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クラゲの夏  作者: 暁 海響
3/21

7月24日

 履いていたサンダルを脱ぎ捨て、熱いコンクリートへと素肌が触れる。焼けるような熱から早く解放されたいとつま先立ちで走って、ジャンプした。


 ちょうど満潮に近い深さになった海面がいつもよりも近く、ほんのちょっとだけ早く、その冷たさを感じることができた。海底はこの間よりも遠く、ひんやりと冷たい温度を保っているが、光は十分に届いている。海の色が少しだけ深い。


 水の流れが体にまとわりつくのを視覚化するように、シャツが体の動きと逆の動きをして絡み付く。


 サンゴの間からオレンジ色のクマノミが顔を覗かせる。産まれたばかりだろうか、少し体の小さなクマノミもイソギンチャクに寄り添うように泳いでいた。

 黒と黄色の名前も知らない魚も群れをなして泳いでいる。小さなエビもそのハサミの付いた前脚を使って上手に餌を口へと運んでいる。

 わずかにある砂地にもよく見れば同色の魚が何匹か見える。


 ぷかぷかと浮いていると指先にツンツンと何かが当たる。じっと動かない海月が気になったのだろうか。小魚が指先を食むようにつついてくる。

 チクチクと痛いような、くすぐったいような感覚に「ふふっ」と笑いがもれる。

 指をフリフリと動かせばその動きに驚いて小魚は泳ぎ去ってしまう。しばらくすればまた戻ってつついてくる。

 それだけでこの海が、季節がいとおしく感じる。


 今は海が最も美しく生命に溢れる季節だ。





「海月、そんなとこで寝ちゃう前にお風呂早く入っちゃいなさい」

 ソファーに寝転び、うとうととまぶたが重くなってきたところをすぐに母親が気付いて、そう声をかけてきた。ふっと現実に引き戻されると、このまま寝てしまいたいと思いながらも体を起こした。

 ほとんど寝ている頭をゆらゆらと揺らして睡魔と格闘した。


 海から上がって一度はお風呂に入ったが、季節は夏。汗なんてすぐにかいてしまう。寝る前にもう一度入らなければならないだろう。

 泳いだあとはいつもこうである。


「―――地方の明日の天気は晴れ。最高気温は36℃と猛暑日になるでしょう。お出かけの際には水分をしっかりと摂るように注意し、熱中症対策は万全にしてください」

「明日も暑そうだな」

 父親が天気予報を見ながら、そう呟いた。

 ピッ

「―――君の笑顔は夏の眩しさにも負けない~♪」

 ピッ

「田中総理! きちんとした質疑応答を―――」

 ピッ

「―――が砂浜にたどり着けなかったり、イルカが大群で浜に打ち上げられたりと異様な行動が―――」

 ピッ

「そんでな、こないだこいつが、なんて言うたと思う!? せっかく起こしてやってんのに『あかん、もう食べられへんねやー』て言うたん! 何がもう食べられへんねん! 口ん中俺の靴下ツッ込んだろうかと思うたわ! 寝ぼけんのも大概にせぇよ!」

「うーん、特に何もないなぁ」

 ピッ

「お、ワンピ。これ映画か。夏休みになるといつも特集があるな」

「もうすぐこれの新作映画があるんだよ」

「ああ、それでか。葉月これ見るか?」

「うん。何も見るのないなら俺これ見たい」

 父親と弟がテレビのチャンネルの話をしているのが遠くで聞こえる。海月の頭は座ったまま舟をこぎはじめていた。

「海月! 早くお風呂入りなさいってば!」

「おー、こわ。姉ちゃん早く入ってきた方がいいんじゃね?」

 弟にまで急かされた。父親にもアゴで行ってこいとドアを指された。

「そだね…」


 汗を一気に流すように頭からお湯を被った。

 さっきまでの眠気が一気にどこかへと消えていった。

 体を洗って湯船に浸かると焼けた肌が微かにチリチリと痛んだ。


 夏休みに入ってたった数日でこれである。

 胸と腕の色を比べてみると結構な差ができていた。同級生の女子たちは美白だなんだと体育の時間もこれでもかと日焼け止めを塗りたくっているのだから、海で泳ぐなんてバカなことをする人はいないだろう。


 将来シミになる?

 どんとこいである。

 これから先、きっとこんな風に泳ぐことはできなくなっていくんだと嫌でも分かる。ならば、今を楽しまなくてどうするというのだ。





「あづぅ~い~、うるさぁ~い」

 机に向かった海月は、うだる暑さと力の限りに鳴き続けるセミの声に集中力なんてものはどこかへと逃亡していた。

 今日は夏休みを満喫しすぎてしまう前にと、少しでも勉強を進めておこうと思っていたのに、この猛暑日の暴力的な暑さといったら。

「無理だ!」

 自宅での勉強を早々に切り上げ、少しばかりの勉強道具とパンを一つ引っ提げ、外へと飛び出した。

 こんな日に、涼しく、静かな、お金のかからない勉強ができる場所。図書館へと出掛けた。

 マックやロイホなんかのファーストフード店で勉強道具を広げる人も多いけれど、海月は図書館が好きだった。


 図書館の自動ドアが開くと、外界を遮断しているかのように空気がガラリと変わった。

 フワリと肌を冷やす心地いい温度に、静かな落ち着きのある空間、本棚には高く並べられた分厚い本、カウンターでは新しい本が入ってきたのか、装丁の破れ防止のためのラベリングや、貸し出しの際に必要なバーコードを貼る作業に司書たちが没頭している。新しいもの、古いものなどの本特有の匂いが鼻につく。とても快適な空間だ。

 だが特に海月を喜ばせたのは暑くも寒くもない完璧までに管理のなされた室温である。

 ガンガンに冷えた温度ではないものの外の暑さからすれば、ひんやりと心地よく感じるほどの温度。

 保管されている書物を守るための温度が海月の火照った体を徐々に落ち着かせてくれる。ほっと一息、勉強するための場所を探した。


 多くはないものの、小さな子どもと一緒に来ている母親や、年配の男性などの一定の利用客は常にいる。

 ちょうどよく勉強道具を広げても大丈夫そうな席を見つけて歩き出すと、「あ」という声が横から聞こえてきた。視線を向けると目が合った。彼女は確か隣のクラスの子だ。彼女も勉強しに来ていたようだが、友人と呼べるほどの関係ではないため、お互い会釈のみで済ませた。

(なんだろう? 私が図書館にいるのが珍しいとかか?)

 いつも活発に動いている自覚はある。大人しく本を読むなんてイメージがなかったのかもしれないと納得した。



「はぁ~、終わったぁ~」

 腕を伸ばして固まった体をほぐす。結局、勉強の合間にイートインスペースで持ってきたパンをかじったり、本棚にあった図鑑や物語に逃亡してみたりと過ごした結果、勉強を終えたのは閉館も近い時間だった。

 館内の残っている人は大分減っており、隣のクラスの子ももうすでにいなかった。

「帰りますか」

 荷物をまとめて外へ出ると、子供たちへ帰りの時間を知らせる”菩提樹”の音楽が流れていた。コンクリートが日中の溜めに溜めた熱を放出するようにモヤのように肌にまとわりついてくる。


 自転車のカギを解除して帰ろうとすると、「雨宮さん」と呼び掛けられた。

 振り返ると、見知った顔がいくつかあった。図書館にいた子も中にはいたが、声をかけてきたのは彼女ではない。海月はその集団の中央にいる声をかけてきた人物へと返事をした。

「こんにちは、遠藤さん。何か用?」

「ねぇあなた、彼女でもないなら橘くんに馴れ馴れしくしないでくれないかしら? 唯芽の邪魔をしないでほしいのよね!」

(私は遠藤さんに声を掛けたのに、なんで別の人が喋るわけ?)

 不躾に投げられたそんな言葉に、内心イラッと感じながらもどう答えようかと考える。

 彼女たちは牽制するために海月を探していた。だが家に直接行くことはせず、どこかで会うのを心待ちにしていたんだろう。SNSで網を張って情報を集めていたに違いない。図書館の彼女はおそらく海月の居場所の情報提供者だ。

「ねえ! ちょっと聞いてるの!?」

 ぎゃぁぎゃぁと金魚のフンが騒ぎ立てる。「はぁ…」と聞こえよがしにため息をつくと、彼女たちにキロリと視線を向けた。

「なっ、何よその目!」

「あのさ、遠藤さん陸の彼女なわけ?」

「えっ、あの…」

「唯芽につっかかるのは止めてくれない!?」

「はい? ちゃんと確認しておこうと思って聞いてるだけだし、私が陸と仲がいいとか悪いとか遠藤さん以外に関係なくない? それともここにいる皆、陸が好きなわけ?」

「なっ!? そんな、こと」

 集まった何人かの顔が赤く変わる。

「……そもそも突っかかられてるのは私なんだけど? 突然こんな人数で押し掛けてこられていきなり文句言われるってなんなの? 陸が近づいてほしくないって言ったり、好きな人や彼女ができたって言うのであればちゃんと距離は取るけど、陸に好きな人がいるとは聞かないし、彼女ができたわけでもないなら、私が仲良くしちゃいけない理由はないと思うのだけど? 遠藤さんもこんな風に周りに言わせるんじゃなくて自分で直接言ってきてくれないかな? そしたらきちんと話せるし」

「あ、そんなこと…」

「別に唯芽に言われたわけじゃないわ! 私たちが唯芽のためを思って勝手にやってることよ!」

「それでも、止めないってことは同調してるんだってば! あぁ、もうめんどくさい! 私今日はもう疲れたから帰るけど次からは来るなら一人ずつ来てくれる? じゃあね!」



 海月が帰ったあとに彼女たちは、文句を言うもの、行動を考えるもの、そそくさと逃げるものとに分かれた。

「何よクラゲのくせに…」そう呟いたのは彼女たちの誰だったのか。

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