7月29日 ①
今日は登校日でもないのに海月は学校にいた。
まあ学校と言っても夏休み中にわざわざ学校で勉強するわけでもないので校内に用はなく、今現在いるのも学校の校庭だった。
まだ午前の時間だというのに、すでに太陽はジリジリと猛威を振るい始めている。
熱中症予防のために買ってきたばかりのスポーツ飲料のペットボトルは、すでに温度差に耐えられずに、大粒の水滴が生まれている。
その逆の手には小さなチャック式のトートバッグが提げられていた。
夜中に冷やされた砂地のグラウンドも次第に熱を帯びはじめるのだろう。
アスファルトよりはその熱を吸収してくれるとは思うが、同じ砂地でも海の砂浜とは感じるものが違う。水はけを重視した固い学校のグラウンドと、掘れば海水の染み込んだ熱いようで冷たい砂浜。風のないこの場所と、海風の心地いいあの場所。
そんな熱気のこもるようなこの場所では、約束の時間よりも一時間早く出て来たというのに、二組のサッカー部員たちが体を温めるためのアップ中だった。白地に赤ラインと、黒字に水色ラインのユニフォームだ。
我らが陸所属のチームは白地に赤ラインである。
まだ夏休みに突入して10日ばかりだというのに、皆、黒く変色していた。…変色、というのは失礼だろうか。こんがりと焼けていた。
白地なのが余計に肌の黒さを目立たせているのが、なんとも面白い。
グラウンド横にある、運動部員たち用の部室棟は二階建てで、ちょうど一階部分に日陰ができていた。そこにはすでに陸好きガールたちが群がっていた。まあ、もちろん、陸だけの応援ではない人も中にはいるのだろうが、あれだけ固まっていると、一緒くたにしても問題はないだろう。“恋する乙女”たちだ。
まだアップの段階だというのに声援を送るその集団の一部が海月の存在に気づいて、ものすごく嫌そうな顔を向けてきた。
遠藤唯芽を含めた例の図書館襲撃メンバーだ。
「あの子、あれだけ言ったのにこんなところまで来るなんて!」
「すごい図々しいわよね!」
口々に海月のことを揶揄する。その言葉は海月にも聞こえていた。もしかすると、わざとなのかもしれない。
(聞こえてるし。いや別に私この間の件を了承なんてしていないし、陸本人から応援に来いって言われただけだし、悪くないもんね)
どこをどう歪曲させて、海月が陸から離れることを了承したとでも言うのだろうか。応援に来るなと言うなら陸にそう直談判してほしいものだ。
女の集団心理とは、かくもおそろしいものである。
「あれ唯芽にライバル心でも燃やしてるんじゃない!?」
「そうね! あいつ滅多にサッカー部の試合とか見に来ないのに、この間のことがあったから牽制で出てきたに違いないのよ!」
(へいへい。もうそれでいいよ。本当にあきれ果てるわ)
ちなみにその遠藤唯芽は「ちょっと、皆! やめなよぉ!」と言っているが、その言葉は弱く、海月にしてみれば止めているようで止めてはいない。
サッカー部の何人かはそんな彼女に癒されているようだけれど。多分こちらの会話までは聞こえていない。
(はあ。めんどくさい。あっちで見ておくか)
集団から離れ、フェンスに寄りかかってアップを眺めた。
(…あ。来てくれたのか)
アップの合間にようやく陸が海月の存在に気が付いた。
一人離れたところにいたけれど、海月も陸に気付いてひらひらと手を振ってきた。陸も軽く手を挙げて応えた。
(へへっ)
自分が誘ったら、来てくれた。
その事実だけで、陸は今日の試合に勝てそうな気がした。
「きゃーっ! たちばなくぅーん!」
「へっ!?」
陸が海月に挨拶をしたから自分達にも返してくれると思ったのか、陸好きガールズが黄色い声を上げた。
反応に困った陸は、とりあえず、軽く会釈して返した。悲鳴が上がった。
「おい! 陸ぅ! 相変わらずモテてますなあ!」
「あ~、マジで遠藤さん激カワじゃね?」
「お前ちゃんと断ったのかよ!? あれ完全にお前の応援に来てんじゃねえかよ!」
「あいてっ。何すんだよ! ちゃんと断ったよ!」
「ほんとかぁ~? あ~ユメちゃん。俺だったら即オッケーで大事にしてあげるのにぃ!」
「お前はないだろ。お前は。なんだよその動きは気持ちわりい」
「なんだとぉう!? 優しく抱きしめてチューしてんだよ!」
「「うえええ」」
陸の周りで同級生たちが盛り上がる。
「でもよ、陸。お前こんな時に雨宮さん誘ったのかよ?」
「ん? うん。こんな時って?」
「雨宮、山口先輩に告られたばっかじゃん?」
「あー、でも断ったんだし…」
「つっても先輩はまだ未練あんだろー! 見ろよ。すっげー見てんじゃん」
「…………………見んなよ」
「おっ前ワガママ! それも分かった上で誘ったんかと思ってたわ!」
「……んな余裕あるかよ」
「それにさー。お前他にも考えなきゃだったろう?」
「他!? 他にも誰かいんの!?」
「いやいや、そーじゃねーし。雨宮さん、お前と仲良いからさー。…ほら、なんか女子たちに威嚇されてんじゃん」
「え?」
陸が後ろを振り向くと、その女子たちはキャーキャーと手を振っていた。
「何が?」
「ええぇー。女子ってこええ…」
陸が背中を向けている時には海月を睨み、陸が顔を向ければ何事もないように声援を送る。ある意味すごい芸当と察知能力である。
意中の人を射止めるなら周囲からというのも大事であるというのに。したたかなのは遠藤唯芽のみである。
そんな話をしてるところへ、後輩の一人が走ってきた。
「せ・ん・ぱ・い・た・ち! 喋ってないで早く集合してくださいよ! 早くしないと伊織が怒りだしますよ?」
「げ。そういや、こっちにも怖い女子が一人いたな」
「ははは。うちのマネージャーは怒らすと怖いからな」
「先輩たちが怒らすようなことするからじゃないっすか」
「一樹~、お前一年坊主のくせに言うようになってきたなあ! てか、お前もしょっちゅう怒られてんだろ!」
「俺らは慣れてるからいいんすよ~」
「幼なじみとかテンプレかよこのヤロウ」
「違いますよ。普通に幼なじみっす」
「あんだけ仲良いのに?」
「どんだけ仲良くてもっす。そっから先に進むか進まないかは本人たちの気持ち次第っしょ? 俺らにそんな気はないんだから、普通に、“幼なじみ”なんす」
「え。それって、狙っていい系?」
「うーん…狙えるもんならいいんじゃないすか?」
「何それ」
「伊織に惚れさすことができんならいいってことっす」
「どういうことだよ?」
「だからですね~あいつには」
「くぉらぁ~っ! 一樹ぃ~っ! なんでアンタまで戻って来ないのよ~っ!」
「げ。ヤバ! ほら、先輩たち早く早く!」
「「「「お、おう!」」」」
陸たちはマネージャーの雷が落ちないようにダッシュで集合した。
(『そっから先に進むか進まないかは本人たちの気持ち次第』か……俺はどうしたいんだろうな…)
先に進みたいのに、恋愛ごとに興味のなさそうな海月を前にすると関係を崩してしまうようで、足踏みしてしまうのだ。
一方海月は、サッカー部の一年マネージャーの声に慌てて集合している陸たちを見ながら「あいつらは一体何やってんだか?」と笑っていた。
ピーーーッ!
試合開始のホイッスルが鳴り響き、近隣の高校との練習試合が始まった。練習試合といえど、今日の相手はこれまでに幾度と試合を経て、ほぼ互角の勝負。お互いに負けるわけにはいかない―――のだが。
「キャーッ! 橘くぅーん!」
「頑張れ井上く~ん!」
「山口せんぱーいっ! いけーーっ!」
少女たちの応援はなかなかに試合を乱すきっかけとしては大きな役割を果たしていた。
応援のあるチームとないチーム。動きにも影響が出てくる。こちらがボールを持てば歓声が沸き、あちらが持てば非難が飛ぶ。きっと相手チームはやりにくいことこの上ないだろう。プロであればそれも試合の一部と言えようが、まだ高校生。精神を乱れに乱され思うようにプレイができていないようだった。
声援による後押しを受け、守備も攻撃も連携も上手くいっている白チームは乗りに乗っていた。
海月は段々、相手チームに感情移入しはじめていた。
陸の応援に来たのだから勝ってることを喜んでいいのだろうが、周囲のーーー恋する乙女たちの熱狂ぶりを見ていると、自分の応援なんていらないだろうという気になるのだ。
そんな時、相手チームがボールを奪ったそばからスライディングで陸がボールを外へと弾き出した。
ボールが海月の方へと転がってきた。拾い上げると、相手チームの一人が「すいません!」とボールを取りに走ってきた。
海月はその相手に思わず「頑張ってください!」と声をかけながら、ボールを手渡した。黒チームの選手は少し驚いた表情をしたが、すぐに笑って「ありがとう」と言って試合に戻って行った。
自己満足に頷く海月を、少女たちは怪訝な表情で見つめ、陸は相手チームへの闘志を密かに燃やし、陸の友人たちは見て見ぬふりをした。
結局、今回は陸たちのチームが文句なしの勝利を納めた。後半、海月の敵チームへの応援というイレギュラーはあったが。チームメンバーはそれはもうハラハラしていた。試合中、海月への見えない懇願があちこちから出ていたのを海月は気づいていない。