第二夜話
「悪い、遅くなった。大丈夫か?」
「……フレッドぉ、遅いよぉ、手……握って」
半泣きでフレッドに右手をだす。左手には、あの時から手離せないクマのぬいぐるみをしっかり握りしめている。
ずいぶんとくたびれて、色褪せた感じだから、もう捨てられても良さ気な雰囲気を出しているが、俺にとっては大切な宝物だ。
「はいはい、悪かった。こんなに時間がかかると思わなかったんだ。もう大丈夫だろ? 安心しろ」
右手をギュッと握ってもらい、反対側の手で肩をトントンとあやすように叩かれて、ようやくひとつ深呼吸できた。
ベッドの上で丸くなって毛布を被り、じっと扉が開くのを待っていた。今日はいつになく雨音が部屋に響くような気がして、祈るようにキツく目を閉じ、フレッドが来るのを心待ちにした。
やっと来てくれた彼は神のように思えるくらい頼もしい存在だ。
椅子の上に膝を抱えたまま、しばらくフレッドの動きを眺める。酒を準備してもらって反対側に座るのを確認し、ようやく足を伸ばして寛ぐことができた。
テーブルに突っ伏して肩頬をつけながら、小さな声で呟く。
「フレッド……俺もう人間やめたい……」
「そこまで思い詰めることないだろ、今日は特に酷かっただけだし。何か疲れたとか不安なこととかなかったか?」
「んー、婆さんのお茶を飲み切ったからストックがなくなったことくらいかな? 最近は小雨程度なら気分が悪くなることもなかったんだが。今日は雨足が強くて、音が響き過ぎる」
酒を満たすグラスの中の氷がカラン、と立てる音が耳に心地よくて、頬をテーブルにつけたまま軽く目を閉じる。
はあっと深いため息をつきながら、俺はあの事故のことを思い出していた。
「あの事故の時も今日みたいに夕方から雨が降り始めてきてたんだよ……」
五歳の時だった。
母の実家へ泊まりがけで遊びに行っていた俺は、帰りの馬車で事故に遭った。
帰る時間ギリギリまで遊んでいたからか、同乗する母に興奮したまま話し続け、ひと通り喋り終わる頃には、疲れてウトウトと居眠りをしていた。
その日母からプレゼントされたクマのぬいぐるみをしっかりと握りしめ、馬車に当たる雨音を子守唄に聞きながら、とてもいい気分だったのを覚えている。
夕方から天候が荒れるということだったが、俺が母に早く帰りたい、と無理なお願いをしたために、馬車は足場の悪い山道を一気に駆け抜けようとしたのだ。
その瞬間、山肌から大岩が転がり落ち、同時に落ちてきた大量の土砂と倒木で、馬車が流されてしまったのだ。直撃だったのだろう、もの凄い衝撃音とともに体が宙を舞い、いろんなところに腕や頭を打ち付けて気絶してしまった。
気づくと馬車の中にまで土砂が入り込む惨状だった。馬車の御者と従者の姿は全く見えず、唯一姿が見えた母は俺を庇って既にこと切れていた。
半分埋まった土砂の中から救出されたのは、事故が起きたであろう時間から実に二日近く経った後だった。真っ暗な中から必死になって声を張り上げ、来るか来ないかわからない救出を待つことは、五歳の子供にはかなり過酷な試練だった。
救出された次の日から、三日間は熱をだしてうなされ続けたようで、ベッドから離れられるようになるまでに更に一週間近くかかったらしい。
あれ程優しく聞こえた雨の音が、死を運ぶ砂時計のように、馬車が土砂に埋もれて軋む音が死神の足音のように感じられ、それ以来、俺は雨の日になるとパニックを起こすようになってしまった。
泣きわめく俺を、見るに見兼ねた乳母と親父が必死で探し出してくれたのが、薬草を専門に調合する婆さんだった。
婆さんの調合してくれたお茶は、不思議と緊張を緩めてくれて、落ち着いて眠れるようになるまでに、さほど時間はかからなかった。
その日から今日に至るまで、婆さんのお茶は俺には欠かせない必須アイテムになっている。
「お前も難儀な体質だよな。親父さんは治ったと思ってるんだろ?」
「ああ、女遊び始めたあたりから放っとかれてるからな。実際俺だってその頃は大丈夫だと思ってたんだよ。親父に反抗することで何となく気分が晴れてたんだろな」
婆さんのお茶が体に馴染むようになるまでは、親父も毎日顔を見せてくれた。
その後も、かなり大きくなるまで、なるべく朝や夕方に顔を合わせて、必ず体調や様子を尋ねてきてくれた。
思春期に差し掛かった頃には、そのやり取りがとても煩わしいものだと思っていたが、忙しい仕事を無理に調整してまで、俺のために時間を作ってくれていたのだ、と理解できるようになったのは、親父の仕事を補佐するようになってからだ。
今では親父には本当に感謝している。あの頃かけた迷惑を今度は仕事で返そうと考えている。少しでも親父とフレッドの負担を減らすことができるように、と。
「女遊びに少し飽きてきた時に自分の部屋にいたら、急にすげえ雨が降った時があって。あん時親父も居ないから頼れるのがフレッドしか居なくって」
フレッドが俺からぬいぐるみをスッと抜き取ってテーブルに置きながら話す。
「俺だって驚いたよ。しばらく一緒に遊びに行かなくなったなあ、って思ってたら、急にコイツ持って俺の部屋来るんだもの。大の大人がぬいぐるみか、とびっくりするぜ、普通は」
「だよな、あんだけ強がってて派手に遊んでたし。俺も手離したいんだが……コイツはお守りっていうか、雨の日の保険みたいなモンだ。パニック起こす寸前で何とか踏ん張ることができるんだ」
「あの震えるお前見た時から、俺がアンディ守ってやるって思ってたけど、公務が増えてきたし、いづれ泊まりがけも出るだろうから、付きっきりは厳しくなるぞ?」
俺は両手で頭を抱えながら、半分涙目でフレッドに訴えた。あれから二十年近く経つのに、トラウマになっているこの雨の日の恐怖を、本当に乗り越えられる日が来るのだろうか。
雨が降り出す前に、自立するぞ、と誓った俺の意志が、ガラガラと音を立てて崩れていくのがわかる。ちょっとは持てた自信が急速に萎んでいくのを心で感じ、今は不安しか感じられない。
「婆さんも歳だし、お茶もなくなったら……俺死んでしまうかも。なあフレッド、俺が発狂したら、ひと思いにヤッちまってくれよな?」
「何アホなこと言ってんだ。そうなる前に対策考えるんだよ。とりあえず婆さんには薬っていうか、お茶の葉の調合の仕方とか聞いてこい」
少し仕事の話しやら遊びに行った時の話しをして酒を飲んでいたら、ガチガチに固まった体がリラックスできるようになってきた。
さて寝るか、とフレッドが言いながら立ち上がったので、一緒にベッドへ潜り込んだ。
「こうやって朝アンディの部屋から出て行く俺を見かけた侍女たちが、俺にホモ疑惑かけんだろなぁ。まあ、あの子たちはそれが暇つぶしだから言わせておけばいいけど」
「毎回悪いな、こんな醜態、フレッドじゃなきゃ見せらんないし」
「いいって。お前が安心して眠れるかどうかの方が大事なんだからさ」
「……フレッドぉ、俺が女だったらマジ惚れてるよ、男前だよな、お前」
ははは、と軽く笑って俺の頭をポンポンと叩く。それが合図だったかのように、ゆっくりと目を閉じると、瞬く間に夢の世界へと落ちていった。