7月31日 ①
「はぁぁぁ~~~~~~」
海月は目が覚めてすぐ、大きなため息を吐いた。
体調が悪かったわけでも、寝起きが悪かったわけではない。
ただ、陸とケンカしてから仲直りするきっかけもないまま数日が過ぎていた。それだけのことだ。
どこから聞いてきたのか、弟の葉月にも「ぜってぇ、姉ちゃんが悪いんだから、早く謝って仲直りしなよ?」と言われてしまっていた。「なんで私が悪いって決めつけるんだ!」と言い返したかったが、自分でも思うところはあったので言い返さなかった。
それでもまだ自分は悪くないという思いが少なからずあるせいで、一歩踏み出せないでいるのだ。
おかげで、何度もため息ばかり吐いて家族から「辛気くさい」と非難される始末。
テンションが下がっている理由には、あの不思議な少年ともあれから一度も会えずじまいでいるのがもう一つの大きな要因でもあった。
陸とケンカしたその後も、昨日も。なんとなく会いたくて、あの捕鯨場に行ったのに、会うことは一度もなかった。
少しの時間しゃべっただけの、名前も知らない、不思議な男の子。
なんでこんなに会いたいのかは自分でも分からない。
そして、夏休みに入って7月最後の今日も、また会えないんじゃないかと思いながら、やっぱり一目確認しておきたくて、初めて会ったあの場所へと自転車を走らせた。
真っ先にスロープを確認した。
いなかった。
もしかしたら、海の中にいるのかとも思い、息継ぎに出てくるんじゃないかと少しの間、海を見つめた。
浮き上がって来なかった。
海の中にいないのであれば、捕鯨場の跡地のどこかにいるかもしれないと、探し回った。…いない。
捕鯨場の奥にある大きいものや小さいものなどのごろごろとした雑多な岩場も防波堤から眺めてみるが、見当たらない。
名前を呼ぼうにも海月は少年の名前を知らない。呼びようがなければ呼べない。
(今日も会えない、か…)
海月は少年がいなくとも泳ぐつもりでいたにも関わらず、とてもそんな気になれずにため息と共に自転車へと足を進めていた。
(…………えっ!?)
通りすぎた視界の端、スロープに人影があった気がした。
バッと視線を戻せば、そこには、探していた姿があった。
会いたかった人物が目の前にいるのに、驚きで海月は何も言えずにただ見つめることしかできなかった。
すると、少年が海月に気づいた。
「やあ、こんにちは」
柔らかく微笑んだ表情は海月のことを忘れてはいないようで安心した。
ようやく海月も少年の方へと足を進めることができた。
「こんにちは」
「今日は飛び込まないの?」
「え?」
少年に言われて、自分が泳ぐつもりで来ていたことを思い出した。いつもは無性に飛び込みたくて来るのに、少年に会えなかっただけでそれさえも忘れて帰ろうとしていたのだ。
陸とケンカしたことも原因かもしれないが、本当に落ち込んだのだ。それがなんとなくおもしろく思えて海月は、ふふっと笑った。
「?」
「君のこと探してたの」
「僕のことを?」
「うん。会いたいなぁと思って」
「そう?」
少年は不思議そうに、その優しく深い青で海月を見つめた。
それがなんだか嬉しくて海月は「そうなの」と笑った。
海月は少年の横に腰かけ、ずっと聞きたかったことを少年に質問しはじめた。
「ねえ、君はこの辺りに住んでるの?」
「…うーん?」
「どこか外国から来たの?」
「…うーん?」
「学校はどこ?」
「…うーん?」
(さっきから、うーんばっかり。教えたくないのかな? まあ、会ってまだ二回目だしなぁ…)
「最近ここに来たの?」
「…最近…この間の海が荒れた時……」
「え!? あの天気の中、船が走ったの!? 海荒れたでしょ?」
「うん? うん。海、渦巻いた」
「はあ~、大変だったねえ。さすがの私でもそれだと酔っちゃいそう…」
「それでここに着いた」
「そっかあ~。じゃあほんとに着いたばっかりなんだね!」
「うん」
「ねね! あなた名前はなんて言うの? 私は雨宮。雨宮海月って言うの」
「僕? 僕の名前は……××××××・×××××」
「……………?」
「僕の名前はカエ××××ス・ケ××××」
「ええと、蛙? 毛糸…?」
一度では名前をすんなり聞き取れなかった海月に、少年は何度か名前を繰り返した。
ゆっくり言ってもらってようやく『カエルレウス・ケートゥス』。少年が口にした名前を言えるようになった。
カエルレウス・ケートゥス。正直カタカナで言えるようになったものの発音が難しい。何度も口にしていると、少年がクスクスと海月に声を掛けた。
「ねえミツキ、僕のこと”アオ”でもいいよ? 僕の名前には”青”という意味があるからね」
「青? ……アオ」
「うん」
”アオ”と呼ぶと少年が返事をする。お互い顔を見合わせて笑った。
「それで? ミツキはそんな質問のために僕を探していたわけではないでしょう? どうしたの?」
「あ…」
もちろん、アオのことを知りたくて会いたかったのは本当なのだが、会いたいもう一つの理由を思い浮かべて、今更ながら自分の『友達とケンカしてどうしようか悩んでる』なんて話をしてもいいものだろうかと、逡巡する。
「ミツキ? 話してみてよ」
こてんと首を傾げながらアオが微笑む。
私はこの間の陸とケンカしてしまった流れを話して、仲直りができないでいると吐露した。
*
「ふうん? 僕にはケンカする理由が分からなかったけど、素直にミツキが仲直りしたいって思ってることを伝えるんじゃダメなのかな?」
「…私も正直、陸があんなに怒るなんて思ってなかったんだよね…陸はいつも私といる時は笑ってくれてたから…あ~もう、どうしよう!」
「……うん。そうだな。そうしよう!」
アオが何か一人で納得したように頷いている。
「ミツキ! 僕に身を任せて! そんなこと、この海の広さを感じれば、ちっぽけに思えるさ!」
「え!? アオ何!? ちょっ!?」
アオに手を引かれて向かった先は海だった。
深くなったスロープの横から一緒になって飛び込んだ。
顔が海の中に入る瞬間に大きく息を吸い込んで止めた。ブクブクと泡がなでていく感触をその顔で感じた。目を開くと、アオの顔が海月の顔のすぐ近くにあった。海月が驚くのも気にせず、アオは自分のおでこと海月のおでこを合わせた。それ以上は近付いてこなかったが、目をつむったアオの顔が間近にあって、なぜだか海月の心臓はうるさかった。
アオの不思議な声が耳に届いた。水の中で喋ることなんてできないはずなのに、確かに言葉が聞こえたのだ。さっきまで聞いていたきれいな声で。海月の知らない言葉で。
すると、揺らぐ波の流れが自分たちを囲むように感じられた。
アオが何かを言い終えると、目を開いてニッコリと微笑んだ。その瞳は光に揺らいで見えた。
「もう話しても大丈夫だよ?」
「えっ!? しゃべっ、あわっ、息がっ!?」
思わずつられて話してしまい、慌てて鼻と口を覆った。
ポコポコと空気の泡が海から逃れるように空を目指す。
(あ、あれ? 苦しく、ない?)
チラとアオを見れば微笑んだままだった。海月は怖くもあったが、ダメでも目の前の少年が助けてくれるだろうと信じ、意を決して握りしめた手を緩めた。
「海中で息ができるようになったわけじゃないよ? 潜っていられるのが長くなっただけだから、苦しくなったら言ってね?」
「う、うん」
「じゃあ、行こうか」
「アオ?」
アオは海月の手を引きながら防波堤の外へと泳いでいく。
海月は身一つで沖に出るのをためらった。
「大丈夫。僕に任せて? 守るよ」
安心するようなアオの表情に、海月はゆっくりと頷いた。