8月5日
あれから、海月はアオとは何度か会っていた。
仲直りした翌日にはその結果報告をして感謝を伝えることができた。
「僕はなんにもしてないよ。ミツキがリクにちゃんと心を伝えることができたから仲直りできたんだから」と謙遜はされたけれど、海月はそれでも「自分の心が軽くなったから謝ることができたんだ」と伝えた。
アオは「そっか」と笑っていた。
そして、アオと何度も泳いでもいる。
サンゴが一番多いきれいな場所にも行ったし、今度はイルカと一緒に泳いだりもした。海の中から漁をする船の様子を見たりもして楽しかった。
海中に自分たちみたいな大きさの人間がいたら、ソナーに引っ掛かったりしないかドキドキだったけれど、特に騒ぎにはないっていないようだった。
「アオの魔法は万能だね!」とアオに言って、「ミツキはおもしろいことを言うね」なんて笑われたりした。
今、海月にとってアオと一緒にいることが一番楽しかった。ドキドキした。胸が熱くなった。
きっと、自分の世界の枠を壊して新しい世界を見せてくれるアオが特別な存在だからだと海月は思った。
今日は久しぶりの雨だ。
晴れの日にも、背を高く積み上げた積乱雲が時々急に雷雨とともに頭上に落ちてくるような雨を降らせることはあるけれど、今日は朝からずっとしとしとと続く雨だ。
こんな日は、ここ数日進んでいなかった勉強を進める機会だと思って、遊びに行くのは断念する。
家でこのまま勉強するのもいいけれど、海月は図書館へと足を運んだ。
前回嫌なことがあったわけだが、きっと今日もまた同じようなことは起こらないだろう、と傘を差して図書館へと出掛けた。
図書館内は晴れの日でも雨の日でも雪の日でも書物に負担の掛からない温度と湿度が設定されている。
夏の暑い日はガツンと体温を下げてくれるような寒さ、冬の寒い日には一気に解凍してくれるような温かさを人は好むが、図書館に至っては人ではなく、書物が優先される。外から入って来た時は、もっと温度を下げてほしいとか上げてほしいと思うほどの気温設定だが、長くいればいるほど人にとっても心地よい気温だと思えるのである。
図書館が長く時間を過ごせる憩いの場になるのはそういう要因もあるからかもしれない。
海月が図書館へと入ると、雨の日だというのにやはり一定数の利用者が各々に過ごしやすい場所で読書にふけっていた。
海月はガラス張りの大きな窓に近い場所にあった机に腰掛けて、勉強道具を広げた。
しばらく勉強に没頭していると、聞こえていた雨音が突然大きなものに変わった。
「ありゃ、すごい雨…」
どしゃ降りの雨は一つ一つの雨粒が大きいのか、すぐに目の前の庭にできた小さな池の中に、まるで空気が破裂しているかのような大きな王冠をいくつも作り上げている。
集中力も途切れたところで、とりあえず休憩するか、と背すじを伸ばした。肩から背中に掛かる負荷が気持ちいい。
ふと、視界に入った窓がヒビ割れている。いや、割れているのをそのままにはしないはずである。でも雨が滴り落ちているにしては不規則に縦横斜めにうにょうにょと曲がっている。海月はじーっと見つめて観察すれば、白くなっているそれを見て、ああ、ナメクジが這った跡か、と一人納得した。
(こんなどしゃ降りでも恵みの雨、か…)
海月は外の雨を眺めながら、不思議な友人のことを思い浮かべた。
(アオはこんな日は何してるんだろう? 『家はどこか』とか、『家族は何してるの』とか、結局答えは聞けずじまいだけど…)
そんな風に考えてはいるが、心のどこかで、彼がもしかしたら自分とは違うのだとも考えていた。
そんなありえない話があるわけがない。そう思いたいが、彼と遊ぶ時は不思議なことばかりなのだ。
海月はおもむろに一つのコーナーへと向かった。
そこは、この島の歴史資料がまとめて置かれている場所だ。並んだ書籍や資料をつらつらと指で追いながら、目的のものを探す。
「あ、あった」
パラパラとめくった本にはいくつもの写真が載っていた。その一つに目が留まり、さっと手を差し込んだ。
「へぇー。1600年代から始まってたんだ」
そこにあった写真――絵の写真――は怪物のような鯨が描かれており、周りには今で言う小舟に乗った人や、陸地に集まる人々も描かれているものだった。この地域の鯨漁の場面を描いたものだ。
それがなくなったのは明治も終わる前のことらしい。
「思ったよりも近かったな…」
もっと昔だと思っていた海月は、意外にも近かった歴史に、自分が泳いでる海を思い浮かべた。
それでも江戸時代前半から300年近くも続いたのだから、あの場所はずっと血で染まっていたのかもしれない。今ではあんなに青く澄んだ場所なのに。『ここは墓場なのかな?』少年の言った言葉が反芻される。
「本当に…墓場なのかもしれないね…」
海月は少年の問いに返すように呟いた。
数冊の本を手に、元いた場所へ戻っていると、本棚の角で誰かとぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
「いえ、こちらこそ、ごめんなさ……」
ぶつかった相手の言葉が不自然に途切れた。
海月の視線よりも僅かに目線の下がった相手は、陸に告白した相手――遠藤さんだった。途切れたことばが言い直されることはなく、別の言葉が発せられた。他意などないような、にこやかな笑顔で。
「あなたも来てたんだ?」
「うん。勉強しにね」
「そ。私達はちょっと雨宿りで寄ったのよ。勉強の邪魔してごめんなさいね?」
「ん? 別に邪魔されてはないけど…」
ただちょっとぶつかって、挨拶程度にしゃべっているだけなのだから、別に邪魔というほどではない。
でも、相手が“邪魔”だと言うのなら、相手はそう感じているのだろう。「じゃあ、ね」と言って早々に離れた。
席に戻ると、彼女が『私達』と言った意味が分かった。
彼女が合流した先にはサッカー部の面々と応援ガールズの姿があった。
多分、またサッカー部の練習試合か何かがあってその応援に集まっていたんだろう。もちろん応援ガールズがいるということは、陸もいた。
少しぐらいの雨ならせっかく組んだ試合を中止することはない。試合が終わって帰ってるところにどしゃ降りに遭ってしまった、というところか。
泥だらけになっただろうユニフォームはちゃんと着替えていたが、せっかく着替えた服も打ち付けるような雨で足元は完全に濡れていた。
司書たちの目がとても冷たい。
(掃除しなきゃだもんね…なんか私の方が申し訳なく思うわー)
そう思うのは、当の本人たちが特に何も思っていなさそうだからかもしれない。
(それにしてもさっきのはなかなか面白かったな…)
ぶつかった相手が海月だと分かった瞬間の唯芽の顔は、心底嫌な相手に会ってしまった! といった『げ』という表情だった。その後の変わりようを思い出すと笑いが出てしまいそうになる。
(おしとやか可愛いで人気がある遠藤さんの素の顔見ちゃったよ。あっちの方がまだ仲良くなれそうなのに。とにかく、陸には悪いけど今は関わらないようにしとこっと)
司書に仲間だと思われ非難の目を向けられるのも、陸としゃべってガールズに恨みがましい目で見られるのも本意ではない。
そう思って持ってきた本の続きを見ていると、目の前に誰かが座った。
「………何してるの?」
「ん? 海月を見つけたから会いに来てみた」
早々に自分の決めたスタンスが破られてしまった。
目線だけを動かせば、ガールズたちの鋭い視線が自分へと向いてるのを感じた。「ちょっと! あの二人ケンカしたんじゃなかったの!?」なんて声が聞こえてくる。司書の目がつり上がっている。その中に唯芽の声は聞こえない。
とにかく司書にだけは目をつけられないようにと、小声で話した。
「陸、皆が待ってるよ?」
「いーのいーの。ただ帰りが一緒になっただけだし!」
陸も同じく小声で話してくれたのでありがたい。
「練習試合?」
「おう。今日も勝ったぜ?」
「ふふっ、おめでとう」
「おう、サンキュ! そっちは勉強?」
「うん。一休みしてるとこ」
「ふーん? 何読んでんの? ……かい、じゅう図鑑?」
「そ。海獣図鑑」
海月の手にあるのは、海に住む哺乳類の載っている図鑑だった。
「海月の海好きは分かってるけど、どこまでいくつもりだよ? 学者とか?」
「別にそんなんじゃないって、ただちょっと気になって見てるだけだよ」
「ふうん?」
陸はまた図鑑を見始めた海月を見つめながら柔らかく笑った。
ガールズが騒がしくなり、とうとう司書から退出を迫られていた。
いつの間にか雨はまた、しとしとと降り続いていた。