が複雑になってしまったので、戦闘要図を作成してみました。ただ書籍にあるようには上手く作成出来ず、もどかしく思います。

 もし、作成方法をご存じの方がいらっしゃいましたらば、是非ともご教授願いたく存じます。


 では、次回作でまた皆さまとお目にかかれることを祈りつつ、筆を擱きます。

 ありがとうございました。

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[気になる点] 終戦工作に近衛文麿なんか送り込んだらブチ壊しでしょう
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