3 蹉跌の海
一九四三年二月現在、ガダルカナル飛行場と呼称される飛行場は、細かく分けて三つ存在する。
一つは、日本軍が最初に建設に着手し、米軍がヘンダーソン飛行場と名付けたルンガ川東飛行場。これが、ガ島最大の飛行場となっている。
二つ目は、アメリカが新たに建設しようとして、日本軍の九月攻勢によって建設途中で奪取されたイリ川飛行場。
三つ目は、九月攻勢で日本軍がアメリカから鹵獲した土木機械を使って建設したルンガ川西飛行場。
これら三つを総称して、両軍はガダルカナル飛行場と呼んでいる。
一式陸上攻撃機などの大型機が発着出来るのがルンガ川東飛行場であり、残り二つの飛行場は主に戦闘機の発着に使用されていた。
とはいえ、ガダルカナルに配備されている一式陸攻の数は少ない。エスピリットゥサントの米軍飛行場を夜間空襲するために配備された十二機、つまり一個中隊規模しか存在していなかった。
これはエスピリットゥサントに配備されたB17による爆撃で貴重な陸攻が地上撃破されるのを防ぐためで、ガ島飛行場は主に戦闘機、艦上爆撃機、艦上攻撃機を中心とした航空部隊の飛行場となっていた。
二月になり、ガ島飛行場には新たに内地から輸送されてきた第五五二航空隊が配備されることになった。
これによりガ島に配備されている九九艦爆は六十機近い規模となり、ガダルカナル近海に連合軍輸送船が近付くのは実質的に不可能となった。低速の輸送船では、急降下爆撃のいい餌食となってしまうからである。
アメリカ側は日本海軍の暗号解読などによって、ある程度、在ガ島の日本軍航空兵力を把握していた。
高速輸送艦による夜間の撤収作戦という南太平洋方面軍司令部の作戦計画は、正しかったのである。
また、ガ島における日本軍の勢力範囲は、このガダルカナル飛行場周辺地域に限られていた。
これは単純に鬱蒼と茂るジャングルを占領するだけの必要性を日本軍が認めなかったためで、敵重砲の射程内に飛行場が収まらないようにするだけの野戦陣地の縦深を確保して、彼らは満足していた。
ジャングルに踏み入ればそれこそ、アメリカ軍だけでなく蚊を媒介とするマラリアやデング熱などの多くの“敵”に対処しなければならない。
そうした状況下に置かれても兵力を維持出来るだけの兵站能力や将兵の交代要員を、日本軍は持ち合わせていなかったのである。
一応、インド洋作戦が順調に進展している結果、二式飛行艇によるインド洋―北アフリカ空路を開きドイツからマラリアの特効薬であるキニーネを輸入する計画があるものの(実際に潜水艦輸送では少量のキニーネを輸入している)、現にガダルカナルに駐留する日本陸海軍の将兵にとっては何の意味もない計画であった。
ある意味では、日本軍もガダルカナルの兵力維持に手を焼いている状況なのである。
現地の将兵たちはそうした自分たちの置かれた状況に敏感であり、だからこそい号作戦がこの地域で日本軍が最後にとれる攻勢作戦であろうことを暗黙の裡に悟っていた。
「何とも壮観な眺めだな」
ルンガ西飛行場に立つ笹井醇一中尉は、飛行場に並べられた九九艦爆の隊列を見て笑みを浮かべた。
先日、ガダルカナルに配属された第五五二航空隊の九九艦爆である。定数を完全に揃えている航空隊というのは、消耗の激しい最前線の航空基地であるガダルカナルでは珍しいことだ。しかも、塗装の剥げていない濃緑色の機体である。
一方、これまでもガ島防空の任務に当たってきた自分たちの零戦三二型に目を向ければ、塗装が剥げたのか、それともそういう迷彩なのか判らない、白と緑の斑模様。笑みはそのまま苦笑に変わってしまう。
実際は、緑の塗装が剥げているだけである。
そして、ガダルカナルの三飛行場には、海軍だけでなく陸軍の機体も存在している。一番数が多いのは一式戦闘機「隼」であり、次に九九式双軽爆撃機がそれなりの数、配備されていた。他にも、戦闘機としての性能に劣るために襲撃機として運用されている二式復座戦闘機「屠龍」などが配備されている。
残念ながら陸軍の重爆部隊はニューギニア戦線やビルマ戦線に優先的に配備されているので、九七式重爆撃機の姿はない。
それでもガダルカナルの日本陸海軍の航空兵力は、上空援護のない連合軍艦艇が迂闊に島に近付くことを許さないだけの規模は誇っていた。それが、島にいる米軍部隊を孤立させている大きな要因となっていた。
「さあ来い、米軍」
不敵に、笹井は呟いた。
すでに、ヌーメアの米艦隊が出撃したことはガ島飛行場全体に知れ渡っている。あとは、索敵機や潜水艦による発見の報を待つばかりである。
笹井は、来たるべき米戦闘機隊との戦闘に思いを馳せていた。
◇◇◇
一方で、ある種の後方陣地と化しているガ島飛行場周辺と違い、アメリカ海兵隊と直接に対峙しているガ島最前線の陸軍将兵たちは、終わりのない緊張に包まれていた。
前線陣地は、数ヶ月にわたる米軍との対峙によって第一次世界大戦もかくやという塹壕陣地と化しており、さらに周辺の樹木を伐採して丸太のトーチカや防壁を築いて陣地を強化していた。
現在、日本軍の陣地は、西はマタニカウ川から東はコリ岬までを取り囲むように形成されている。つまり、飛行場のあるルンガ周辺の平地を中心に陣地が築かれているということである。
一九四二年九月に日本軍が飛行場を奪還して以来、米軍は島の東部に撤退しており、コリ岬周辺がガ島の最前線となっていた。
兵力的に見れば、飛行場を守る日本軍は一万弱で、米海兵隊は三万と圧倒的に米軍が優勢であった。米軍の補給路を遮断していなければ、あっという間に立場は逆転してしまうだろう。
ある意味で、塹壕を挟んで日米両軍が対峙している戦線というのは、ガダルカナルだけで見られる現象であった。
ニューギニア戦線、ビルマ戦線とも峻険な山脈や熱帯林によって両軍の勢力範囲は隔てられている。
日本海軍が南太平洋海戦や第三次ソロモン海戦で勝利した辺りから、米海兵隊は組織的な攻勢をかけることが出来なくなっていた。また、補給の途絶によって弾薬的にも肉体的にも、日本軍の陣地に襲撃をかけられるような状態ではなかった。
で、あるならば日本軍の前線陣地にもある種の楽観的な雰囲気が流れてもいいのだが、米軍の補給が途絶しているということが逆に徒となった。
飢えた米兵が日本軍の食料を略奪しようと、不意に少人数で襲撃してくる事例が多発したのである。それは兵士としての統制された襲撃ではなく、ほとんど夜盗じみた襲撃であった。
相手がジャングルの中に潜んでいるという心理的な不安感もあって、前線の日本軍将兵たちは漠然とした恐怖感に襲われることになった。
さらに日本兵たちの恐怖感を増幅させたのは、米軍がどのように飢えを凌いでいるのかが判明したからであった。
天明の飢饉を描いた絵にも現われているように、人間は極限の飢餓状態に陥ると、食べられるものは何でも食べるのである。
陣地を襲撃した米兵の中は、日本兵の持つ食料ではなく、日本兵そのものを目的としていた兵士もいた。さらに、米軍陣地の偵察に出た斥候隊の一部が未帰還となったことも、日本兵の恐怖感を倍増させた。
国家のための戦死は名誉なことであるという風潮のある日本軍(もちろん、あらゆる日本人がそう思っているわけではないだろうが)であっても、そうした戦死の可能性は想像の埒外であった。
日本軍の塹壕陣地がちょっとした野戦要塞と化しているのには、自軍の兵力が劣勢であるからというだけでなく、飢餓状態に陥った米軍に対する恐怖感という理由もあったのである。
「米艦隊のガ島来襲は二月七日二二〇〇時前後との予想です」
ルンガに司令部を設けている第十七軍司令部で、宮崎周一参謀長が言った。
「これが米軍による撤退作戦だとすると、敵兵力は舟艇が接岸出来る海岸線への集結を図ろうとするはずです。また、補給・増援作戦であったとしても、揚陸のために米軍兵力や物資は海岸に並べられることになります」
「撤収作戦であろうと増援作戦であろうと、米軍がどの海岸へやって来るのかが問題だな」
机の上に広げられたガ島の地図を眺めながら、第十七軍司令官・百武晴吉中将は応じた。
地図の周辺には、ガ島の航空写真も多数散らばっている。
「ソロモンの島々は海岸線付近まで熱帯林が押し寄せて、広く使える砂浜が非常に少ない。必然的に、米軍の使用する海岸は限られるだろう」
「また、ガ島の米兵は飢えて体力を消耗しております。前線からそれほど離れた海岸は使用出来ないでしょう」
ガ島東端部までいけばシーラーク水道から外れ、日本側の沿岸監視網から抜けることが出来る。しかし、そこは最前線となっているコリ岬から六〇キロもある。日本で言えば、帝都東京から熊谷ほどの距離である。
体力を消耗し、熱帯病に苛まれているであろう米兵にとって、六〇キロという距離はあまりにも遠い。
米軍は日本軍よりも圧倒的に機械化が進んでいるとはいえ、補給の途絶による燃料不足で、しかもジャングルの中を、三万の兵力を迅速に車両によって移動出来るとは思えない。
また、これまでの戦闘で米軍は少なからぬ車両を失っているはずだ。
日本軍は航空偵察などでガ島の米軍の状況は把握しようと努めており、大規模な車両の移動が確認されればただちに爆弾や重砲弾が降り注ぐようになっているのだ。
ここ数日、そうしたことが報告されていないとなると、少数の車両で隠密輸送に努めているのか、単に車両不足なだけなのか、いずれにせよ米軍は大規模な車両移動を行うことは出来ないだろう。
「となりますと、米軍の利用するであろう海岸は、これまでの事例も勘案しますと……」
そう言って、宮崎参謀長は航空写真を地図に重ねるように置いた。
「こちらの」彼は百武司令官に写真を示す。「タイボ岬周辺の海岸である可能性が最も高いことになります」
「重砲の展開は?」
「すでに野戦重砲兵第七連隊を展開させ、少なくとも前線から十五キロ圏内を射程に収めております」
「それよりも遠ければ、航空隊による爆撃で叩く。夜間となるだろうが、航空機にとっては目と鼻の先だ。問題なかろう」
「はい、そのように考えます」
「飛行場が敵戦艦によって砲撃されないという前提があるにはあるが、作戦としては問題なかろう」
百武中将は地図から顔を上げて頷いた。
「これで、前線の将兵たちも少しは落ち着けるといいのだが」
彼の精神的疲労が色濃く滲んだ声だった。
百武中将の下にも、前線から飢えた米兵の行動について報告が寄せられている。それによる前線部隊の士気の低下、ないしは精神的荒廃についてはいささかなりとも心を痛めていた。
海岸への襲撃作戦をとらなかったのは、米艦隊による艦砲射撃を恐れただけでなく、将兵の士気の低下を考慮してのことだった。
ここには、あの口やかましい大本営参謀もいない。
参謀本部も次期セイロン島攻略作戦に夢中のようで、ソロモン戦線については海軍が主導することを黙認しているようでもあった(もちろん、ガダルカナル攻防戦にあまり乗り気でなかった参謀本部が、ソロモンの戦局が悪化した際の責任を海軍に押し付けるためという組織防衛意識から出た態度)。
無意味な攻勢をかけて兵を無駄死にさせる必要もあるまいというのが、百武中将の意見であった。
門数は少ないものの、砲兵で叩けるならばそれに越したことはない。
あとは航空部隊と海軍さんの頑張り次第だな、と彼は思った。
◇◇◇
現在、ガダルカナルのアメリカ軍は、アレクサンダー・ヴァンデクリフト少将の海兵第一師団を中心に、海兵第二師団の一部、アレグザンダー・パッチ少将の陸軍アメリカル師団第一六四連隊から成っていた。
数字上の兵力としては合計三万ということになっているが、実際には戦闘による消耗に加えて飢餓、マラリアなどの熱帯病によって病死した兵士が多数に上っており、兵力は二万弱といったところにまで低下していた。その内、戦闘可能なほど体力を残している者はわずかである。
司令部はテテレと呼ばれる集落に置かれているが、部隊には作戦を立案・実行するだけの戦力が残されておらず、本当に司令部として機能しているかは怪しいところであった。
とはいえ、ここ数日は撤収作戦のために、久方ぶりに司令部としての機能を取り戻していた。
「今夜中にも、おおよそ一万の将兵がタイボ岬に集結出来そうです」
アメリカル師団を率いるパッチ少将が、どこかほっとした口調で言った。
「あとは、こちらの意図をジャップに察知されなければ撤収作戦は成功するでしょうな」
そう言った海兵隊のヴァンデクリフト少将の顔には、色濃い疲労感が滲んでいた。かつては屈強な体格と厳つい顔を持つ将軍であったのが、半年近くにわたるガダルカナルでの戦闘ですっかりと痩せ衰えていた。頬の肉は削げ、眼窩は落ちくぼんでいる。
これでも、末端の兵士よりはまだ良い部類であった。兵士の中には、骸骨に皮を張り付けただけの姿にまで痩せ衰えている者もいる。
「パッチ少将、日本軍による襲撃はあると思いますかな?」
「……恐らく、ジャップが陣地を出てくる可能性は低いと思われます」
「私も同感です。連中は亀のようにルンガの陣地に籠もったままだ。今更、こちらが多少大規模に動いたところで、陣地を強化する程度の対応しか取らないでしょうな」
二人は、暗黙の内にその理由を悟っていた。
もちろん、兵力的に合衆国が優勢であることが日本に対する抑止力となっているという理由はある。しかし、最大の原因は合衆国の将兵が飢餓に苦しむあまり人倫に反した行いをしたことが響いているのだろうと彼らは見ていた。
当然、指揮官としては士気が崩壊することを防ぐためそうした行いをした兵士を処断しようとしたのだが、兵士たちの間で庇い合いが発生し、犯人を特定するには至っていない。「ジャップは人間ではなくサル」、「サルの肉ならば食べても問題はない」、そうした意識が極限状態に陥った兵士たちの中にはあるのだ。
将兵の間で、密かに「モンキーハント」と呼ばれている行為は断続的に続いていた。日本軍の斥候が発見された際などは、部隊同士で「戦果」の取り合いが発生したほどだったという。
こうした米兵による行為は、戦後も日米双方の関係者が長くガ島地上戦について口を閉ざす原因となる。
米軍がヘンダーソン飛行場を奪還されたジャップの九月攻勢で、ヴァンデクリフトは飛行場に銃剣突撃を仕掛ける日本兵の姿を見ている。死を恐れていないようにも見える日本兵であっても、この状況は恐怖なのだろう。
何とも皮肉な結果であった。
となれば、問題は海軍だろう。
彼らが無事にガダルカナルへと辿り着いてくれなければ、撤収作戦は水泡に帰す。
結局、島嶼を巡る戦闘は陸上兵力ではなく海上兵力の優劣によって決着が付くということを、ガダルカナル攻防戦は証明してしまったのだ。
たったこれだけの戦訓を得るための授業料にしては、合衆国の払った犠牲は大きすぎるといわざるを得ないだろう。
「神よ、どうか我らをお救い下さい」
ヴァンデクリフトはそう呟くより他になかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
二月七日の午前は、何事もなく過ぎようとしていた。
戦艦コロラドを旗艦とする米第七十七任務部隊は、現在、ガダルカナルへ向けて北上中であった。
「ジャップは仕掛けて来んな」
コロラドの艦橋で、ハルゼーは呟く。
「このところ、ジャップの航空隊は我が輸送船団に対して夜間雷撃を仕掛けています。上空では第五十一任務部隊のF4Fが目を光らせておりますし、恐らく、今回も夜間攻撃を目論んでいるのかもしれません」
参謀長のブローニング大佐が応じた。
「我々は鈍重な輸送船ではない。ジャップが夜間雷撃を目論んでいようとも、それでマレー沖のようにこちらの戦艦を全滅させられる危険性は低いだろう」
「はい。私もそのように考えます。脱落艦は多少出るでしょうが、ガ島突入は問題なく行えるかと思います」
「問題は、連中の艦隊の居場所だな」
現在、ハルゼー中将率いる第七十七任務部隊は、断続的にジャップの偵察機の接触を受けていた。
戦艦部隊の後方にある二隻の護衛空母、ナッソー、シェナンゴからの上空直掩機が迎撃したものの、敵機は巧みに雲の合間などに逃げ込み、撃墜には至っていない。
空襲の脅威も懸念材料ではあるが、ジャップの艦隊の所在が不明であることも、ハルゼーたちにとっては不安要素であった。
あの鉄底海峡で、ガダルカナル沖海戦第一夜戦のような混戦となれば撤収作戦の実行が困難となる。だからこそ、早期の日本艦隊発見が必要であった。
しかし、ジャップの艦隊は今に至るまで発見されていない。敵の発信する無線がピタリと止んだことから、連中が出撃したことはほぼ確定している。
ガダルカナル沖海戦ではやたらと方々に無線を発する敵艦(これは連合艦隊旗艦であった大和のこと)があったが、それはジャップにしてはかなり例外的なものだ。ジャップは艦隊を出撃させると無線封止を行い、自らの居場所を特定されまいとする。
アメリカ海軍はガ島撤収作戦クリーンスレート作戦発動にあたり、「ザ・スロット」と彼らが呼ぶニュージョージア海峡に潜水艦を派遣して日本艦隊の動向を探ろうとしていた。「ザ・スロット」は、ガダルカナルへと向かう日本艦隊が必ずといっていいほど、通過する場所なのだ。
しかし、現状では潜水艦からは何の報告もない。敵の制海権・制空権下での活動なので、もしかしたら何隻かはジャップの対潜哨戒機に捕捉されて撃沈されてしまったのかもしれない。しかし、それでも何の報告もないということは、明らかにおかしかった。
何故ならば、ソロモンの島々には連合軍のコーストウォッチャー(沿岸監視員)が潜んでおり、彼らもまた日本艦隊や航空部隊の動向監視を命じられているからである。コーストウォッチャーからの報告もないとすると、ジャップは「ザ・スロット」を航行していないことになる。
「ジャップの艦隊は、ガダルカナルを目指していないと見るべきか?」
「今に至るまで、『ザ・スロット』での発見報告がないところを見ると、そう判断すべきかと」
「じゃあ、ジャップの艦隊はどこへ消えたっていうんだ?」ハルゼーは独り言のように呟いた。「北か、南か?」
「ハワイからの陽動が効いているのかもしれません」ブローニングは言う。「これまでも、輸送船団の多くがハワイから出港したものでした。それを捕捉すべく、ジャップの艦隊は北上しているのではないでしょうか?」
「だといいがな……」
歯切れ悪く、ハルゼーは応じた。敵の所在が判らないというのは、中々に神経を削られるものだ。
特に闘将と呼ばれるほど積極的な指揮官であるハルゼーにしてみれば、撃滅すべき敵の所在が不明な現状は、何とももどかしいものがあった。
「現状では、あらゆる可能性を考慮に入れるべきだな」
「はい、ガ島沖での遭遇も想定しておくべきかと存じます」
こうした彼らの判断は、「戦場の霧」と呼ばれる、戦地にありがちな情報不足からもたらされたものであった。
ハルゼーらの想定を裏切り、コロラドのレーダーが日本機の編隊を捉えたのはそれから少ししてのことであった。
アメリカ軍は一つ、過誤を犯したことになる。
◇◇◇
一方、米軍がその行方を追っている日本海軍第八艦隊であるが、彼らも彼らで「戦場の霧」に悩まされていた。
重巡洋艦鳥海を旗艦とする第八艦隊は、ショートランドを出撃後、ハルゼーらの予想に反して、エスピリットゥサントの哨戒網から逃れるように西回りの航路を取りつつ南下していた。
つまり、ニュージョージア海峡ではなく、珊瑚海へと向かっていたのである。
第八艦隊は、連合艦隊司令部から敵輸送船団撃滅の命令を受けている。
ヌーメア沖で哨戒を行っている伊六潜水艦からの報告により、敵戦艦部隊に引き続いて輸送船団が出撃したことが判明している。そのため第八艦隊司令部は、敵戦艦部隊に対する迂回機動を行い、その後方の輸送船団を捕捉・撃滅することを企図したのであった。
エスピリットゥサントの米重爆隊は活動が低調であるとはいえ、島に接近し過ぎれば空襲を受けてしまうだろう。エスピリットゥサントには、重爆部隊以外にも、艦上爆撃機や艦上攻撃機は配備されていることが確認されている。
そのため、第八艦隊司令長官・三川軍一中将は夜間の内に敵輸送船団を襲撃、一撃離脱を企図していた。
作戦構想そのものは、彼が指揮した第一次ソロモン海戦と同じである。
三川中将が航空機を脅威と考えていることも、また同じであった。第一次ソロモン海戦の際も、敵巡洋艦部隊を撃滅しただけでガ島沖からの離脱を図っている。幸い、あの時は第二航空戦隊から上空援護を提供できる旨の入電があったため、ルンガ沖への再突入を決断、連合軍輸送船団の撃滅を果たすことが出来た。
今回に関しては、ソロモンに展開する第十一航空艦隊の援護をどこまで受けられるかが問題であった。
第十一航空艦隊には、連合艦隊司令部よりガ島へ接近する敵艦隊への迎撃命令が出ている。戦闘機隊を第八艦隊の援護に派遣する余裕があれば良いが、ガ島飛行場を破壊されるなどすれば、第八艦隊は第十一航空艦隊から上空援護を受けるのが困難となる。それだけ、味方の制空権内へ退避するのに時間がかかるからである。
「第六艦隊が発見したという敵輸送船団はまだ捕捉出来んのか?」
鳥海艦橋で、三川司令長官は大西新蔵参謀長に尋ねた。
「第十一航空艦隊、第六艦隊ともに続報はありません」
結局、敵輸送船団を発見したというのは、現在のところそのヌーメア出港を目撃した伊六潜水艦のみなのだ。索敵機や哨戒任務に就いている他の潜水艦から、敵輸送船団発見の報告はない。
これは当然のことで、伊六潜水艦が発見したのはキンケードの第五十一任務部隊であった。つまり、伊六は護衛空母を輸送船と誤認していたのである。
加えて、第三次ソロモン海戦で空母レンジャーを撃沈された戦訓から、キンケードがかなり慎重に艦隊針路を選択していたことも、日本側がこの艦隊を発見出来ていない要因となっていた。
その意味では、第八艦隊もまた、アメリカ軍同様、戦場における過誤を犯したことになる。
「我々は米軍の陽動に引っかかったのではないだろうな?」
もっとも、そうした真実が明らかになるのは戦後のことであり、だからこそ三川は疑念に囚われざるを得なかった。
日本軍は無線傍受の結果、ハワイから出撃した米艦隊の存在を察知していた。しかし、ハワイからガダルカナルまでの距離的な問題から、これを米軍の陽動部隊であると判断していた。そもそも、ソロモンより北方の海域は、米軍の制空権の及ばぬ地域である。そのような海域から敵輸送船団が南下してくるとは考えられなかったので、第八艦隊司令部は伊六潜水艦の発見した輸送船団こそ本命であると判断し、出撃していたのである。
「北方の部隊は、あえて我々に陽動部隊であると思わせることで我々の裏をかき、その安全を確保しようとしているのではないか?」
「しかし、我が陸攻隊の航続圏内に侵入すれば、上空援護のない輸送船団など鎧袖一触です。米軍が、そのような無謀な作戦を立案するとは思えませんが」
「うぅむ……」
大西の指摘に思案顔のまま、三川は唸った。
日は徐々に傾きつつある。珊瑚海といっても、水上艦隊にとっては広大だ。かつて翔鶴、瑞鶴が米空母部隊と死闘を繰り広げた海であるが、空母を持たない第八艦隊は遠距離での攻撃手段がない。
い号作戦直後、第八艦隊はハワイから南下する敵輸送船団を捕捉・撃滅することに成功しているが、これは作戦発動以前から綿密な航空偵察などを行い、連合軍の海上交通路を予め日本側が把握していたことが大きい。い号作戦がその後も戦果をあげ続けているのは、ハワイからエスピリットゥサント、ニューカレドニアへと向かう航路が限られているからだ。
今回は、事前に綿密な航空偵察を行うだけの準備期間がなかった。
「第十一航空艦隊は索敵機を出し渋っているのではないだろうな?」
そのような疑念が、三川の頭に浮かぶ。
攻撃重視の日本海軍航空隊は、攻撃用の機体を索敵に割くことを極端に嫌う悪癖があった。そのため、索敵が疎かになりやすい傾向がある。
い号作戦は広大な南太平洋で敵輸送船団を捕捉しなければならず、第十一航空艦隊はかなり念入りな索敵を行っていると聞くが、今回の相手は米戦艦部隊である。
第十一航空艦隊が、従来のように索敵機の数を減らしていてもおかしくはない。
「いえ、第十一航空艦隊には索敵専門の二式陸偵や百式司偵が配備されております」大西が言った。「連合艦隊司令部からも敵輸送船団の捕捉を命じられておりますから、そのようなことはないでしょう」
「だといいがな」
ソロモン方面に進出している二個艦隊(第十一航空艦隊は基地航空隊だが)は、一九四三年二月現在、指揮系統が一本化されていない。そのため、両艦隊の意思疎通や情報伝達に問題が生じることが度々発生している。
特に割を食うのは各水雷戦隊で、各艦隊からの派遣ということで指揮系統が明確化されておらず、第八艦隊と第十一艦隊から相反する命令を受け取ることもしばしばだった。
この問題が解決されるのは次の戦時編制改定時(編制は天皇による裁可が必要なため、頻繁に改定出来ない。次の改定は三月二十五日を予定)であり、現状では二個艦隊の連携に種々の問題がある状況であった。
そうした指揮系統の問題から、第八艦隊は索敵機を飛ばしていない。飛ばしたとしても回収する余裕がなく、また弾着観測機として残しておきたいという艦隊司令部の思惑もあるのだが、より根本的には指揮系統が統一されていないために索敵範囲の重複、敵味方の誤認などが発生することが懸念されるからだ。
もし両艦隊の索敵機が同一目標を発見したとしても、指揮系統が統一されていないために、それを別の目標であると誤認する恐れがあったのである。
「とにかく、今は第十一航空艦隊ないしは第六艦隊からの報告を待つしかありません」
「やむを得んか」
自分自身を納得させるような口調と共に、三川は頷いた。
その時、艦橋に通信兵が駆け込んできた。まだ少年の面影の残る年若い通信兵の顔は、興奮で赤くなっている。
「第十一航空艦隊の攻撃隊より、ト連送を受信しました!」
◇◇◇
「レーダー室より報告。北西方向より接近する機影あり。数、およそ四十」
第十一航空艦隊によるアメリカ海軍第七十七任務部隊への空襲は、二月七日一三三〇時頃から始まった。
それまで第七十七任務部隊の上空直掩は、後方の第五十一任務部隊から発進した戦闘機隊十二機が交代で当たっていた。第五十一任務部隊は三十六機のF4Fを搭載しているので、三交代制で上空援護に当たっていたのである。
コロラドのレーダーがジャップの編隊を探知すると、第七十七任務部隊は直ちに第五十一任務部隊に戦闘機隊の増援を要請した。
戦艦部隊はジャップの索敵機による断続的な接触を受けていたので、キンケード少将の護衛空母部隊でも増援の戦闘機隊は即座に発艦出来るよう準備を整えていた。
「ジャップが昼間空襲を仕掛けるとは、意外でした。申し訳ございません」
自身の情況判断に誤りがあったことを、ブローニングは即座に認めた。
「いや、俺もジャップの昼間空襲はないと見ていた。これは俺のミスでもある」
ハルゼーは渋い表情で、艦橋の外に広がる蒼穹を見上げていた。
対空戦闘用意の命令が下された艦隊では、甲板の高角砲や機銃座に乗員たちが取り付き、ジャップを待ち構えている。
現在、艦隊は輪形陣を取って北上していた。最も守るべき艦は旧式駆逐艦改造の高速輸送艦であるが、これを輪形陣中央に持ってきてはガ島撤収作戦というこちらの意図を暴露しかねない。
そのため、第七十七任務部隊は戦艦によるガ島艦砲射撃を企図しているとジャップに認識させるため(ガ島砲撃そのものも今回の作戦計画には入っているが)、コロラド以下四隻の戦艦を輪形陣中央に配置していた。その周囲を巡洋艦、高速輸送艦で囲い、輪形陣の外周を駆逐艦が守る配置となっている。
「ハルゼー中将」
対空戦闘用意の命令を下し終えたコロラド艦長が、ハルゼーに向き直った。
「提督は参謀と共に、航海司令塔へ移動すべきかと存じます」
航海司令塔は、艦内でもっとも厚い装甲に覆われている区画である。コロラドには未だCICは設置されていないため、指揮は艦橋で行うか、航海司令塔で行うかのどちらかとなる。
当然、操艦によって敵の空襲を回避しなければならない艦長は見通しの良い艦橋に留まらざるを得ないが、艦隊全体の指揮を執るべき艦隊司令部は安全な航海司令塔に移動すべきであった。
「結構だ」
だが、ハルゼーは一瞬の躊躇もなく艦長の進言を退けた。
「俺は分厚い装甲に守られた部屋でビクビクしている臆病者にはなりたくない。それに、艦長の操艦技術を信頼している。航海司令塔に移る必要はない」
「……」
コロラド艦長もこの闘将の気質を理解しているのか、それ以上進言することはなかった。
「艦長、この艦を頼むぞ」
「アイ・サー」
濃緑色と灰白色の斑模様の零戦三二型を操る笹井醇一中尉は、前方に芥子粒大の機影を発見した。
と、自身が敵機発見を周囲に知らせる前に、編隊の先頭付近にいる零戦の翼が振られた。どうやら、自分よりも先に敵機を発見し、いち早く機体をバンクさせたらしい。相変わらず、自分の周囲には驚異的視力を持つ人間ばかりいるようだ。
笹井も十分熟練搭乗員には分類されるだろうが、台南空以来の熟練下士官に比べればまだまだ若輩者なのだ。
現在、笹井らの部隊は高度六〇〇〇メートル付近を飛行している。編隊の先頭では、航法を担当していた先導役の二式陸偵が退避行動に移りつつある。一方、零戦隊は落下増槽を投棄し、速度を上げつつ発見した敵影に突撃しつつあった。
相対速度は優に時速一〇〇〇キロを超えるだろう。芥子粒大の機影がごま粒大になり、それが完全に航空機の形に変わるまではあっという間であった。
ビヤ樽のような太い胴体の機体。グラマンF4Fだった。
互いの翼に発砲の閃光を走らせながら、日米の編隊は交差した。二つの編隊が放った牽制の一撃で、撃墜された機体はない。
「……」
笹井は無言でラダーペダルを踏み込み、操縦桿を引いた。視界が縦になる。
彼を始めとする零戦の編隊が、後方に抜けた敵編隊を追って旋回する。ソロモンの空は、たちまち彼我の機体が入り乱れる戦場と化した。
米軍の戦術は、ガダルカナル攻防戦で何度も見た二機一組になる戦法。それに対して、実用可能な無線機を持たない零戦隊は己の技量と目視による連携で敵機に襲いかかっていく。
笹井は、別の零戦に目を付けている敵機に狙いを定めた。
背後からの接近。
だが、気付かれた。
二機の敵機は目標への追撃を諦め、笹井機から逃れるために降下に移る。
笹井も機首を突っ込み、追撃する。敵機の狙いは判っていた。
降下で速度が付くと、敵機はその速度を活かして宙返りを行おうとした。速度性能や降下性能で零戦に勝るF4Fならではの戦術だ。
だが、笹井が機首を引き起こすのは彼らよりも早かった。すでに、敵機がどの瞬間に引き起こしを行うのか、経験から判っていたのだ。
照準レクティルに、上昇を始めた敵機が自ら飛び込んでくる。
スロットルレバーのボタンを押し、両翼の二十ミリ機銃を叩き込む。
機体に伝わる振動。
敵機の翼が根元から折れる。一機撃墜確実。もう一機は遁走を開始した。
直後に笹井は離脱をかける。背後から迫る脅威に気付いたのだ。
搭乗員の意識は、前方に一、後方に九の割合で向けなければならないといわれる。そして、射撃時の直線飛行ほど危険なものはない。
急激な回避機動。体にGがかかり、ぐるりと視界が反転する。真っ白な雲やギラつく太陽が上下左右に回転していった。
そんな笹井機の脇を、鮮やかな薄青の塗装を施した二機のグラマンが降下しながら通り過ぎていく。
離脱が数瞬でも遅れていれば、射点に付かれていただろう。
そして、旋回を終えた笹井機は、逆に敵機の後方に付くことになった。
上空から降下しながらの一連射。
そして、別の方向からの射撃がもう一方のグラマンに吸い込まれた。
何度も笹井の列機を務めてくれている西沢広義飛曹長の射撃だ。背後から自分を援護してくれていたのだ。
一瞬だけ、二機の零戦が並ぶ。
笹井は手信号で西沢に謝意を伝えた。
そしてまた、二人の駆る零戦は、乱戦の中へと飛び込んでいくのだった。
「ジャップの編隊が戦闘機だけで構成されていた、だと?」
半信半疑といった口調で、ハルゼーは通信兵を問い質した。
「はい、敵編隊はおよそ四十機あまりの零戦で構成されていたとか」
「完全なる戦闘機掃討戦を意図した編成ですな」
ダグ・モールトン航空参謀が苦い表情で指摘する。
「そんなことはどうでもいい!」判りきったことを言うなとばかりに、ハルゼーは怒鳴る。「つまり、連中の本命は次だ。レーダー室に伝えろ、すぐに新たな敵編隊が接近する可能性あり、決して見落とすな、とな」
「アイ・サー」
伝令の兵士が、緊張した面持ちで艦橋から走り出した。
「エスピリットゥサントにも緊急電を組め! 第五十一任務部隊の上空直掩に付いている機体を、ただちに第七十七任務部隊に向かわせろ、とな!」
「それでは、第五十一任務部隊の上空援護が薄くなります! そもそも、燃料が……」
「燃料の足りなくなった機体は、第五十一任務部隊の周囲に着水させればいい!」
言いつのろうとしたモールトン航空参謀を、ハルゼーは遮った。
「ぐずぐすするな! ジャップの第二次空襲が始まるぞ!」
その言葉に、モールトン航空参謀は弾かれたように通信室へと駆け出す。
「……ジャップめ、やってくれる」
ハルゼーは、艦橋から見える空を睨み付けた。
コロラドは未だ、ジャップとの本格的な戦闘を経験していない。真珠湾攻撃を免れた彼女は、今まで船団護衛や改装を行っていたのだ。
ダメージコントロールや対空砲火に、乗員たちがどれほど力を発揮するのか、ハルゼーには判らなかった。
ジャップによる第二次攻撃隊は、零戦で構成された第一次攻撃隊が米戦闘機隊を撃退してまもなく戦場上空に到達した。
「レーダー室より報告! 北西方向より大編隊接近中! 数、およそ一〇〇!」
「……」
「……」
レーダー室からもたらされたジャップの航空隊の規模に、コロラドの艦橋に詰める者たちの表情が険しくなる。
現在、第七十七任務部隊の上空に、直掩機の姿はない。先の空戦でほとんどが落とされ、生き残った機体も損傷と弾薬の消耗のために母艦へと帰還せざるを得なかったのだ。
そして、救援を要請したエスピリットゥサントの航空隊も、午前中から第五十一任務部隊の上空援護に当たっていたため、第七十七任務部隊を援護する燃料的余裕がないという。
アメリカ艦隊はまさしく、マレー沖でイギリス東洋艦隊が撃滅された時と同じく、上空を守るもののない状況で空襲を受けることになったのである。
この時、第十一航空艦隊を中心とする日本側航空隊の戦術は、自らの損害を局限することに重きを置いていた。
敵艦隊上空に戦闘機が張り付いていることは、索敵機からの報告で判明していた。まずはこれを撃退すべく、ガ島に配備された零戦隊四十二機(加えて、誘導任務の二式陸偵一機)を第一次攻撃隊として出撃させたのである。
そして今、第七十七任務部隊へと接近しつつある第二次攻撃隊は、陸海軍合同部隊となっていた。
編成は、一式戦闘機「隼」が二十四機、零戦九機、九九式軽爆が十八機、そして九九艦爆が五十七機という規模であった。
これらの機体が、一斉に米艦隊へと襲いかかったのである。
「九九艦爆、外周部の駆逐隊に急降下!」
「何てこった!」
ハルゼーはジャップの目論見を即座に悟った。
固定脚の特徴的な機体が、輪形陣外周部を守る駆逐隊に急激な角度で降下を始めていた。
コロラドも、メリーランドも、そして他の艦艇も盛んに対空砲火を撃ち上げているが、どこか心許ない。
旧式戦艦は近代化改装を受けるなどしているのだが、サウスダコタ級などに比べればその対空砲火の威力は劣る。四戦艦とも、旧式の五インチ二十五口径高角砲を連装六基から八基しか搭載しておらず、対空機銃も二十ミリ機銃だけしか搭載されていない。対空射撃に威力を発揮するボーフォース四十ミリ機銃は、どの戦艦も搭載されていなかった。
ある意味で、日本の旧式戦艦よりはマシといった程度の対空兵装しか存在していなかったのである。
「オバノン、被弾! 火災発生の模様!」
見張り員の絶叫が届く。それに少し遅れて、爆音がコロラドへと届いた。
輪形陣外周部で奮戦していた駆逐艦オバノンが被弾したのである。
「畜生っ!」
コロラド艦橋で、ハルゼーは小さく罵り声を上げた。これで、輪形陣に駆逐艦一隻分の穴が空いたことになる。
周囲の空は、各艦が撃ち上げる対空砲火でどす黒く染まっていた。高角砲発砲の振動で、コロラドの船体が小刻みに揺れている。
耳を聾するほどの騒音に包まれた第七十七任務部隊の輪形陣は、それでもなおガ島を目指して北上を続けていた。
回避行動を取る各艦の航跡が白く蛇行し、対空砲火の黒煙が後方へと流れていく。
「隼!」
その瞬間、見張り員の叫びと共に、コロラド目がけて突っ込んできた一式戦闘機「隼」の機首に閃光が走る。
放たれた七・七ミリ機銃弾は、容赦なくコロラドの機銃員たちの体を引き裂いていく。
悲鳴と絶叫、機銃座が血と脳漿と肉片に塗れる。
それでもなお、生き残った者たちは懸命に対空機銃を撃ち続けていた。
「九九軽爆、本艦に向かって降下してきます!」
「取り舵一杯!」
見張り員の叫びに応じて、艦長が命令を下す。
コロラド目がけて、九九軽爆が緩降下を始めていた。九九艦爆によって空けられた輪形陣の穴、そして戦闘機隊の機銃掃射によって出来た対空砲火の穴を突破してきたらしい。
未だ健在な高角砲と機銃が、それを迎え撃つ。戦友の死体や血に塗れた機銃座の横で、乗員たちが必死の形相で弾を撃ち続ける。
ある者は日本人への怨嗟を叫び続け、またある者は主の加護を求めた。
刹那、一機の九九軽爆が胴体中央に被弾、瞬時に爆散した。搭乗員の遺体と共に、破片がソロモンの海へと消えていく。
「一機撃墜!」
「まだ来るぞ! 油断するな!」
甲板で指揮を執っていた士官が兵卒たちを怒鳴りつける。
「敵機、投弾!」
緩降下してきた九九軽爆が、一転して上昇に転じた。それは、投弾の合図である。
機銃員の一部は、自分たちに降り注ぐ黒い塊をはっきりと視認していた。
そして、衝撃と爆発。
「ダメージリポート!」
艦長が即座に被害報告を求める。
「高角砲、機銃に被害! 右舷甲板で火災発生中!」
「消火、急げ!」
艦内を、ダメージコントロール班が駆ける。
そして、第七十七任務部隊の災厄はさらに続いた。
「ニューメキシコ、被弾の模様! 火災発生!」
「ストリンガム被弾! 行き足止まります!」
「くそっ、高速輸送艦まで!」
艦橋の誰かが叫び、皆が唇を噛む。高速輸送艦の一隻であったストリンガムが被弾し、炎上しつつ速力を低下させている。
「提督、救助は!?」
「駄目だ!」ハルゼーは一言の下に切り捨てた。「空襲下で艦を止めるわけにはいかん!」
そして、艦隊は北上している。今は見捨てるしかないのだ。
四方八方から襲いかかるジャップの爆撃機は、皮膚を一枚一枚剥ぐように、第七十七任務部隊へと打撃を与えていた。
「第二次空襲で、駆逐艦ストロングが沈没、オバノン、ラドフォードが大破して航行不能。高速輸送艦もストリンガム、デントが航行不能となっています」
嵐のようなジャップの空襲が終わると同時に、被害の集計が行われた。
「……駆逐艦フレッチャーとテイラーに救助を行わせ、航行不能となった四隻は処分せよ」ハルゼーは怒りを押し殺した低い声で命じた。「フレッチャーとテイラーは救助後、エスピリットゥサントへ帰還。残存艦艇は陣形を再編、引き続きガ島を目指す」
これで、第七十七任務部隊は戦列から五隻の駆逐艦を失ったことになる。元々、南太平洋戦線全域で護衛艦不足に悩まされていた状況であっただけに、駆逐艦三隻が沈没した影響は大きい。
「本艦とメリーランド、ニューメキシコ、それと軽巡ボイシも被弾しましたが、幸いにして小型の一〇〇ポンド爆弾(実際には日本の六〇キロ爆弾)だったため、戦闘航行に支障はありません」
「続いて、キンケード少将の第五十一任務部隊からの報告です。第五十一任務部隊の戦闘機隊は、先の空戦でほとんどの戦力を消耗してしまいました。三十六機のF4Fの内、未帰還は二十七機。さらに二機が損傷のため着艦に失敗して海中に投棄。再出撃可能な機体は現在、集計中とのことです」
「……」
ハルゼーは真っ赤な顔になって、歯を食いしばっている。コロラド艦長など艦橋要員たちが詰めているこの場所で、感情を激発させるのは士気の点から拙いと感じたのだろう。
「……連中の狙いは、こちらの防空能力を低下させることだ」
第一次攻撃隊による戦闘機掃討戦、第二次攻撃隊による対空火器の破壊。
恐らく、ジャップの本命は第三次攻撃隊以降。間違いなく、雷撃機が来るだろう。
時刻はすでに一五〇〇時を越えている。
空襲による回避行動や救助活動で多少は時間を浪費したとはいえ、このままいけば二三〇〇にはガ島ルンガ沖へと突入できるだろう。
そう、このままいけば。
上空援護すべき戦闘機はなく、対空火器も破壊された。その状態で、ジャップの空襲を潜り抜けられるとは思えない。
「エスピリットゥサントに出した上空直掩の要請は?」
「一四一五時に陸軍のP38十二機が出撃したとの報告が入っております。本来は第五十一任務部隊の上空直掩に当たるはずだった部隊とのことです」
モールトン航空参謀が答える。
「十二機だけか?」
いかにも不満そうな様子で、ハルゼーは確認する。
「稼働可能な機体をかき集めても、それだけしか確保出来なかったようです」
「……」
ハルゼーは憤然として息をついた。
とはいえ、やむを得ない面はある。P38は複雑な構造のため生産性が悪く、おまけに太平洋戦線と欧州戦線で数少ない機体を取り合っているのである。
そして、昨年末頃から南太平洋に配備され始めたP38は、日本海軍による一連の通商破壊作戦で予備部品が十分に届かず、稼働率を低下させていたのである。
そして最大の問題は、現状のアメリカ軍戦闘機の中で最長の航続距離を誇るP38であっても、ガダルカナル-エスピリットゥサント間の飛行は航続距離の限界に近いことであった。ガダルカナル-エスピリットゥサント間の距離は約八〇〇キロであり、P38の航続距離は約一五〇〇キロなのである(大戦後期になると改良型が生産され、航続距離はさらに伸びているが、一九四三年二月現在ではこの数値が限界)。
つまり、実質的に往復は不可能で、空戦で燃料を多大に消費することを考えれば、第七十七任務部隊の援護すら覚束ない。
今回の作戦でも、第七十七任務部隊の上空直掩任務は護衛空母部隊の役目と考えられており、エスピリットゥサントのP38部隊は万が一の場合の予備兵力扱いであった。少なくとも、往路で彼らの援護を必要とすることは考えられていなかった。
「……エスピリットゥサントには、空母ホーネットやエンタープライズ、レンジャーの生き残りの搭乗員たちがいたな?」
「はい」
ブローニング参謀長が、言葉少なに答える。上官が何を考えているのか、察したからだ。
「彼らならば、洋上航法に問題はないだろう。ただちにキンケードの部隊にそれらの部隊で損害を補充するように伝えろ。今日は間に合わずとも、明日、我々が帰投する時には上空直掩機を出せるようにするんだ」
「……」
「……」
ブローニングはモールトン航空参謀と目を見合わせた。
命令の困難さは、空母部隊指揮官であるハルゼー自身も判っているだろう。
確かに、元艦載機搭乗員であれば目印となるものが何もない洋上であっても、目標地点に到達出来るよう訓練されている。しかし、空母ホーネットなど大型空母に乗っていた搭乗員たちにとって、遙かに甲板が狭く速力も遅い護衛空母に発着艦させるのは、困難が伴うだろう。
よほどの凄腕でなければ、発着艦事故が多発するに違いない。
それでも、上空直掩を付けない場合に艦隊が受ける被害に比べれば、許容範囲であるかもしれない。
問題は、機動部隊再建に必要な実戦経験のある搭乗員を失う危険性があることだ。
だが、そのようなことは、ハルゼーは百も承知であろう。
「この事態とあっては、やむを得ないことかと」
参謀たちを代表して、ブローニングは賛同する。
「ただちに、第五十一任務部隊とエスピリットゥサントへの暗号電を組みます」
「ああ、素早くやれ」
「アイ・サー」
アメリカ海軍はこうしてまた一つ、蹉跌を重ねることになった。
そして、日本軍の第三次攻撃隊がレーダーによって探知されたのは、一五一五時頃のことであった。
第三次攻撃隊となった部隊は、零戦三十四機、一式陸攻十一機、九七艦攻十七機であった。
一式陸攻と九七艦攻はガダルカナルに配備されている機体であったが、零戦はニュージョージア島ムンダ飛行場から派遣されてきた機体である。
第一次攻撃隊でガ島に配備されていた零戦をほぼ全機出撃させる計画であったため、この日の早朝、彼らはムンダからガ島へと進出し、搭乗員の休憩と機体の整備、燃料の補給などを行った上で出撃したのであった。
第二次攻撃隊に比べれば小規模であるが、第三次攻撃隊は第二次攻撃隊がどれほど対空砲火を潰すことが出来たのかを確かめるための一種の威力偵察部隊とされていた。
とはいえ、一式陸攻と九七艦攻という二種の雷撃機を操る搭乗員たちは、獲物を後続の部隊に譲るつもりなどさらさらなかった。これまで輸送船団ばかりを叩いてきたため、久々の対艦攻撃に搭乗員たちの士気は旺盛だったのである。
結果として、第三次攻撃隊は戦艦メリーランド、ミシシッピーに魚雷一本、軽巡ボイシに魚雷二本を命中させ、さらに被弾した一機の九七艦攻が戦艦ニューメキシコ艦橋に体当たりを敢行し、艦長以下艦橋要員を軒並み戦死させるという戦果を挙げた。
エスピリットゥサントから急遽派遣されたP38部隊も防空に努めたものの、中高度以下での空戦となったため優れた高高度性能を発揮することが出来ず、旋回性能に勝る零戦に圧倒された。
こうして、アメリカ軍は作戦初日にして航空兵力を大きく消耗することになったのである。
本来であれば野中五郎少佐らの陸攻隊が米艦隊に夜間空襲をかけるシーンまで描きたかったのですが、字数が二万を超えそうになりましたので、次回にいたしました。
ガ島突入を目指すアメリカ戦艦部隊は、史実のレイテ沖海戦における栗田艦隊のような状況に置かれています。ただ、ある程度の上空援護を得られるだけ、史実の栗田艦隊よりもだいぶマシなのでしょうけれども。
ちなみに、第十一航空艦隊の草鹿任一中将と、第八艦隊の三川軍一中将は、草鹿長官が海兵第三十七期、三川長官が三十八期なので、草鹿が先任かと思いきや、中将昇進が同時期なのです。そのため作中でも描写した指揮系統上の混乱は、史実でも見られたことでした。
ご意見・ご感想等ございましたらば、宜しくお願いいたします。