7月31日 ②
アオに海に引き込まれ、そのまま手を引かれた。
『そんなこと、この海の広さを感じれば、ちっぽけに思えるさ!』
海月も海が広いのは知っている。地球における海の割合は70%以上を占めるのだから。日本なんて沖縄から北海道まで往路だけでも何度海を隔てなければならないのか。
それだというのに、アオは海月をどんどんと海の中へと引っ張っていく。
頷いたものの、やはり怖い。繋いだ手に力を込めるとアオは優しく握り返す。
(ええぃっ! なるようになれ!!)
防波堤を越えると、海の流れが突然変わった。
体に感じる水の重さがどんと重くなった。穏やかだった湾内の海は防波堤によって作られたものだ。今日のような天気が良い日でも海には大きくゆったりとした波ができている。気を抜いたらどこか遠くへ流されそうだ。
(ううぅ…この手が離れないようにしないと…)
アオの手を両手でぎゅっと握って、その一点を見つめた。
海月は海が好きだ。海に住む生物も好きだ。その色も、空気も、時に荒れていても。弱肉強食だってある。でもそれが海だと知っている。“知っている”というには海は広すぎるかもしれない。神秘的でまだ未知の世界が広がり、ロマン溢れる場所。
海月はそんな場所を実際には見たことがない。
図鑑や本、テレビや写真に映画による知識と、自分が見て感じている実際の海だけしか本当のところは知らないのだ。
船で沖へは行ったことがある。祖父母の漁の手伝いでテトラポット付近へ出たこともある。そのどれもが大人と一緒だった。ちゃんと水中メガネにシュノーケル、足ヒレを装備してだった。
今は、目の前にいる自分と同じくらいの少年と、なんの装備もない二人。怖いと思わないわけがなかった。
「ミツキ、見て?」
アオに促され、繋いだ手から前へと向けると―――
自分たちの身長よりも遥かに深さ―――優に5メートル以上は深さがあるはずだ。6メートルなのか7メートルなのか、それ以上なのか―――なのに、それでも透明な青は広がり海底の岩場に、海藻に、珊瑚がハッキリと見える。岩の合間に動く魚やカニまでもが見えて、陽の光に照らされている。
「うわぁ…きれい……」
海月の呟きを聞いて、アオは目を細めた。
「ミツキ、まだ怖い?」
「うーん…さっきよりは大丈夫」
両手で握っていた手は片方外れていた。
「そう! じゃあもう少し泳ごう。ちゃんと見ていてね?」
「見て? う、わ!?」
アオは泳ぐ力を強めた。
―――どんどん、どんどん。
見ている景色がぐんぐんと流れていく。
陸地から離れていくとともに、海底も離れていく。
深い青は色を濃くしていくが、横に広がる透明な青は煌めきを増す。
途中、サメともすれ違った。海月は恐怖に震えたが、アオはさして気にした風も見せずに笑っていた。サメも海月たちに気が付いているはずなのに、近付いて来なかった。
海月にはなぜだか分からないが、大丈夫なんだと思えた。
ある程度沖まで行くと、アオは速度を緩めてたゆたうように泳ぎだした。
一度海上へと顔を出して息をした。どれだけの時間呼吸をしなかっただろうか?
「…アオ、これは魔法?」
“魔法”なんて非現実的なことなのに、海月はそうとしか考えられずアオに尋ねた。
「ふふふ。そうだね。僕の魔法」
いたずらっぽく笑うアオは本当か嘘か分からなかった。
それでも、この状況に納得せざるを得ない。
「じゃあ、もう一泳ぎしようか」
二人は大きく息を吸い込み、素潜りをした。
そこにはアジやキビナゴの群れがあった。銀色の鱗がキラキラと光を反射させて、海の中だというのに虹色の光を散りばめる。
群れの中に割って入っていくときれいに避けていく。
避けていくのに逃げずに二人の周りをぐるぐると回る。手を伸ばせば離れ、手を戻せば近付いてくる魚たちはまるで遊んでいるようだ。
上を見上げれば魚の影が模様のようにはっきりと型どられている。
踊るようにキラキラ、キラキラと陽の光を巧みに操る群れに、海月は目を奪われた。
いつも目にしている魚がこんなにも美しい世界を作る。
突然その世界を壊す者が現れた。
右から左からと水の中を切り裂くように大きな影が魚の群れに飛び込んでくる。
曲線を描いた艶やかな体に、三角形の背びれ、柔らかくしなやかなその泳ぎは、まるで水の抵抗を感じさせないようだ。
「イルカだぁっ」
何十匹もの大群で形成されたイルカの群れが、踊っていた魚の群れの行き先を操るようにあちらからこちらからと濃いグレーと薄いグレーの模様が視界に入ってくる。
小さな魚が集まっていれば彼らにとっては格好の餌食だ。
ただ尾びれを一掻きするだけで必ず口の中には餌が入ってくるのだから。
海の中でこんなに大群のイルカに会えば、人懐こいイルカといえど、少しは怖く感じてもおかしくはないのだが、海月はただただ自然の摂理に感動していた。
「すごい…」
海月の笑顔を見て、アオは柔らかく微笑んだ。
しばらくそんな海の世界を堪能した後、二人は近くの小さな島………島と言っても人が住んでいたり、草木が生い茂ったりした島ではなく、本当に小さな、岩場のような島に腰掛けていた。
空は少しだけ赤みを流し込んだように、不思議なコントラストに色付いている。雲の色まで染まっていた。段々とそれが海にまで流れ込んで来ているような錯覚に陥る。
海が青から赤に染まらないように、必死に波で押し返そうとしているのに、次第に赤に侵食されていくかのようだ。ゆっくり、ゆっくりと赤が海月達の元へと伸びてくる。
海月はそんな風景を見ながら、波の音に耳を傾けていた。アオも何も言わずに付き合ってくれている。
「…アオ、今日はありがとう。こんなに“海”を感じたのは初めてだった」
「ミツキに楽しんでもらえたようで良かったよ」
「うん。すっごく楽しかった! 色んなことがありすぎて、うじうじ悩んでるのがバカみたいって思えちゃった」
「そう」
「…私ね、本当は自分が悪いってこと分かってるんだ…いや、陸に『愛想振りまく』って言われたのは不服なのは違いないんだけど! そもそも陸に来てって言われて行ったのに、集まってた女子達の応援する姿を見てたらなんか嫌に思っちゃって……自分もあの人たちと同じに見えるのかな? って勝手に思って、なんていうか反抗心で相手チーム応援しちゃったところがあったから…やっぱ、悪かったな…って」
「うん」
「でも、陸とケンカなんて滅多にないし、すごく久しぶりだし、陸があんなに怒るなんて…そんな、ないし…それで、どうしていいか分かんなくなっちゃって…」
「でも、ミツキは仲直りしたいんでしょ?」
「…うん」
「じゃぁ、仲直りしなよ? ねぇ、ミツキ。海は広いでしょう?」
「うん」
「今日見た海はほんの一部だよ? もっともっと広いんだ! そして何が起こるか分からない。あんなに楽しそうに泳いでキラキラしてた魚だって、突然命が終わるんだよ?」
「ああ、あのイルカ達ね。すごかった…」
「でしょう? 本当に海は色んなことが起こるんだよ。キラキラしてるし、陽に照らされてあったかいけれど、命のやり取りだって多いし、激しく荒れたり、氷のように冷たくなることもある。でも海でも陸でも仲間との別れなんて突然来ることもあるでしょう? 僕だって…」
「アオ?」
「…ううん。なんでもない。
ねぇ、ミツキ。世界は明日には何が起こるか分からないんだ。ううん。明日じゃなく、今この瞬間にも何かが変わっていってるんだ。
ミツキは彼のことを大事に思っているんだろう?」
「…うん。大事な…友達……」
「じゃぁ、ちゃんと仲直りしなきゃ! ……どう、かな? 仲直りできそう?」
「……うん、多分……ううん、絶対できる!」
海月の返事を聞いて、アオは満面の笑みで「頑張って!」と応援した。
二人は赤に染まった海を泳いで戻って行った。